16話「引火点」
曽根崎の「依頼の件」に、まだ答えていない。
引き受ける気にも、突っぱねる気にもなれずにいる。
物資の受け渡しに顔を出すたび、権藤が気まずそうに水を向けてくる。
そのたびに、話を逸らしてきた。
「依頼の件は、進捗ゼロだ」
「権藤がこの件を口にしたのは、この一か月で五回だ」
「催促されてるわけじゃない」
「権藤が困ってるだけだ」
「区別する意味があるのか」
「結果は同じだ」
言い返す気も起きず、荷台の縛りを確かめる作業に戻る。
今日の届け先は、病院ではなく学校だ。
缶詰と乾麺を積んだ軽トラを校門の前につけると、権藤が待っていた。
「矢代、実はその依頼の件でな」
「町内の備蓄倉庫、知ってるか」
「発生前に、町内会が食料や毛布を溜め込んでたっていう」
「知らない」
「曽根崎さんは、そこの物資を運び込みたいらしい」
「その護衛を頼めないか、って話だ」
「無理なら、断ってくれていい」
「俺から無理に頼める話でもないからな」
荷台のロープを、もう一度締め直す。
「場所は」
「それが……はっきりとは分からん」
権藤が言い淀んだところに、朝倉が横から顔を出す。
「私、知ってます」
「その倉庫、私が住んでた町内の、公民館の裏です」
「ああ、先生の地元、そっちでしたね」
権藤が、思い出したように言う。
朝倉の口調は、いつもの敬語のままだった。
ただ、言い終えたあと、唇を一度だけ噛んでいる。
「案内を頼めるか」
「行きます」
朝倉は迷わず頷いた。
「家にも、寄れるかもしれないので」
「私物を、取りに行きたくて」
その言い方に、権藤が一瞬だけ目を伏せる。
それ以上は聞かない。
「分かった」
「準備ができたら出る」
助手席に朝倉を乗せ、南へハンドルを切る。
権藤は、学校に残った。
「今日はドローン、飛ばさないんですね」
朝倉が、窓から空を見上げる。
「距離があるから、バッテリーを温存している」
「到着後の索敵に回す。移動中の巡回は、優先度を下げた」
キーロンが即座に答えた。
「いつも、そうやって相談してるんですね」
「相談じゃない」
「指示だ」
「否定はしないが、従う義務はないぞ」
朝倉が、小さく笑う。
道の両側で、枯れ草の間から彼岸花が赤く突き出している。
しばらく無言が続いたあと、朝倉がぽつりと口を開く。
「この先、私が住んでた町なんです」
「聞いた」
「一人暮らしで」
「猫を飼ってて」
言葉が、そこで一度止まる。
「名前は」
「ウメボシです」
「……ウメボシ」
「可愛い名前でしょう」
得意げな声だった。
「変わった名前だな」
「ちゃんと、ご飯食べてるか心配で」
「あの子、あんまり狩りとか得意じゃなさそうだったので」
「実は、俺も飼ってる」
「え」
「バルカって名前だ」
「バルカ……かっこいいですね、そっちは」
「呼んでも、大抵来ない」
朝倉が、肩をすくめて笑う。
「発生した日、ケージに入れて連れて出ようとしたんです」
「でも、外に出たところで、何かにぶつけちゃって」
「留め具が壊れて、そのまま逃げていきました」
「家の窓は、少し開けてきたんです」
「戻ってきたときに、入れるように」
「本当に戻ってきてるかは、分からないですけど」
膝の上で、朝倉の指が裾を握り込む。
「写真も、置いてきちゃって」
「家族の」
それ以上は、聞かなかった。
フロントガラスの向こうに、見覚えのない町並みが広がり始める。
舗装の継ぎ目が目立ち始めた頃、前方に異様なものが見えてくる。
速度を落として、近づいた。
廃材やドラム缶、錆びた自転車を組んだバリケードが、道路を塞いでいる。
崩れて溜まった形ではない。
人の手で積んだものだ。
朝倉が身を乗り出す。
「これ……誰かが、作った感じですよね」
「迂回路は」
「あったと思うんですけど、記憶だけなので」
声が、尻すぼみになる。
車を寄せ、サイドブレーキを引く。
「少し見てくる」
「先生はここで待っててくれ」
「私も」
「いい。動かなくていい」
