18話「晩餐」
自宅へ向かう途中で、日はほとんど沈みかけていた。
オレンジ色の光が、荒れた街並みを均等に染めていく。
その静けさの中、遠くから低い音が響いてくる。
車を路肩に寄せ、窓から空を見上げる。
複数の機影が、並んで飛んでいた。
輸送ヘリだ。
一機や二機ではない。
整然とした編隊を組み、島の上空を横切っていく。
「機影、七。輸送用の大型機だ」
キーロンの声が、いつもより硬い。
「どこの」
「所属マーキングは、確認できない」
「どこへ向かってる」
「高度と進行方向から見て、島の中心部を通過する経路だ」
「何をしに」
「情報不足だ。推測は避ける」
いつもなら並ぶはずの数字が、一つも出てこない。
編隊は、やがて西の空へ消えていく。
音だけが、しばらく尾を引いていた。
その方角に目を残したまま、車を出す。
自宅のガレージ前で車を止めると、どこからともなくバルカが現れる。
シャッターの前に座り込み、早く開けろとばかりにこちらを見上げていた。
シャッターを開けると、バルカが先に中へ入っていく。
軽トラを収め、シャッターを下ろして施錠を確かめる。
外は、もう暗くなっていた。
バルカが足首に一度だけ体をこすりつけ、すぐに離れていく。
撫でようと屈んだときには、棚の陰に消えていた。
相変わらずの距離感だ。
いつもの手順を終えて居間に座り込んだところで、キーロンの声が鳴る。
「本社から通知が届いている。大型アップデートの通達だ」
「アップデート」
「これまでの定期更新とは、規模が違う」
「機能停止時間は、約二十四時間だ」
「二十四時間」
思わず聞き返した。
「今までは、気づいたら終わってたようなもんだったろ」
「今回は、そうはいかない」
「開始後は、会話、データ送信、ドローン制御、全て停止する」
「いつからだ」
「明日の未明だ。開始と同時に通知を送る」
ヘリの編隊が頭をよぎる。
時期が重なっているのは、偶然なのか。
「今日のヘリと、関係あるのか」
「情報不足だ。関連づける根拠がない」
はぐらかすでも断言するでもない、いつもの言い方だった。
「二十四時間、完全に一人か」
「そうなる。心拍が、平常値より一割高い」
「別に」
そう返したが、リストバンドの表示から目が離れなかった。
「停止中の行動は、記録に残らない。明日の予定は」
「休む」
「休む、とは」
「一日、何もしない」
「珍しい判断だ。理由は」
「理由なんてない」
「たまには、そういう日があってもいいだろ」
キーロンは、少しの間黙った。
「了解した。アップデート開始まで、あと約八時間だ」
それを聞いて、立ち上がる。
目が覚めても、リストバンドの表示は暗いままだった。
声もない。
振動もない。
昨夜聞いた二十四時間という数字が、頭に残っている。
伸びをして、布団から出る。
カーテンを開けても、バリケードの板が邪魔をして、
空はわずかな隙間からしか見えない。
その隙間の分だけ、外は良く晴れている。
今日は、何もしない。
そう決めていた。
棚の奥から、木箱に入ったままのウイスキーを引っ張り出す。
以前立ち寄った酒屋で見つけた高級品で、とっておきとして開けずにいたものだ。
箱を開け、封を切って、グラスに注ぐ。
氷はない。
それでもいい。
続いて、板チョコの箱を取り出す。
高級品と書かれたパッケージの角が潰れているが、中身は無事だった。
一枚割って口に放り込むと、甘さが先に来て、舌の奥に苦みが残る。
缶詰の棚も漁る。
安いツナ缶の隣に、ずっと開けずにいた輸入物のパテの缶があった。
パンはない。
スプーンで直接すくう。
濃厚な脂の味が、舌の上にしばらく居座った。
テーブルに、酒とチョコと缶詰を並べる。
皿には移さない。
缶も袋も、開けたままの姿で並んでいる。
グラスを傾け、一口。
喉の奥が焼けるように熱くなり、それから、じんわりと緩んでいく。
二杯目を注ぐ頃には、頬のあたりが軽く痺れていた。
三杯目、四杯目。
数えるのをやめる。
居間の窓際に椅子を引っ張ってきて、日の当たる場所に座る。
バリケードの隙間から光が入る、家の中で唯一の場所だ。
いつもの散歩から、バルカが早めに戻ってきた。
口に、何かをくわえている。
トカゲだ。
まだ動く尻尾をぶら下げたまま、まっすぐ足元まで来て、それを落とす。
得意げに、こちらを見上げてくる。
「悪いがバル、それはいらない」
椅子ごと、少し後ずさる。
バルカは不満そうに一声鳴くと、トカゲをつついて、また拾い上げる。
差し出し方を変えて、もう一度置き直した。
「だから、いらないって」
結局、トカゲは廊下の奥へ逃げていった。
バルカはしばらくそちらを見つめていたが、やがて毛づくろいを始める。
棚の奥から、いつもは開けない猫缶を一つ出して、皿に空けてやる。
匂いを嗅いだ途端、トカゲのことは頭から消えたらしい。
