第6話 錆びついたプロトコル
「おい、本当にこの奥に行くのか? 悪さはせんほうがいい。ネビルに見つかったら、ただじゃ済まんど」
タハールは、ランタンの鈍い光で足元を照らしながら、何度も不安げに振り返った。
コンクリートが剥き出しの地下通路は、ひんやりとした湿気と、カビと鉄錆の匂いが混ざり合って充満している。
「大丈夫よ。ちょっと機械の様子を見るだけだから」
私は片方ないサンダルのせいで冷え切った左足をかばいながら、ジーンズのポケットに手を突っ込んで歩いた。
ポケットの中では、バグからワイヤレスで微弱な給電を受け、息を吹き返したスマートフォンが、正確に『午前十時十五分』という地球の時間を刻んでいる。
この世界の誰も持っていない、私だけの「正確なログ(時計)」だ。
通路の突き当たりに、頑丈な鋳鉄製の扉が現れた。
扉の横には、住民たちの手で雑に書かれた『水飲み場』という案内板がぶら下がっている。
扉を開けると、そこは小さな配水室だった。
壁から突き出た太いパイプから、チョロチョロと頼りない音を立てて、赤茶色に濁った水がコンクリートの受け皿へと流れ落ちている。
バベルの住人たちの命を繋ぐ、これが唯一のライフラインだ。
「……ねえバグ。この裏にあるバルブ、位置はどこ?」
私は左腕を口元に寄せ、囁くように呟いた。
『マスター・カオル。その受け皿の背後にある、壁面のハッチ(点検口)の奥です。第4配水管の電動ろ過バルブがそこに格納されています』
「よし」
私はタハールが止める間もなく、壁の錆びついた金属ハッチに手をかけ、体重をかけて強引に引き剥がした。
激しい金属音が部屋に響き、タハールが「ひえっ」と短い悲鳴を上げる。
ハッチの奥に鎮座していたのは、地球の水道局にあるような無骨な手動ハンドルではなかった。
透明な強化樹脂のケースに守られた、複雑な電子基盤と、金属のシリンダーが一体になった『電動ろ過フィルター・ユニット』。
だが、その美しいはずの樹脂ケースの中は、泥水が逆流したせいでドロドロに汚れ、基盤のインジケーターは不気味な赤色に硬直していた。
「なによこれ、電子制御の塊じゃない。……タハールさん、この街の人たちは、これが壊れたとき直そうとしなかったの?」
タハールはランタンを揺らしながら、困ったように首を振った。
「直すって……どうやってだ? 俺たちにゃ、これが何で動いているのかも分からん。ジャンナの神官様たちが昔作った『触れてはならぬ聖遺物』さ。動かなくなったら、ただ諦めるしかない」
触れてはならぬ聖遺物、ね。
ただのメンテナンス不足でハングアップした、設計の甘い格安インフラユニットよ。
「バグ、このユニットのコントロール基盤、表層のシリアル通信プロトコルは生きてる?」
『確認します。……生きています。ジャンナ共通の『下位インフラ制御コード(プロトコル)』が、リピートエラーのまま巡回しています』
「なら、お前の権限で、そのループを強制終了しなさい。バルブのモーターを、一瞬だけ『手動開放モード』に切り替えるのよ」
『了解。……シグナル送信。……エラーログの消去、および緊急バイパスプロトコルを実行します』
左腕のバグが、チカチカと青い光を点滅させる。
直後、ハッチの奥の濁った樹脂ケースの中から、ギュウウウウ――ウンという、長い間眠っていたモーターが無理やり目を覚ましたような、低い機械駆動音が鳴り響いた。
「動いた……!?」
タハールがランタンを落としそうになりながら叫ぶ。
「まだよ。内部のフィルターが固着してる。バグ、出力を最大にして一気にバルブを全開に!」
『了解。……出力を一二〇パーセントにオーバーライド。――バルブ、強制開放』
ガコン!!!
配水室全体が震えるような、強烈な金属の激突音が響いた。
同時に、パイプの奥から「ゴボゴボゴボ!」という、凄まじい濁流の音が迫ってくる。
「タハールさん、離れて!」
私が叫ぶと同時に、壁のパイプから、爆発したように真っ黒な泥水が噴き出した。
数秒間、パイプの錆と長年溜まっていたヘドロが勢いよく受け皿へぶちちまけられる。
タハールさんは腰を抜かして床にへたり込んでいた。
だが、その真っ黒な泥水の噴出は、十数秒でピタリと収まった。
次にパイプから溢れ出てきたのは――。
「あ……あ……」
タハールが、掠れた声を漏らした。
それは、ランタンの光を美しく反射してきらめく、一点の濁りもない、澄み切った透明な『清水』だった。
コンクリートの受け皿を勢いよく満たしていく水の音は、昼間のあの排水の滝のように、驚くほど軽やかで、瑞々しかった。
「直った……。本当に、きれいな水が出たぞ……! 奇跡だ……!」
タハールは這いつくばるようにして受け皿に駆け寄り、震える両手で水を掬って口に運んだ「美味い……! 泥の味がしねえ! 本当に美味い水だ!」
涙を流して喜ぶ老人を見つめながら、私はジーンズのポケットの中でスマホの画面をそっとタップした。
時刻、午前十時二十二分。作業開始から、わずか7分。
(……見たか、私の農業バカ。あんたが土を耕してるなら、私はこうやって、この世界のシステムをデバッグしてやるわ)
カイへの届かない勝ち誇りを胸に、私は泥で汚れた顔を拭って小さく笑った。
だが、その喜びも束の間。
私の脳内に、バグの冷徹な機械音声が、現実を突きつけるように響いた。
『マスター・カオル、警告。現在のバルブの強制開放により、バベル地区の総電力量の〇・〇五パーセントが追加消費されました。このまま手動開放を維持した場合、バベル地区の『配給蓄電池』の寿命が、計算上、約六日短縮されます』
「……え?」
私の笑顔が、凍りついた。
水を出しただけで、街の命(電気)が縮む?
その時、配水室の開け放たれた扉の向こう、暗い一本道の地下通路の奥から――。
カツン。カツン。
あの、冷徹な警察か支配者を思わせる、硬い革靴の足音が、ゆっくりとこちらに向かって近づいてくるのが聞こえた。