朝倉が何か言いかけたときには、もうドアを開けていた。
「周辺の状況、把握してるか」
「巡回を絞っていたから、直近十五分の情報はない」
「今上げると、帰りの索敵に回す分が残らない。それでも上げるか」
「いや、いい」
「バリケードの様子を見てくるだけだ」
散弾銃は座席の後ろに残し、バールを手に取る。
発砲音で、何を呼び寄せるか分からない。
人の手で組まれたバリケードという時点で、何かがおかしいとは思っていた。
それでも、確かめないわけにはいかない。
バリケードに近づき、隙間から向こう側を覗き込もうとした時だった。
右の二の腕に、鈍い衝撃が走る。
痛みより先に、矢の飛んできた方向を探る。
バリケードの左手、崩れた塀の陰。
反射的に体を沈め、道端に放置された車の陰へ転がり込む。
「反応、遅れて検知」
「複数、周囲を包囲。数、六以上」
キーロンの声が、いつもより硬い。
利き腕が使えない程度なら、どうとでもなる。
バールを左手に持ち替え、車体の陰から気配を探る。
足音が、四方から近づいてくる。
汚れた作業着に、迷彩の切れ端。
出で立ちの揃わない男たちが、じわじわと包囲を狭めていた。
正面の瓦礫の上で、大柄な男が散弾銃の銃口をこちらへ向けている。
左目が白く濁っているのが、離れていても分かる。
「隠れても無駄だぞ」
「数はこっちが上だ」
「いいねぇ、隠れてくれた方が退屈しない」
この程度の数なら、片腕でも押し切れる。
頭の中では、倒す順番まで組み上がっていた。
「矢代さん!」
背後、車の方角から朝倉の声が上がる。
振り返ると、別の男が朝倉の腕を掴んで、車から引きずり出していた。
組み立てていた算段が、そこで崩れる。
飛び出しかけた足が、止まる。
朝倉の首筋に、ナイフの刃が当てられていた。
男のもう片方の手が、朝倉の腕をねじり上げている。
「出てこいよ」
「そっちの女、傷つけたくないだろ」
散弾銃の男が、瓦礫の上から見下ろして言う。
朝倉の顔がこわばり、目だけがこちらを探っていた。
「威力比較、散弾銃対投擲」
「距離次第では投擲が有利。ただし人質状況下では、選択肢が制限される」
バールを投げれば、正面の男は倒せる。
だが、その一投の間に、朝倉の首でナイフが動く。
朝倉を失わずに済む手が、一つも浮かばない。
「早くしろよ」
「こっちは気が短いんだ」
ナイフの男が、刃を朝倉の首に軽く食い込ませる。
朝倉の喉から、短い悲鳴が漏れた。
「やめろ」
車の陰から歩み出る。
バールを、足元に投げ捨てた。
金属が地面に当たる音が、やけに大きく響く。
「賢明だな」
散弾銃の男が、白く濁った左目を細める。
左腕を掴まれ、後ろ手に縛り上げられる。
腰の後ろの拳銃も、そのとき抜き取られた。
右腕の矢は、刺さったままだった。
手首に食い込む縄の結び目に、ふと意識が向く。
軍用の結び方じゃない。
どうでもいい観察だと分かっていても、体が勝手に拾う。
視界の端で、朝倉がまだ震えている。
連行される間も、縄の締まり具合を確かめ続けた。
朝倉から、目を離さないようにする。
連れて行かれた先は、廃工場だった。
薄暗いコンクリートの床に、足枷をつけられた人影がいくつも転がっている。
「今日は新入りが多いな」
「大漁旗でも出すか」
「いいねぇ」
散弾銃の男が、仲間と軽口を叩き合う。
「女は、向こうに入れとけ」
凄むでも笑うでもなく、在庫を仕分けるような口調だった。
朝倉の腕を掴んでいた男が、彼女を工場の隅へ引いていく。
金網で仕切られた一角に、朝倉が押し込まれた。
中には、数人の女性が縛られて座り込んでいる。
「矢代さん!」
朝倉が声を上げるが、金網の扉はすぐに閉じられ、南京錠がかけられた。
「大人しくしてろって言ったろ」
右腕の矢が、乱暴に引き抜かれる。
声を漏らすのも惜しく、歯を食いしばった。
傷口は、汚れた布切れで縛られたきりだ。
消毒も何もない。
続いて、足に重い鉄の枷がはめられる。
鎖の音が、工場の中に響く。
その間も、縄と枷の強度を、意識の隅で測り続けていた。
