19話「悠人」
開けたカーテンの隙間から、光が刺さるように差し込む。
頭の芯には、まだ鈍い痛みが居座っていた。
「二日酔いの数値、ようやく正常範囲に戻ったな」
キーロンの声は淡々としていたが、どこか呆れの成分が混じっている気がした。
「言うな」
「言ってない。数値を読んだだけだ」
水を一杯飲み干し、外の空気を吸おうと玄関を出る。
視界の端に、引っかかるものがあった。
港南学校の方角、空の低いところを、煙が這うように広がっている。
「学校の方に煙が見える」
「その距離は、私のセンサーの範囲外だ。ドローンを上げてくれ」
二日飛ばしていなかった機体を、荷台のケースから引っ張り出す。
畑の護衛以来の空白が、急に重みを持つ。
離陸。
上昇していく映像が端末に流れ込み始めてすぐ、キーロンの声が変わった。
「見えてきた。……量が多い。それに、時間帯もおかしい」
「炊事の煙とは違うのか」
「洗濯物の枚数や、煙が上がる時間の規則性から、定住だと判断してきた」
「あの積み重ねが、崩れてる」
言い回しが、いつもより滑らかだった。
「急ぐ」
「同意する」
数字も軽口も、ついてこなかった。
バリケードが見えてくる前から、音でわかった。
絶叫と、金属がぶつかる音と、獣じみた唸り声が入り混じっている。
「防衛隊、応戦中。数、把握できない」
さっきまでの滑らかさは消え、短く切り詰めた報告に戻っている。
正門前で、車を飛び降りる。
バリケード際で、元猟師の男が猟銃を構え、群れに向かって叫んでいる。
その隣では、元県警の男が警棒を腰に下げ、拳銃を構えていた。
足元には、すでに何体か倒れている。
人だったものとそうでないものの区別が、もうつかない。
「蓮!」
悠人の声だった。
人混みをすり抜けて、こちらへ駆けてくる。
顔は蒼白で、手が震えている。
「蓮、何してたんだよ」
「先生がいない」
責めるような声だった。
「朝倉先生がいないんだよ。探して、お願い」
「校舎か」
「わかんない。でも、いつも保健室にいるから」
肩を軽く叩いて、悠人を大人たちの方へ押しやる。
「わかった。すぐに見つけてくる」
「ここにいろ。動くな」
返事を待たずに、校舎へ走る。
昇降口は、ゾンビの死骸で塞がりかけていた。
踏み越えて、中へ入る。
「校内、映像なし。障害物多数、接触リスク高い」
「中は肉眼で探せ」
「わかってる」
廊下を走りながら、教室を順に覗いていく。
どこも空だった。
机が乱れ、椅子が倒れているばかりで、人の気配がない。
保健室という言葉を頼りに、廊下の奥へ向かう。
曲がり角で、影が動いた。
反射的にバールを構えたが、影は緩慢にこちらへ寄ってくるばかりだ。
一撃で沈める。
息を整える間もなく、また走る。
保健室の札が見えたところで、足がもつれそうになる。
ドアは、半分開いていた。
中に、朝倉がいた。
壁にもたれて座り込み、片手で自分の腕を押さえている。
顔色は、白を通り越して灰色に近い。
「矢代、さん」
声はかすれていた。
「来ちゃ、だめです。もう、時間の問題だから」
押さえた腕の下、めくれた袖の先に、噛み跡があった。
古いものと、新しいものが重なっている。
「畑で、あの子が噛まれたとき」
朝倉は俯いたまま、途切れ途切れに話し始める。
「隠しました。傷にも見えなかったし、噛まれたなんて、思いたくなかった」
「規則を、知ってたから、怖くて」
「保健室に、隠して。誰にも言わずに」
言葉の合間に、小さく喉が鳴る。
嗚咽なのか、別の何かの前触れなのか、判別できない。
「あの子、いなくなって。それから、みんな」
「もういい」
遮っても、朝倉は小さく首を横に振った。
「私のせいです」
朝倉が顔を上げる。
その目は、まだ朝倉のものだった。
「お願いします。矢代さんに、頼みたい」
何を頼まれているのかは、言葉にされなくても分かった。
腰の鞘から、剣鉈を抜く。
握り直す手が、一瞬止まる。
「……わかった」
近づく。
朝倉は目を閉じなかった。
最後まで、こちらを見ていた。
突き立てた後、しばらくその場を動けなかった。
肩が、小さく震える。
強く握りしめた手の甲に、頬を伝った涙が落ちていく。
「バイタル、異常」
キーロンの声が、いつもよりずっと控えめだった。
「……少し、待ってくれ」
「わかった」
それきり、キーロンは何も言わない。
朝倉の体を、ベッドに横たえる。
目を閉じさせてやることは、できた。
「時間がない」
キーロンの声は、低く抑えられていた。
急かすというより、そう言うしかないという響きだった。
