14話「初雪」
湯気がどんぶりの縁から立ち上っている。
味噌の匂いが部屋にこもっていた。
棚から酢の瓶を取り、どんぶりの上で軽く傾ける。
色がわずかに変わるのを見届けてから、箸を差し入れた。
麺をほぐし、持ち上げては落とす。
湯気が散るのを待って口に運んだが、それでも熱い。
舌の先が痺れた。
箸をしばらく置く。
空になった袋の口を折り畳んで、端に寄せる。
表面に浮いた油が、少しずつ動かなくなっていく。
ふと、ずっと前に個人商店の棚で見つけた、
手つかずのアイスの味が頭をよぎる。
あの時は溶ける前に急いで齧った。
今は冷めるのを待っている。
「今日は冷えるな」
「八月時点の最高気温は三十四度だった」
「本日は七度だ」
「落差は二十七度になる」
「三か月半での推移としては急激な部類に入る」
「道理で寒いわけだ」
スープに酢の酸味が溶けて、味が締まる。
どんぶりの底が見えてくる。
汁まで飲み干し、湯気で曇った窓を袖で拭う。
外はまだ薄暗い。
視線を感じて、足元を見る。
茶白の毛玉が玄関の前にちょこんと座り、こちらを見上げている。
拾った頃の頼りない骨っぽさはもうない。
暗い廊下でも、図体だけで存在感がある。
尻尾が、床を何度か叩く。
「バル、わかった」
「少し待ってくれ」
鍵を外して細く開けると、隙間ができた瞬間に体をねじ込んで外へ滑り出ていく。
振り返りもせず、白く息を吐きながら駆けていく背中を見送る。
毎朝のことだ。
日が暮れる頃には、決まって同じ場所で待っている。
「本日は港南学校と病院への定期搬入だ」
「積み込みは通常通りでいいか」
「通常通りでいい」
防寒着の袖に腕を通す。
ジムニーのエンジン音が朝の住宅街に響く。
「半径十二キロ圏内で、未探索の小規模施設は残り四件だ」
「うち二件には、すでに他の生存者による回収痕がある」
「実質二件か」
「そうだ。周辺の個人宅についても、大半が既踏破済みだ」
窓の外を、シャッターの下りた店が次々と流れていく。
割れたガラス、開けっ放しの扉、空になった棚。
半年前は宝の山だった場所が、今はただの抜け殻だ。
「そろそろネタ切れってことか」
「今のペースなら、年内に回り切る」
「早いな」
「週に三件ずつ潰していれば、そうなる」
アクセルを踏み込む。
校門をくぐると、権藤が真っ先に駆け寄ってくる。
後ろからケースを下ろし、二人で校舎へ運び入れる。
「急に冷えてきたな」
「前、開けっぱなしで平気なのか」
権藤の視線が、防寒着の合わせ目のあたりで止まる。
「慣れてる」
「元自衛官は違うな」
悠人たちが遠巻きに覗き込んで、缶詰の数を数えているのが見える。
病院の検問を抜け、残ったケースを下ろしていく。
土嚢の隙間を吹き抜ける風が、頬を刺すように冷たい。
笹川が搬入リストを片手に、中身を一つずつ確認していく。
「今日は缶詰多めですね、助かります」
積み上げが半分ほど終わった頃、遠藤が小走りにやってくる。
病棟から抜けてきたばかりらしく、片手にはまだ体温計を握ったままだ。
「あの、幼馴染が、以前食糧倉庫で働いていて……」
「大きいところなんです」
「まだ手つかずかもしれなくて」
場所を聞くと、記憶を辿るように少し早口になる。
普段、患者に処置内容を説明する時の口調とは、心なしか違う。
言われた場所には、心当たりがある。
ドローンの巡回ログに何度か映り込んでいた、あの灰色の大屋根だ。
規模が規模だけに、後回しにし続けていた場所だった。
笹川がリストから顔を上げ、遠藤の横顔にちらりと目をやった。
ペン先が、同じ行の上で止まっている。
しばらくして、またリストをなぞり始める。
「行くか」
「他に選択肢がない」
「統計上、選択肢が一つの時は迷うだけ無駄だ」
リアゲートを閉め、運転席に乗り込む。
バックミラー越しに、笹川がまだこちらを見ているのが映る。
記憶にある方角へ車を走らせる。
灰色の大屋根が、これまで回ってきたどの店舗よりも桁違いに大きい。
「延床面積は、これまでの平均的な店舗の十五倍以上と推定する」
「十五倍か」
「効率的な巡回ルートを算出するには、内部構造の情報が不足している」
珍しく、歯切れの悪い言い方だった。
「お前でも読めないことがあるのか」
「情報がなければ推測はできない。当然のことだ」
「入口の候補は三か所ある」
「いずれもシャッターが完全に下りている」
隙間にバールを差し込み、体重をかけてこじ開ける。
軋んだ金属音が、静かな倉庫街に響いた。
埃と、かすかに饐えた匂いが鼻をつく。
非常灯はとうに死んでいる。
懐中電灯の光の輪だけが、闇の中に細く伸びている。
見上げても、天井まで光が届かない。
「内部構造、判明分をマッピングする」
