7話「初登校」
倉庫から持ち帰った荷を運び終え、居間に座り込む。
戦利品の中にあったコーヒーを、湯を沸かして淹れる。
インスタントだが、今はこれで十分に旨い。
一口飲んで、息をつく。
あっちにあったよ、と言い残して去っていった声が、まだ耳の奥に残っている。
君は、自分がまだ人間だと思っているのかな。
あの問いが、頭の隅にこびりついたまま離れない。
「なあ、キーロン」
「人間の定義って、何だ」
「質問の粒度が粗すぎる」
「生物学的にか、法的にか、それとも自己申告か」
「……自己申告、でいいのか」
「なら答えは簡単だ」
「お前が人間だと思っている限り、統計上はまだ人間側のサンプルだ」
「思わなくなった時点で、母集団から抜ける」
思わなくなった時点、か。
その基準が、今日のことなのか、まだ先のことなのか、自分でも分からない。
テーブルに広げたファイルを、指でなぞる。
地図には矢印、殴り書きのメモ、日付らしき数字が並んでいる。
「見張りの配置、交代時間まで書いてある」
キーロンが、リストバンドに拡大表示しながら告げる。
「あの連中、仕事ばかりは丁寧だったらしいな」
皮肉なのか、感心しているのか分からない声だ。
「港南高校、人がまだ残っているのか」
「これだけ詳しいなら、何日も見張ってたはずだ」
「今も無人とは考えにくい」
資料の端、支援物資らしき単語の書き込みに目が留まる。
これがそのまま使えるなら、こちらの手札が増える。
助けたいという気持ちより先に、そんな計算が浮かんだことに、自分で嫌気が差す。
翌日から、ジムニーで高校の近くまで出向き、ドローンを上空へ飛ばす日々が続く。
バリケードの継ぎ目、見張りの立ち位置、交代の間隔。
キーロンが数値と時刻を淡々と積み上げていく。
校庭の一角、畝の並んだ区画に人影が動いている。
「畑、耕作中」
小さな人影、杖をついた老人らしき姿、集まって何か運んでいる女子生徒たち。
思っていたより、ずっと大所帯だ。
「屋上に干してある洗濯物、目算で百枚以上」
「朝と夕、決まった時間に煙が上がる」
「規則性あり。定住者の行動パターンと推定」
「一時凌ぎの寄り合いじゃない、ってことか」
「継続してるから、畑がある」
「短期の避難所に、収穫までの時間はない」
東側の塀の一角、ドローンの映像が同じ場所で何度も止まる。
「防御の穴、発見」
キーロンの声に、いつもの軽さが薄い。
「合板の継ぎ目、ここだけ二列足りない」
「見張りの巡回間隔も、この区画は長い」
拡大された映像には、崩れかけた合板の隙間が映っている。
人一人が這って通れるかどうか、という幅だ。
「この情報を渡すかどうかは、お前の判断だ」
分かってる、とは言わない。
映像を閉じる前に、東側の塀の座標を保存する。
「データは揃った」
「出発は、いつでも可能だ」
「行く」
「理由は」
少し考えて、結局出てきたのは短い答えだ。
「ない」
「強いて言うなら、気分だ」
「記録に残す」
「感情由来の判断か。統計的には貴重なサンプルだ」
ガレージへ下りる途中、まだ丸くなっている猫に足を止める。
「行ってくる」
「ニャ」
興味もなさそうな返事が一つだけ返ってくる。
ジムニーに乗り込み、資料を助手席に放る。
エンジンをかけ、ドローンを上空へ上げる。
「反応、多数。密集。移動中」
キーロンの声から、抑揚がふっと抜ける。
「群れの規模、通常より大きい」
「進行方向――」
「学校か」
「そうだ」
「珍しく察しがいいな」
アクセルをさらに踏み込む。
正門付近までジムニーを走らせ、その手前で停める。
悲鳴に近い怒声が飛び交っている。
ひしゃげた軽トラが、どうにか正門の手前までたどり着き、そこでエンジンが止まった。
荷台から、物資袋を背負った数人が転がり出るように駆け込んでくる。
体育教師らしき体格の男が、その全員を先に門の内側へ押し込んでいる。
「走れ、振り向くな!」
怒鳴りながら、自分だけが最後尾に残る。
木の棒を両手で構え、群れとの間に体一つ分の壁を作っている。
「しくじったな、あれは」
「回収に出て、そのまま連れ帰ってきたパターンだ」
正門へ続く道の向こう、街路の奥までびっしりと人影が詰まっている。
目算では、四十や五十では利かない。
「反応、推定六十以上」
あれが正門を抜けたら、終わる。
考えるより先に、体が動いている。
ジムニーを飛び出し、金属バットとバールを両手に構える。
群れの只中へ、迷わず突っ込んでいく。
「先頭集団、十二」
「後続、絶え間なく補充される」
「うち三、接触まで五秒」
キーロンの声が、戦況を読み上げていく。
地面を蹴った。
最初の一体に、バットを振り抜く。
鈍い音を立てて体ごと吹き飛び、後ろに続いていた二体を巻き込んでまとめて転がる。
