9話「蝉時雨」
蝉の声で目が覚める。
まだ日も高くない時間なのに、もう一匹二匹と鳴き始めている。
気の早い奴らだ、と思いながら体を起こす。
台所に立ち、鍋に湯を沸かす。
素麺の束を掴み、帯を外す。
沸いた湯に放り込み、菜箸でほぐす。
茹で上がったところでザルに上げ、水を切る。
節約のため、冷水で締めるのは諦める。
「今日の分の水は、残り四十二パーセントだ」
リストバンドから、キーロンの声が挟まる。
「分かってる」
丼に盛った素麺は、まだ湯気を立てている。
氷水に浮かべた、締めたての麺が一瞬頭をよぎる。
めんつゆを上からかけて啜る。
いつもの喉越しとは少し違う。
締めていない分、麺がやわらかい。
それでも腹には十分入る。
「うるさいな、蝉」
「集音マイクからは除去できる。お前の耳からは無理だ」
「耳栓なら、備蓄リストの三段目にある」
この手の掛け合いが、朝の一部に馴染んでいる。
箸を置き、食べ終えた丼を水で軽くゆすぐ。
今日の予定を頭の中で組み立てる。
外はもう、蝉の声で満ちている。
幹線を外れた通りに、郵便局が建っている。
シャッターは半分だけ下りていて、隙間から中の様子がうかがえる。
男が二人。
一人がATMのパネルをこじ開け、もう一人が開いた投入口から札束を掴み出しては、リュックに詰め込んでいる。
工具の音が、静かな通りに規則的に響く。
見なかったことにして、通りを進む。
「紙幣にも、燃料としての価値はある」
「着火材としては優秀だ」
「油分を含んだインクのおかげで火付きがいい」
「トイレットペーパーの代わりにもならないな」
「紙質が違う」
「吸水性がないから、代用は不可能ではないが快適さは保証しない」
背後で、男の一人が歓声を上げる声が聞こえる。
振り返らずに、そのまま歩き続ける。
住宅街の外れに、小さな個人商店がある。
看板は色褪せて読めないが、軒先の自販機がまだ光っている。
引き戸を開けると、店内はほとんど空だ。
棚はすでに誰かの手で拾い尽くされている。
奥から、古い冷凍ケースの唸る音だけが聞こえてくる。
電源がどこから来ているのか、確かめる気にもならない。
蓋を開けると、氷の霜に埋もれてアイスが並んでいる。
見向きもされなかったのか、それとも誰かが遠慮したのか。
ともかく、そこだけ手つかずのまま残っている。
適当に一本掴み、包装紙を破る。
指先が、まだ冷たさを保っている表面に触れる。
齧りつくと、氷の粒がざりっと歯に当たる。
頭の芯まで、冷たさが一気に抜けていく。
遅れて、甘さが舌の上に広がってくる。
溶けかけた雫が、棒を伝って手の甲に落ちてきた。
舐め取る間もなく、次の一口を齧る。
棒だけになるまで、あっという間だ。
口の中に残った甘さの余韻を、しばらく味わう。
木の軸をゴミ箱に放り、店を出る。
住宅街に入り、一軒ずつ様子を見て回る。
臭いの強い家には入らない。
腐敗が進んでいるということは、中に何かがいるということだ。
バリケード化された家にも近づかない。
誰かが立てこもった末に、何があったかは考えるまでもない。
判断材料はそれきりで、あとは感覚に任せる。
玄関の鍵が開いたままの家を覗く。
棚はもう空だ。
隣の家も、その隣も同じ。
誰かが先に通った跡が、あちこちに残っている。
三軒目、庭先に洗濯物が干しっぱなしになっている家がある。
陽に灼けて、雨に打たれ続けたのが分かる布地。
窓は割れていない。
荒らされた形跡もない。
臭いも薄い。
「屋内の映像は取れない」
「入るなら手探りだ」
ドローンを上空に残したまま、玄関へ向かう。
屋根の下に入れば、キーロンの目は届かない。
引き戸を静かに開け、中へ入る。
