第8話 光の誘惑
配水室から広場に戻ると、そこはすでにお祭り騒ぎになっていた。
「おい、本当だ! 水が透き通ってるぞ!」
「泥の味がしない! 奇跡だ、ジャンナの奇跡が起きたんだ!」
タハールが興奮気味に触れ回ったせいが大きい。
十数人の住民たちが、ドラム缶に満たされた透明な清水を囲み、歓声を上げ、子供のように互いの肩を叩き合っている。
彼らの煤けた顔に、これまでにない本物の「生気」が宿っていた。
私が広場に足を踏み入れた瞬間、住民たちの視線が一斉に私に集まった。
「カオル、お前がこれをやったのか!?」
「ああ、ジャンナの御使い様だ……! 俺たちの乾きを救ってくれた!」
口々に向けられる、圧倒的な感謝と羨望の目。
東京のオフィスで地味にサーバー監視をしていた私が、ここでは一瞬にして「救世主」のような扱いを受けている。
気恥ずかしさと、自分の技術が誰かを救ったという確かな全能感が、胸の奥をじんわりと満たしていく。
(……悪い気は、しないわね)
私は少し得意げになりながらも、ジーンズのポケットの中で、左腕のバグの画面をそっと爪で叩いた。
ネビルに突きつけられた、あの冷酷な現実――「あと6日で街の電気が縮む」というログが、頭の片隅で冷たく警告を発している。
「みんな、喜んでいるところを悪いんだけど」
私は手を叩いて、住民たちの注目を集めた。
「水は綺麗になった。でも、このままじゃあと6日で、この街のバッテリーが切れてすべての電気が止まるわ」
歓声が、ピタリと止んだ。住民たちが不安そうに顔を見合わせる。
「電気が止まれば、水もまた元の泥水に戻る。……だから、次は『電力システム』をデバッグ(修理)しなきゃいけない。この街のメインの蓄電池がある場所を教えて欲しいの」
住民たちは怯えたように首を振った。
「蓄電池なんて分からねえ……。バベルの地下深くにある『触れてはならぬ心臓部』のことなら、ネビル様しか立ち入りを許されていないんだ」
やっぱり、あの男が鍵を握っている。
「だったら、直接交渉するまでよ」
私は踵を返し、広場の端にある、ネビルが普段執務室として使っている重厚な鉄扉の前に立った。
深呼吸をひとつ。昨日の今日で、不正介入を咎められたばかりだ。
下手をすれば配給停止のペナルティが待っている。
だけど、私はもうただ怯えるだけの『落ちてきた遭難者』じゃない。
ノックもせず、私は鉄扉を力任せに押し開けた。
「ネビルさん。取引をしましょう」
薄暗い室内。数々のモニターが不気味に明滅する部屋の奥で、ネビルは書類からゆっくりと顔を上げた。その濁った目は、相変わらず冷徹で、感情が読み取れない。
「……何の用だ。エンジニア」
「水を出したせいで、この区画の寿命が6日縮んだ。そのエラーを帳消しにするためのパッチを当てに来たのよ。あなた、メインの蓄電池の場所を知ってるんでしょ。私をそこに連れて行きなさい。電力量の消費効率を最適化して、街の寿命を元に戻してあげる」
ネビルは小さく鼻で笑った。
「傲慢だな。お前のような素人が、ジャンナの基幹電源に触れられると思うか」
「触れるわよ、現に水は直したわ。
私はただの素人じゃない、プロのシステムエンジニア。
あなたにこの街を管理・維持する『任務』があるなら、私の技術はあなたの役に立つはずよ。
私をただの不審者として檻に閉じ込めるか、それとも『有能な同僚』として使うか……選ぶのはあなたよ、ネビル管理人さん」
私はネビルの目を真っ直ぐに見据え、不敵に言い放った。
沈黙が部屋を支配する。流れる時間が酷く長く感じられた。
ネビルは私をじっと凝視し、その脳内で私の『利用価値』を冷酷に計算しているようだった。
やがて、ネビルは静かに立ち上がると、腰のベルトから、ずっしりと重い一束の金属鍵を引き抜いた。
「……口だけなら、誰でも言える」
ネビルは私の横を通り過ぎ、扉を開けた。
「ついて来い。お前のその『技術』が本物か、バベルの心臓部で査定してやる」
(……よし。第一段階クリアね)
ネビルの背中を追いながら、私は心の中で小さくガッツポーズを作った。
監視対象から、対等なカウンターパートへ。
私のエンジニアとしての戦いが、今、この世界のインフラの最深部へと足を踏み入れようとしていた。
だけど、この時の私はまだ、何も分かっていなかった。
住民たちのあの熱狂的な感謝の目が、私をどれほど甘やかし、どれほど残酷な『依存の罠』へと引きずり込んでいくのかを。