その合間に右のバールを叩き込むと、頭が潰れる湿った感触が柄を伝ってくる。
噴き出したものを避けるように、半歩体をずらす。
教師が、木の棒を構えたまま動きを止めているのが視界の端に映る。
助けに入ったはずの相手の姿に、開きかけた口が中途半端に止まっている。
群れの中を、止まらずに歩いていく。
基本はバットで薙ぎ払い、密集を崩して道を作る。
道の隙間に紛れ込んでくる一体を、右のバールで仕留める。
打つたびに骨の折れる音、肉の潰れる音、うめき声にもならない呼気が重なっていく。
三体まとめて転がっていくさまは、出来の悪いコントに近い。
転がった先で、頭の潰れる音がする。
何体目か、もう数えていない。
不意に、手の中で何かが変わる。
鈍い、金属の軋む音。
芯がひしゃげ、本来あるはずの手応えが返ってこない。
「壊れたか」
「バット、耐久限界」
「弾性域を超えて塑性変形している、元の形には戻らない」
「代替手段を推奨する」
「ついでに言うと、お前の握力もそろそろ耐久試験の対象だな」
舌打ちしながら、ひしゃげたバットを最も近い一体へ投げつけた。
回転しながら飛んだそれが頭部に突き刺さり、鈍い音とともに頽れた。
バールを握った右手はそのまま、空いた左手は手刀に切り替える。
薙いだ手刀が肉を裂き、骨まで断つ感触が掌に返ってくる。
左半身が返り血を浴び続け、ぐっしょりと赤黒く染まっていく。
骨が軋む音と、肉が裂ける音が交互に響く。
次、また次。
残っていた数体も、次々と崩れていく。
「残り、二」
「左後方」
振り向きざま、バールを叩きつける。
最後の一体が崩れ落ちたところで、ようやく風の音が辺りに戻ってくる。
物陰から、子供たちの声が上がる。
「すげえ」
「今の見た!?」
「先生、この人雇おう!」
「やばすぎる!」
興奮した声が、次々と重なる。
誰の顔も、まだ笑っている。
一方で、大人たちの間からは声一つ上がらない。
誰も動けずにいる、その沈黙の重さが、子供たちの声より雄弁だ。
体育教師も、逃げ込んだ数人も、こちらを見たまま動かない。
助けに入った側だという理屈より先に、後退る足の動きの方が正直だ。
木の棒を握る指は、まだ白いままだ。
「悪い、突然だが」
「予備のバットとかないか」
「今ので駄目になった」
「あと、水があれば少し分けてほしい」
左半身にこびりついた返り血を一瞥し、付け足す。
「これじゃ車にも乗れない」
張り詰めた空気に似合わない問いだ。
教師が、数秒遅れて瞬きする。
「……少し待っててくれ」
振り返り、後ろにいた誰かに何か短く指示を出す。
頷いて、駆けていく背中が見える。
しばらくして、金属バットを三本とポリタンク、雑巾を手にした生徒を連れて戻ってくる。
柄にはそれぞれ番号のテープが巻かれ、使い込まれた傷が残っている。
「三本もあるのか」
「あんたの戦いだと、すぐに壊れると思ってな」
差し出された三本を受け取り、一本ずつ握って重さを確かめる。
どれも手に馴染む、悪くない仕上がりだ。
水を手のひらに受け、指の間まで洗う。
爪の間の黒ずみは、なかなか落ちない。
二度、三度と水をかけ直す。
差し出された雑巾は断り、ジムニーから自分のタオルを取ってくる。
シャツを脱ぎ、腕と首筋、胸元に張り付いた返り血を拭い上げる。
雑巾は、バールの刃元を拭うのに使う。
予備の服に着替え、脱いだシャツはビニール袋に入れて、口を二重に縛る。
「助かる」
資料を差し出す。
「これも渡しておく」
「この学校を狙って動いてた連中がいた、その計画書だ」
「あそこの合板、二列足りてない」
教師の視線が、資料と合板を往復する。
信じていいのかどうか、指先が資料の端を落ち着きなく撫でている。
「……助けてくれて、感謝する」
権藤は木の棒を足元に下ろし、空いた手を所在なげに腰の後ろへ回す。
礼を言い慣れていない、というより、照れ臭さが先に立っている間だ。
間を置いて、口を開く。
「権藤だ」
「権藤剛」
「矢代」
一拍置く。
「矢代蓮だ」
権藤が、妙な間の取り方に片眉だけ上げる。
「……映画の名乗りだな」
物陰から様子を窺っていた子供たちが、少しずつこちらに近づいてくる。
一人が小さく「ありがとう」と口にするのへ、目を合わせずバットを担ぎ直しただけで応えた。
遠巻きに見つめる視線に、これ以上長居する理由もないと判断する。
「また明日来る」
権藤が、短く頷き返す。
ジムニーに戻り、エンジンをかける。
「歓迎されたのか、恐れられたのか」
「両方だろうな」
「子供は歓声、大人は青ざめる」
「同じ光景を見て、これだけ反応が割れるのも珍しい」
「お前はどっちだ」
「私は統計を取っていただけだ」
「感想は担当外だ」
バックミラーに、遠ざかる塀が映る。
助手席の資料が、まだ膝の上で開いたままだ。




