8話「対価」
水菜のサラダに、ドレッシング代わりのツナ缶を少々和える。
主役は水菜、ツナはあくまで添え物だ。
山盛りの葉を口に運ぶ。
青臭さの奥に、噛むほど甘みが出てくる。
残したツナを湯通しし、皿の端に少しだけ取り分ける。
水菜も申し訳程度に散らして混ぜておく。
咀嚼しながら、壁のカレンダーに並んだ印を目で数える。
港南高校と接触してから、二週間が経っている。
最近ようやく部屋に顔を出すようになった茶白の足元に、皿を置く。
猫はツナだけを平らげ、水菜には一瞥もくれずに離れていく。
皿には葉が一枚も欠けずに残っている。
しばらくそれを眺める。
「貴重なのに、贅沢だな」
ドローンを飛ばし、経路を一通りなぞらせる。
「巡回経路に異常はない」
「定例の巡回は、これで九回目になる」
数えていたのか、と思うが、聞かなくても分かる答えだ。
軽トラのキーを手に取り、エンジンをかける。
「今週の集計だ」
手首のリストバンドが、走行中も勝手にしゃべる。
「搬入七回、平均間隔は二・三日だ」
「交換品目は食料と水が中心で、先週から変化はない」
「長く続いてるな」
「傾向が固定されるのは、関係が安定している指標になる」
「品目が固定してきたのは、双方の需要が読めてきた証拠だ」
窓の外、崩れかけた家並みが流れていく。
庭木の枝がアスファルトの上まで張り出している。
生垣だったはずの輪郭は、どこも溶けて崩れている。
誰も刈らなくなった草は、玄関先にも車の下にも根を伸ばしている。
側溝の継ぎ目からも突き上げ、道の端を少しずつ呑み込んでいく。
最初の頃は、こういう景色のひとつひとつに足を止めていた。
今は速度も落とさない。
正門を抜け、荷降ろし場に軽トラを停める。
積み荷を降ろし始めると、それを聞きつけた子供たちが駆け寄ってくる。
「お菓子は!」
「今日はないの!」
「今日はない」
「えー」
「この前もそう言ってたじゃん」
「今度な」
「前も今度って言った」
覚えられている、ということに、少し面食らう。
約束したつもりはないが、向こうにとっては既に約束になっているらしい。
「朝倉先生は」
「教室ー」
「呼んでくる!」
「悠人、足速いなー」
もう校舎へ駆けていく背中に、誰かの声が追いかける。
いつもこの子が一番に動く。
残った子供たちが、降ろした缶詰の山を勝手に品評し始める。
「これ好き」「これはいらない」と、贅沢な選り好みが飛び交う。
物が足りているとは言えない暮らしでも、子供が子供らしくいられる余地は、まだ残っているらしい。
しばらくして、朝倉が小走りでやってくる。
まだ二十代半ばだろう。
童顔で人当たりが柔らかく、教師というより保育士に近い。
いつも子供たちに囲まれている。
この学校で唯一、初対面の時から敬語を崩さない相手でもある。
「呼びに行かせてすみません」
「今日もありがとうございます」
「別にいい」
「授業中だったんじゃないのか」
「授業というほどのものは」
朝倉が、苦笑しながら荷物を前に騒ぐ子供たちを見る。
「今は、字が読める子が読めない子に教えたり、その程度です」
「先生って柄でもないんですけど、他にやる人がいなくて」
「向いてないのか」
「向いてるかどうかより、他に選べる立場じゃないので」
あっさりとした返しに、言葉が一拍遅れる。
自分を卑下している風でもない。
ただの事実として口にしているだけだ。
騒がしさの中、荷を降ろす手は止めない。
指先が缶詰の縁に触れる。
その拍子に、空腹とは少し違う、もっと粗い何かへの渇きがよぎる。
振り払うように、次の缶に手を伸ばす。
「あの子、この前熱を出して」
朝倉が、校庭の隅で洗濯物を運ぶ小さな背中を指す。
「もう平気そうです。矢代さんが持ってきてくれた解熱剤、効いたみたいで」
「たまたまだ」
「たまたまでも、助かってます」
子供たちの「お菓子ないの」の声が、また少し離れたところから聞こえてくる。
「次は、忘れないでください」
朝倉が、小さく笑う。
「約束はしない」
権藤が、荷解きを手伝いながら数を確認していく。
傍らでは、生徒らしき若い数人も一緒になって荷を運んでいる。
「小松菜、少しだけどこれが初収穫だ」