リストバンドの画面に俯瞰の見取り図が展開されていく。
まだ半分以上が空白のままだ。
「反応、棚の陰に二」
最初の一体は棚に寄りかかるようにして立っている。
振り向きざま、頭部に剣鉈を叩き込む。
鈍い音とともに崩れ落ちた。
背後で床を擦る音。
振り向きながら懐中電灯を走らせると、光の中に二体目の顔が浮かぶ。
そのまま踏み込んで、側頭部を薙いだ。
「奥にもう少しいる」
棚が数列まとめて将棋倒しになった一角を乗り越え、暗がりの中を手探りで進む。
光が届く範囲は狭く、輪郭が朧げにしか見えない。
距離感を掴み損ね、刃先が一体の肩をかすめただけに終わる。
体勢を崩しかけたところへ別の腕が伸びてくる。
身を捻ってかわし、光を顔に向けてから仕留め直す。
一体ずつ、慎重に間合いを測りながら片づけていく。
最後の一体が崩れ落ち、静寂が戻る。
詰めていた息を一つ吐いて、刃に付いたものを布で拭う。
ほどなくドローンの映像が、通路の先の鉄製の扉を捉える。
薄く灯りが漏れている。
「反応、扉の内側」
「生体反応は三」
扉に手をかけると、内側から鈍い音が返ってくる。
剣鉈の柄尻を隙間に差し込み、支えを弾き飛ばす。
薄暗い休憩室のような空間に、三人がうずくまっている。
男が二人、女が一人。
いずれも作業着姿で、壁にもたれるようにして座り込んでいる。
物音に気づいた一人が、力なく顔を上げる。
目の焦点が合っていない。
唇がひび割れ、白く粉を吹いている。
「だれ……」
部屋の隅には、開封済みの缶詰やレトルトパックが山のように積まれている。
雨水を汲んだらしい空のペットボトルが、その倍は転がっている。
「脱水症状の兆候、三名とも」
「意識レベル、中等度から重度」
車に戻り、飲みかけのペットボトルと未開封のもう一本を持って引き返す。
三人ともまずむせ、それから一気にあおるように飲み始める。
「ゆっくり飲め、吐くぞ」
女の方が小さく頷き、それでもペットボトルを両手で抱えたまま離さない。
「ここ、飲み物は扱ってない倉庫で……屋上のタンクの雨水で、どうにか凌いでたんです」
「晴れが続いて、それも尽きて……外まで汲みに行く勇気が出なくて」
「食い物はあったのに、間抜けな話ですよね」
もう一人の男が、乾いた笑いを漏らす。
二本が空になった頃、ようやく焦点の合う目つきに変わってくる。
「立てるか」
「多分」
支えながら立たせる途中、壁際の資材ラックに目が留まる。
千五百ミリはある長バールが立てかけてある。
想像より軽く、それでいて手の中でしっかり力が入る。
埃を袖でひと拭いしてから、背中のスリングに斜めに通す。
石突きが踵に当たる。
位置を少し上げて、収まるところを探した。
「確認できた四列から外挿すると、倉庫全体の保存食は病院の三か月分に相当する」
「棚の配置が同じであれば、の話だが」
「後で運ぶ。今は連れ出すのが先だ」
三人を後部座席と助手席に押し込み、病院へ向かう。
水を飲んだ甲斐あってか、車が動き出す頃には目に光が戻ってくる。
検問を抜けると、笹川が真っ先に駆け寄ってくる。
「三人も……!」
窓から中を覗き込み、病棟の方へ向かって大声で叫ぶ。
「遠藤さん! 患者三人搬送!」
ジャケットの裾を翻して、遠藤が駆けてくる。
座席にもたれた三人の顔を、一人ずつ確認していく。
その動きが、不意に止まる。
遠藤の唇が、名前の形に動く。
「……敦」
男の一人が、うっすらと目を開ける。
「陽菜……」
喉に引っかかったような声だった。
「馬鹿。どれだけ心配したと思ってるの」
声が震えている。
「悪い……水、なくて……」
「もう喋らなくていい。点滴、すぐ用意するから」
遠藤が処置台の手配に走り出す。
その背中を、笹川がじっと見つめている。
担架の持ち手を握り直し、そのまま黙っている。
運ぶ手だけが、いつもより少し忙しなく動いている。
処置室の方が急に慌ただしくなる。
背を向けて、残った二人を運び入れる作業に戻る。
積み残しを確かめていると、宮本が病棟から出てくる。
目の下にうっすらと疲れが滲んでいるが、それを隠すように笑顔を作る。
「食糧倉庫、相当な量があったそうですね」
「おそらく三か月分の保存食がある。まだ何も持ち出してない」
「そんなに……」
「それなら、この冬を越えられるかもしれません」
「港南さんにも、少し分けられそうですね」
「また運びに行く」
運転席に乗り込んだところで、ふと視界の端に白いものが舞う。
灰色の雲から、粉のような雪が静かに落ちてくる。
「初雪だな」
「本日の観測データと一致する」
「今季初だ」
しばらく眺めてから、ふと思う。
バル用に、温かいクッションでも探しておくか。
丸くなって収まっている姿を思い浮かべる。
喉の奥で、小さく息が漏れた。