剣鉈についた血を、ズボンで拭う。
立ち上がり、保健室のドアを振り返らずに閉める。
悠人に何と伝えるか考えながら廊下を歩くが、答えは出ない。
どこかから、物を叩くような音がした。
立ち止まり、耳を澄ませる。
「音源、二階、校長室方向。断続的」
キーロンの声にも、緊張が滲んでいる。
階段を駆け上がると、校長室のドアに縋りついて叩いているゾンビがいた。
背後から頭を潰し、崩れ落ちた体を蹴り退ける。
ドアは、内側から何かで押さえられていた。
肩から体当たりして、押し開ける。
机の下に、曽根崎が丸まっていた。
「た、助けてくれ」
声も体も震えている。
値踏みするような視線は、もうどこにもない。
腕を掴んで、引きずり出す。
好悪の感情は湧かない。
荷物を運ぶのと変わらない、機械的な動作だった。
廊下に出たところで、階段の下から足音がした。
「蓮!」
悠人だった。
大人たちの制止を振り切って、二階まで上がってきたらしい。
「先生は」
「朝倉先生は」
答えられなかった。
答えを探した、その一瞬の隙だった。
掴んでいた腕が、不意に抜ける。
曽根崎の視線が、悠人とこちらの間を一度だけ往復した。
次の瞬間、その両手が悠人の背中を突き飛ばす。
小さな体が、階段の下へ転がり落ちていく。
下の踊り場には、すでにゾンビが二体、這い上がってきていた。
「悠人!」
叫んだ時にはもう、体が動いていた。
曽根崎は突き飛ばした勢いのまま、反対側の階段へ駆けていく。
追う余裕はなかった。
階段を三段飛ばしで駆け下り、踊り場のゾンビを薙ぎ払う。
二体目を叩き伏せ、転がる悠人の元へ膝をつく。
「悠人」
返事がない。
頭の下に、黒く広がっているものがあった。
落ちた拍子に、どこかを強く打ったのだと分かる。
脈を探る手が、震えていた。
ない。
もう、動いていない。
抱き起こし、小さな体を胸に抱き寄せる。
まだ温かい。
搬入のたびに真っ先に駆け寄ってきた顔が、脳裏をよぎる。
お菓子をねだる声、大漁の魚に歓声を上げた顔。
断片が、次々と浮かんでは消えていく。
背後から這い寄る気配に、気づかなかった。
右腕に、鋭い痛みが走る。
「バイタル、異常値」
キーロンの声が硬くなる。
「噛傷、確認。検知が遅れた」
振り向くと、叩き伏せたはずの一体が、腕に噛みついていた。
もう片方の手でその頭を掴み、床に叩きつけて潰す。
悠人を抱えたまま、階段を駆け下りる。
廊下を抜け、昇降口から外へ出る。
「悠人、少し待っていてくれ」
小さな体を、地面にそっと下ろす。
抑えていたものが、喉の奥から一気にせり上がる。
言葉にならない咆哮が、あたりを満たした。
上空のドローンが、その光景を捉え続けている。
「筋出力、心拍出力、既存の記録値を更新」
キーロンの声は平坦なままだったが、報告の間隔がいつもより短い。
「……赤き旋風、か。本社のログには、そう記録されるんだろうな」
気づけば、あたりに立っているものは、一体もいなかった。
バリケードの際に、元猟師と元県警の男が折り重なって倒れている。
猟銃は、弾の切れたまま握られていた。
悠人を、もう一度抱き上げる。
少し離れたところで、権藤が立ち尽くしていた。
握ったバットの先が、地面についたまま動かない。
その目が、腕の中の悠人に落ちて、止まる。
権藤の口が開きかけ、何も出てこないまま閉じた。
脱出班に合流する。
曽根崎の姿は、見当たらなかった。
探す気力は、残っていない。
「行くぞ」
権藤が、掠れた声で言う。
それきり背を向け、列の先頭へ戻っていった。
しんがりにつく。
駐輪場を過ぎたあたりで、キーロンの声が入る。
「対象、確認。以前接触した個体と一致」
フェンスの向こう、崩れかけた外壁の隙間に、見覚えのある姿があった。
あの時、死体を漁っていた個体だ。
群れの中央に立ち、ゆっくりと腕を上げる。
その動きに合わせるように、周囲の群れが揺れた。
見間違いだ。
そう思うしかなかった。
振り払うように、視線を戻す。
今は、悠人を運ぶことを考えなければならない。
歩けない者と小さな子供を、調達班の車と軽トラの荷台に分けて乗せる。
残りは、車の後について歩く。
悠人の体を俺の上着で包み、荷台の隅に横たえた。
運転席に乗り込むと、噛まれた腕が、じわりと熱を持ち始めている。
「病院へ向かう」
キーロンの声に、迷いはなかった。
「わかってる」
エンジンをかける。
バックミラーの中で、燃える校舎から黒煙が広がっていく。
アクセルを踏んだ。