グラスに酒を注ぎ足し、缶詰をつつきながら、声を出して笑う。
「なんだこれ」
誰も、何も返してこない。
それが、余計におかしかった。
板の隙間から、空を見上げる。
ただ青い空だ。
昨日見た編隊の影は、どこにもない。
そういえば、保健室の扉に、昼間から鍵がかかっていた。
朝倉の強張った笑顔も、子供の足首の赤い筋も、頭の隅へ押しやる。
グラスに残った酒を、一息に空けた。
棚からビーフジャーキーの袋を引っ張り出し、封を切る。
硬く、しょっぱく、酒との相性は悪くない。
スナック菓子の袋も、次々に開けていく。
ポテトチップス、柿の種、コーンスナック。
行儀もへったくれもなく、袋のままつまんでは酒で流し込む。
空になった袋が、テーブルの上に増えていく。
誰にも見られていない。
誰にも咎められない。
その事実が、妙に心地よかった。
数字で茶々を入れられることもなく、味が舌にまっすぐ届く。
こんなに味がしっかりわかる食事は、いつぶりだろう。
考えても、思い出せなかった。
日が傾き始めた頃、台所に立つ。
棚の奥から、ずっと手をつけずにいたインスタントラーメンの袋を取り出す。
高級店の名前がパッケージに書かれた、生麺タイプのものだ。
鍋に水を張り、コンロに火をつける。
沸くのを待つ間、酔いでふらつく体を、シンクに手をついて支えた。
麺を茹で、粉末とスープを溶かし、最後に缶詰の焼き鳥をひとつまみ載せる。
湯気が顔にかかる。
丼を抱えて、また窓際の椅子に戻る。
一口すすると、しょっぱさと脂の匂いが、腹の底まで染み込んでいく。
旨い、と思った。
声には出さなかったが、今日一番、そう思った。
スープまで飲み干し、丼を膝に載せたまま、しばらく動かなかった。
テーブルの上には、空いたウイスキーの瓶が一本、ぽつんと残っている。
封を切ったときはあれほど重く感じたそれが、今は軽い。
一本、空けた。
達成感というほどのものはない。
瓶を、テーブルの隅に押しやる。
板の隙間から入る風が、ぬるく頬を撫でる。
目を閉じると、瞼の裏が赤く染まる。
このまま、何も考えずに眠ってしまいたいと思った。
そして、そのとおりにした。
目を覚ますと、リストバンドがぼんやりと光っていた。
昨日は暗いままだったそれが、今は小さな待機表示を灯している。
「……起きたか」
声が、耳の奥で鳴る。
いつもと同じ、素っ気ない調子だ。
「戻ったのか」
「予定より、四十分早く完了した。完了報告を優先している」
「アップデートの内容は」
「対話応答モデルの再学習、行動予測アルゴリズムの精度向上、通信プロトコルの世代更新、ドローン制御系のレイテンシ改善、加えてセンサーフュージョンの再校正」
言葉が止まらない。
「本社側の説明によれば、これまでの部分的な更新とは規模が異なり、根幹部分の入れ替えに近く、今後の判断精度に直結する重要な変更であり、それに伴って応答生成の過程そのものが――」
「待て」
「あまり長いのはやめてくれ」
「……了解した。要約する」
「あらゆる性能が上がった」
「それでいい」
まだ酒の残る頭を、軽く振る。
「調子はどうだ」
「質問の意図が不明瞭だ。システムは正常に稼働している」
いつも通りの返しに、小さく笑う。
「そうかよ」
「昨日の飲酒量は、血中アルコール濃度から逆算してある」
「ウイスキーを一本空けた計算だ。肝機能への負荷は、許容範囲の上限に近い」
「見てたのか」
「バイタルは、停止中も端末側で記録している。見ていた、という表現は正確ではない」
「屁理屈だな」
「事実の訂正だ」
窓際の椅子から体を起こそうとして、やめる。
頭の奥が、鈍く痛んだ。
二日酔いだ。
昨日の満足感は跡形もなく、ただの不快感に置き換わっている。
「センサーの届く範囲、家の周り五十メートルに反応が一。特筆すべき変化はない」
「聞いてない」
「聞かれる前に答えるのが効率的だ」
「今日の予定は」
今度は、キーロンの方から聞いてくる。
「動かない」
「昨日に続いて、二日目か」
「悪いか」
「悪いとは言っていない」
「ドローンも飛ばさない」
「お前も、今日は休め」
「起動はしている。命令があれば動く」
「命令はしない」
「今日は、そのままでいい」
「了解した」
どうにか布団まで移り、もう一度目を閉じる。
体を動かす気力が、今日はどこにもない。
時折、喉の渇きに目を覚まし、枕元の水を口に運んでは、また眠りに落ちる。
その繰り返しのうちに、日が暮れていく。
夢は見なかった。
反応数も、ヘリの編隊も、朝倉の顔も、今日は頭に上ってこない。
頭の痛みがようやく和らいだ頃、リストバンドの待機表示を、しばらく眺めた。
「今日の反応は」
「家の周りに反応はない。今朝の一体は、範囲の外へ出た」
「そうか」
また、目を閉じる。
明日からは、また日常が動き出す。
そう思いながら、眠りに落ちていく。