「水もいつもの分を汲んである」
「他にも採れた野菜、持っていけるだけ持っていってくれ」
「十分だ」
「野菜がこんなに美味いとは、思ってもみなかったよ」
積み込みの合間、権藤が声を落とす。
言い出しにくそうに、視線を一度地面へ向けてから続ける。
「時間取らせて悪いが」
「校長が、話したいそうだ」
権藤に連れられ、校舎の中へ足を向ける。
渡り廊下の窓から中庭が見える。
ロープに吊るされた洗濯物が、何列も揺れている。
プランターには葉物が芽を出している。
割れた窓ガラスは板とテープで塞がれている。
下駄箱には、持ち主の名前を書いた紙が几帳面に貼られている。
薄暗い廊下を進む。
校長室の札が掛かったドアの前で、権藤が一度立ち止まる。
軽くノックする。
中へ入ると、恰幅のいい男が机の向こうから立ち上がる。
値踏みするような視線が、頭から足先まで往復する。
「曽根崎です」
「校長を務めています」
名乗りだけは丁寧だ。
「いつも助かっていますよ」
「みんなで支え合うのは当然のことですからね」
その「当然」の使い方に、引っかかるものがある。
「回数、増やせませんか」
「若い方に無理を言うようで心苦しいのですが、こういう時ですから」
「動ける方が動くのが、道理というものでしょう」
「難しいです」
「こっちの物資にも限りがあるので」
「そうですか」
曽根崎が、笑みを崩さないまま続ける。
「では、護衛の方はどうです」
「物資を取りに出る者に、時々でいいので同行してもらえると」
「少し考えさせてください」
「あなたのような体力のある方に頑張っていただかないと、年寄りばかりでは立ち行きませんので」
「若いとか関係ないですよ」
「できることをやってるだけです」
「謙遜を」
曽根崎が、こちらの返事を聞かなかったように頷く。
「みんな、蓮さんには期待しておりますよ。どうかその期待に」
期待、という言葉の置き方が、権藤のそれとはまるで違う手触りだ。
キーロンの声が、リストバンド越しに淡々と割り込む。
「要求項目を労働負荷換算式に当てはめて試算した」
「結果は、負荷指数にして八十二だ」
「対価は野菜と水、同じ式で換算して指数十一」
「比は七・五対一。数値がかけ離れている」
「キーロン、今はいい」
「感想は担当外だ」
「記録として報告しているだけだ」
権藤は視線を逸らしたまま黙っている。
最初に会った日と同じで、手が所在なげに腰の後ろへ回っている。
「また来る」
言うだけ言って、校長室を出る。
廊下に出たところで、権藤がぽつりと漏らす。
「……すまんな」
権藤と共に廊下を戻り、正門に停めた軽トラに乗り込む。
「返事は」
キーロンが訊いてくる。
「まだ何も決めてない」
「なら保留として記録しておく」
サイドミラーに、手を振る子供たちが映っている。
遠ざかるにつれて、その姿が校舎の輪郭に紛れて見分けがつかなくなる。
帰り道、幹線沿いのドラッグストアに寄る。
棚はほとんど空だ。
化粧品も雑誌も残っていない。
通路に落ちた包装紙のほかには、何もない。
子供たちの顔を思い浮かべながら、菓子の棚があったあたりまで見て回る。
案の定、床まで見えている。
「スタッフ専用」の札が下がったドアの前で、足を止める。
覗き込むと、暗がりの奥で人影がいくつも緩慢に動いている。
リストバンドをドアの隙間へかざすと、小さく振動が返る。
「動体反応、九」
「密集、停滞中」
「奥の在庫、まだ残ってるかもな」
「可能性はある」
「相応の代償と引き換えにだが」
目を凝らすと、群れの端に一体だけ様子の違う輪郭がある。
背負ったままのバックパック。
額に固定されたままのヘッドライト。
「装備が周りと異質だ」
「スカベンジャーの成れの果てと推定する」
自分と同じ格好をして、同じように物資を漁っていた誰かだ。
それが今は、あの群れの一部になっている。
肩にかけたバッグの紐を、無意識に握り直す。
「危険値は高めだが、それでも入るのか」
答えの代わりに、ドアからそっと手を離す。
九体程度なら、正面からいくらでも手が出せる。
この暗がりと狭さだけは、体が拒む。
静かに店を出て、軽トラに乗り込む。
バックミラーを一度だけ確認して、発進させる。