いつでも壊せる。
いつ、どこで使うかは、まだ決めかねている。
辺りを見回すと、拘束者は十人近くいる。
白髪の老人は、床に目を落としたまま動かない。
まだ若い男が、鎖の音に合わせて小さく震えていた。
誰も、声を上げない。
「今日の分、まだ増えそうか」
「あと二、三人は網にかかるだろ」
賊たちが、拘束者の間で気楽に言葉を交わす。
天気の話でもするような口ぶりだ。
金網越しに、朝倉と目が合う。
唇がわずかに動いたが、声にはならなかった。
拘束された者たちが、工場の中央に並ばされる。
若い男も、中年の男女も、等しく地面に座らされた。
「お前たち、よく聞け」
散弾銃の男が、列の前を歩きながら言う。
「勉強のため、先に見せといてやる」
「逆らったら、こうなるってことだ」
男が顎で合図すると、仲間の二人が、列の端から老人と子供を引きずり出す。
今日連れてこられたばかりの二人だった。
朝倉が、金網の隙間からそれを見ている。
その唇から、色が抜けていく。
老人と子供が、シャッターの前に立たされる。
男の一人がボウガンを構え、もう一人が散弾銃を肩に当てた。
「見とけよ」
「これが、これからの生活だ」
乾いた音が、二度続けて響く。
朝倉の絶叫が、工場の中に反響する。
言葉にならない悲鳴だった。
誰も、動かない。
賊たちは笑いも罵声もなく、結果を見届けるように立っていた。
拘束された者たちは、目を伏せるか、何も見ていないかのように固まっている。
今、動けば仕留められる。
だが、朝倉のいる金網の前には、まだ見張りが立っていた。
ボウガンの男が構えを解き、仲間に軽口を叩きながら歩き去っていく。
散弾銃の男も、興味を失ったように列へ背を向けた。
見張りが、一人、また一人と散っていく。
その間、動かずに数え続けた。
最後の一人が武器を肩に掛け直し、視線をこちらから外す。
手首を捻り、後ろ手の縄を引きちぎった。
足枷を掴む。
指先に力が入る。
鉄が軋む。
鈍い音を立てて、輪がねじ切れた。
散弾銃の男が振り返るより早く、その喉元に手刀を食い込ませる。
ボウガンの男の腕を、逆手に折る。
悲鳴を上げる間も与えず、賊を次々と薙ぎ払っていく。
使えるのは左手一本だが、傷も枷の跡も、動きを鈍らせはしない。
工場の中に、怒号と、骨の折れる音と、朝倉の泣き声が響いていた。
工場内が、静まり返る。
金網の南京錠を素手で捻じ切り、朝倉たちを外へ出した。
拘束されていた者たちの縄も、次々と解いていく。
だが、駆け寄ってくる者は誰もいない。
助け出された者たちは、じりじりと後ずさっていく。
互いの背に隠れるように、身を寄せ合っていた。
賊を素手で薙ぎ払う光景を、すぐそばで見ていたのだ。
礼の言葉より先に、見開かれたままの目がこちらに向いている。
朝倉が、金網の奥で震えている子供の一人に、ふらりと手を伸ばす。
指先が届く手前で、止まる。
その手は宙で行き場を失い、力なく下ろされた。
そのまま朝倉は、輪から外れた場所で立ち尽くす。
視線は、シャッターの前から動かない。
老人と子供が倒れていたあたりだ。
「朝倉」
声をかけても、返事が遅れる。
「……はい」
短く返して、朝倉はまた黙り込んだ。
一緒に来ると言う者は、いなかった。
工場を出る頃には、日が傾き始めていた。
「倉庫は、また今度でいい」
そう言うと、朝倉は小さく頷いた。
軽トラまでの道のりを、朝倉は一言も発さずに歩く。
助手席に乗り込んでからも、窓の外に顔を向けたまま動かない。
「家に寄らなくてもいいのか」
少し遅れて、朝倉が首を横に振る。
「今日は、いいです」
丁寧な口調は、変わらない。
まばたきの回数が、やけに多かった。
エンジンをかけ、車を出す。
膝の上で握られた朝倉の手は、帰り道の間、一度も開かなかった。
少し開いた窓の隙間から、夕日が差し込んでいる。
誰もいない部屋の布団の上で、ウメボシが丸くなって眠っていた。
体は痩せているが、毛並みにはまだ艶がある。