薄暗い廊下を進む。
カーテンが閉め切られ、昼間だというのに家の中は夜のように暗い。
目が慣れるまで、その場でしばらく待つ。
奥から、微かな音がする。
衣擦れのような、あるいは床を擦るような。
足を止め、耳を澄ませる。
音は止まない。
ゆっくりと近づいてくる。
とっさに、廊下脇の納戸に体を滑り込ませる。
戸を完全には閉めず、隙間だけを残す。
息を潜め、その隙間に目を寄せる。
廊下を、影が横切る。
着衣は判別できないほど汚れ、歩みは緩慢だ。
通り過ぎる直前、影がふと立ち止まる。
影の顔が、こちらを向いた気がする。
自分の呼吸の音が、耳障りなほど近い。
バールの柄が、掌の汗で滑る。
だが影は、再び動き出す。
振り返ることなく、廊下の奥へと消えていく。
しばらく動けずにいる。
気のせいなのか、それとも。
考えても答えは出ない。
十分に間を置いてから納戸を出て、家を後にする。
この家に収穫はない。
次の家は、玄関先に段ボール箱が積まれたままだ。
宅配の伝票が、まだ色褪せていない。
中身は開けられずじまいらしい。
饐えた臭いもしない。
基準に照らせば、問題のない家のはずだ。
玄関の鍵はかかっている。
力任せにこじ開け、中へ入る。
廊下を進む。
物色された跡がない。
棚の上の写真立ても、倒れずそのままの位置にある。
リビングの襖を開けたところで、足が止まる。
鴨居から下がった縄の先に、男が一人。
俯いた顔は影になって見えない。
着ているシャツには、アイロンの跡が残っている。
誰かが、丁寧に畳んで用意していたもののように見える。
その下、敷かれた布団に子供が二人並んでいる。
掛け布団の襟元まで、きちんと引き上げられている。
眠っているようにしか見えない寝顔だ。
枕元に、女が一人。
覆いかぶさる格好のまま、動かない。
乱れた髪が、顔の半分を覆っている。
喉の奥が狭くなる。
争った様子はない。
部屋の隅には、たたまれた洗濯物の山がそのまま残っている。
テレビの上には、家族写真が立てかけられたままだ。
傍らの座卓に、便箋らしきものが一枚置かれている。
文字までは、読まない。
壁の時計は、随分前の時刻で止まっている。
校庭で「お菓子は」と騒いでいた声が、不意に蘇る。
悠人が、真っ先に校舎へ走っていく後ろ姿。
「くそ」
拳を握り、廊下の壁を殴りつける。
「くそっ」
もう一度。
壁板がへこみ、鈍い音を立てる。
拳の皮が、じわりと熱を持つ。
やがて、静かに襖を閉める。
振り返らずに、家を出る。
翌日は、雨だ。
朝から降り続く音が、屋根を叩いている。
外には出ない。
こういう日は、装備の手入れに充てる。
バールの柄を布で拭き、金属バットの傷を確かめる。
特に直す必要のある箇所はない。
皮手袋の縫い目をなぞり、擦り切れかけた指先を確認する。
プロテクター入りのバイク用ツナギは、肘と膝の当たりが薄くなってきている。
ブーツの底も、そろそろ張り替え時か。
手を動かしながら、雨音を聞く。
何も起きない時間が、久しぶりに流れている。
足元に、茶白猫が寄ってくる。
ごろりと転がり、腹を見せてきた。
手を伸ばすと、案の定噛みつく。
大した力ではない。
離すと、何事もなかったように離れていく。
除菌シートを一枚抜き、噛まれた手を拭う。
ついでに、柄を握った跡が残る箇所だけもう一度なぞっておく。
ふと、思い出す。
「校長の件、まだ返事してないな」
「保留のまま記録は続いている」
「催促の履歴もない」
「向こうも忘れてるかもな」
「可能性は低い」
「ただし、今すぐ考える必要はない」
雨音が、しばらく間を埋める。
雨は、夕方まで降り続く。




