第5話 最初のパッチと、濁った水
『――アップデート、完了しました。ローカル翻訳データベースの構築、および表層電力ログの解析を終了。マスター・カオル、現在のバベル地区の電力稼働率は、全盛期のわずか〇・四パーセントです』
翌朝、狭い部屋の片隅で、左腕の『バグ』が耳元で小さく、だけど従順な声で報告を告げていた。
「〇・四パーセント……。よくこれで街の形を保ててるわね」
私は汚れたジーンズの膝を見つめながら、小さく息を吐いた。
昨夜の命懸けのショートハックの代償として、私の指先は煤で黒くなり、爪の間には泥が詰まっている。
だけど、この腕のバグはもう、私の言葉を聞く「相棒」だ。
「ねえバグ、私のスマホ、バッテリーが死にかけなの。あなたから少しずつ、チャージできない?」
『可能です。シリアル等の物理ポートは非互換ですが、マスターのスマホの電磁誘導コイルを検知しました。周波数をアジャストし、微弱電流での非接触給電を開始します』
「話が早くて助かるわ。……っていうか、あんた自身のバッテリーは大丈夫なの? 減ってる様子がないけど」
『本個体は高密度固体エネルギーセルを採用しており、現在の省電力モードであれば、外部給電なしで約三十年間は連続稼働が可能です』
「三十年間充電不要って……なによその化け物バッテリー。仕様が凶悪すぎるでしょ」
呆れ果てながらも、スマホの画面に数日ぶりに小さな雷マーク(充電中)が灯るのを見て、私はようやく深く息を吸うことができた。
道具が、環境が、少しずつ私の手元に戻ってきている。
スマホが生き返れば、時計とメモ帳代わりにはなる。
「よし。じゃあ、まずはこの街のインフラをもうちょっと詳しく調べましょう」
部屋を出て、サンダルを片方引きずりながら、私は再び広場へと向かった。
十数人の住民たちは、すでに起きて活動を始めていた。
ある者は錆びついたドラム缶の水を覗き込み、ある者は痩せた土地に植えられた、あのみすぼらしい野菜の芽に水をやっている。
その様子を観察していて、私はすぐに「エンジニアとしての違和感」に気がついた。
「……ねえ、おじさん」
私は昨日スープをくれた初老の男性――タハールという名前らしい――に声をかけた。
「その水、どこから運んできてるの?」
タハールはドラム缶から錆び色に濁った水をバケツで汲み上げながら、顔をしかめた。
「どこって、あっちの地下通路の奥にある『水飲み場』さ。昔は透き通ったきれいな水がいくらでも流れてたらしいんだが、今じゃこの通り、サビと泥が混ざった濁り水しか出ねえ。これじゃあ山羊に飲ませるのも一苦労だし、作物の育ちも悪くてな。……ジャンナ様が、たまにはマシな水を配給してくれりゃいいんだが」
愚痴をこぼすタハールの横顔を見ながら、私は心の中で、あの排水の滝の爆音を思い出していた。
(……おかしい。私が落ちた場所には、あれほど激しく澄んだ水が溢れていた。なのに、住民たちが使う生活用水は、こんなに酷く濁っている?)
崩壊の順序は教科書通り、電力供給が死にかけて通信が死んだ。だけど、水道システムそのものは、まだ最深部で生きているはずなのだ。
「バグ、……バベル地区の配水管理プロトコル(水道管の経路)の、『バルブ制御のログ』を探して」
『検索中……。……ヒットしました。現在の居住区へ繋がる第4配水管の「自動ろ過フィルター」が、電力不足によるエラーで閉塞状態のまま固定されています』
「やっぱりね……!」
技術者としての直感が、ピシャリと正解のコードを撃ち抜いた。
水がないんじゃない。
最先端の自動フィルターが、街の電圧低下のせいで「中途半端に閉じた状態」でフリーズしているのだ。だから水圧が落ち、パイプの錆や土砂が逆流して水が濁っている。
システムが高度すぎて、電力を失った瞬間に融通の利かないただの「ゴミ」と化しているのだ。
「直せる。……いえ、完全に復旧させるのは無理でも、あのバルブを『手動で強制開放』してバイパスを通せば、水圧で泥を押し流して、きれいな水をここに引けるはず」
キーボードもハンダゴテもない。
だけど、私にはバグの解析ログがある。
あの傲慢な運営が作った「完璧なはずの自動インフラ」の、どこを突けばシステムを騙せるか、その「脆弱性」がはっきりと見えていた。
「タハールさん。その水飲み場ってところ、私に案内して」
「あん? お前みたいな小娘が、あんな薄暗いところに行ってどうするんだ」
「いいから。……アイツに、あの農業バカに『お前のスープ、水が濁っててまずかったわよ』って文句を言うために、まずはこの街の環境を少しデバッグしてあげるの」
不敵に笑う私を見て、タハールは呆気にとられたようにパチクリと目を瞬かせた――。
よし、最初のパッチ(修正)をあてに行くわよ。
私は汚れたジーンズのポケットに手を突っ込み、まだ見ぬカイの、そしてこの街のインフラの心臓部を目指して、タハールの後を追い歩き出した。
――その私の背中を、広場の天井に設置された、レンズの曇った監視カメラが、微かな駆動音を立てて静かに追尾していることには、まだ気づかないまま。




