第4話 午前二時のサルベージ
遠くで鳴り響いていた人工排水の爆音すら、夜の深まりとともにどこか遠のいていく。
バベルの街に、完全な静寂が訪れていた。
焚き火の消えかけた広場で、十数人の住民たちが静かに寝息を立てているのを確認し、私は音を立てないように立ち上がった。
天井に張り巡らされた照明パネルが、ある時間を境にぐっと暗さを増した。地下都市でも、照明の明暗で昼夜を作り出しているらしい。バベルの人工の夜は、思っていたより本物に近かった
ジーンズのポケットに両手を突っ込み、片方ないサンダルを引きずるようにして、昼間ネビルに連れ戻されたあの薄暗い地下通路へと引き返す。
スマホの画面が午前二時を示している。活動が止まったバベルは、本当に冷える……
吐き出す息が白かった。Tシャツ一枚の身体がガタガタと震える。
見つかれば、あの冷徹な支配者・ネビルに何をされるか分からない。寿命を縮めるぞ、という彼の警告が頭をよぎる。だけど、ここで縮こまってスープを待つだけの家畜になるくらいなら、私はエンジニアのプライドを賭けて動く。
壁を伝い、記憶だけを頼りに暗闇を進む。そして――見つけた。
崩落した天井のコンクリート片が山積みになった、その影。
私は這いつくばり、泥とコンクリートの粉塵の中に両手を突っ込んだ。
「冷たっ……! 痛っ……、どこよ、どこにあるの……」
尖ったコンクリートが爪の間を割り、ジーンズの膝が真っ黒に汚れる。
東京の冷房が効いたラボでキーボードを叩いていた私が、まさか異世界の廃墟で泥まみれになってゴミ漁りをするなんて、誰が想像しただろう。
カツ、と指先に硬いプラスチックの感触が当たった。
「……あった!」
押し潰された筐体を強引に引き剥がし、中の緑色の基盤――錆びついたマザーボードを引っ張り出す。
それだけじゃない。
私はその周囲をさらに漁り、奇跡的に千切れていなかったシリアルケーブルの端子と、焦げた回路から突き出ていた小さなジャンクチップを、爪が割れるのも構わずに素手で毟り取った。
「やったわ……。これで、物理的なインターフェース(接続口)が作れる……!」
獲物を抱え、私は息を殺して割り当てられた自分の狭い部屋へと滑り込んだ。
部屋の片隅。
僅かに差し込む街灯の微光の下で、私は作業を開始した。
手元にハンダゴテなんて便利なものはない。
私は落ちていた尖った鉄格子の破片を使い、拾ってきた基盤からどうにか細い銅線をむしり取った。
狙うのは、左腕の端末の隙間――ボルト留めされた金属のわずかな隙間に覗く、露出した回路の接点。
(……やるの? 本当に?)
銅線を持つ指先が、情けないほどにガタガタと震えていた。
背筋を冷たい汗が伝う。
もし、昔観た古い映画にあった、無理に逆らったり分解しようとすると強制的に爆発する囚人の首輪のような罠が、この端末にも仕込まれていたら?
この銅線を触れさせた瞬間、激しい爆音とともに、私の左手首は肉片となって消し飛ぶかもしれない。
恐怖で息が詰まりそうだった。
生唾を飲み込み、端末の硬い金属の質感を凝視する。
(落ち着きなさい、私。……よく見て。拉致した人間に配るだけの、大量生産された安物だからか、それとも地球人の技術力を舐めきっているのか。高度なテクノロジーに見えたこの端末は、外殻の気密設計が甘い。内部に爆薬を詰める容積も、熱を閉じ込める構造もない。ショートさせて起きるのは、最悪でも過電流によるフリーズか、一瞬強い電気ショックが走る程度のはず……!)
エンジニアとしての必死の熱計算が、頭の中で弾き出した確率は「爆発の可能性、ゼロコンマ数パーセント以下」。
だけど、確実な保証なんてどこにもない。
このまま怯えて、あの冷酷なネビルから週に一度のスープを恵んでもらうだけの家畜として、じわじわと心が死んでいくのを待つのか?
(そんなの、絶対に御免だわ。……カイなら、目の前がどれだけ不気味でも、自分の足で一歩を踏み出すはずよ)
アイツの不屈の顔が脳裏をよぎった瞬間、恐怖のブレーキが、パチンと音を立てて外れた。
「要するに、荒療治よ!」
私は生唾を飲み込み、銅線の両端をその2つの接点へと、手作業で同時に力任せに押し付けた。
即席の、泥臭い回路ショート。
電気的に強引に短絡させられた瞬間、パチィッ!と小さな火花が飛び散り、私の左腕の端末がビクンと激しく痙攣した。赤黒い文字が激しいノイズとともに完全に歪み、画面がフリーズする。
脳内に、処理落ちしたような酷いノイズ混じりの音声が割り込んでくる。
『――警、告。システム異常を検知。システムへの、電、電流が、非正常――直ちに、シャット、ダ、ダダダダ――』
「よし、過電流保護回路が働いてセーフモードに落ちたわね! 傲慢な通常UIがフリーズしてる今なら、音声認識の初期化プロセスに割り込める……!」
私はショートを解除し、端末がパニックを起こして再起動する一瞬の隙を突いた。
高圧的な管理プログラムが立ち上がる前に、出荷時の初期認証モードに向かって、大声で私の「音声」を叩きつける。
「音声コマンドによる、新規ローカル管理者の登録申請! ユーザー名、カオル! 復旧プロトコルを強制承認しなさい!」
端末のシステムが、ショートのエラーから復帰するドタバタの中で、私の音声を「開発者の緊急コマンド」と誤認識し、悲鳴のような駆動音を上げた。
『あ、あ、エラー……例外処理(システム例外)から復帰。……音声コマンドによる緊急マスター権限の……一時的な登録を、受領しました。……はい、マスター・カオル。何なりとご命じください……』
高圧的だった音声が、バグを抱えたロボットのようにおどおどとした従順なトーンへと一変した。
最深部の暗号化領域は依然として鉄壁。
だけど、私の目の前でうるさく命令してくる「表層の案内音声」の主導権だけは、電気的なバグを突いて、完全に私の配下に堕としたのだ。
私は額の汗を拭い、泥まみれの手でニヤリと笑った。
「よし。とりあえず、あんたの名前は『バグ』でいいわ」
『認証……完了しました。私は……『バグ』。マスター、何なりとご命じください』
「バグ、最初の命令よ。私のスマートフォンの言語データを吸い上げて、この世界の言語との完全な翻訳データをローカル保存しなさい。それと、ネビルという男の動きに関するログが、その浅いシステム層に残っていないか検索して」
『了解しました。翻訳データの構築を開始。……ネビル氏に関するログを検索中。……警告、該当データは第2層以降の暗号化領域に存在するため、現在の権限ではアクセス不可能です』
「やっぱりそこはガードが固いか」
ため息をついたけれど、絶望はなかった。
左腕の端末は、もう不気味な脅迫状じゃない。
私の言葉に従う、私だけの道具になったのだから。
私は汚れたジーンズの膝をはたき、冷たい床の上に横たわった。
左腕で、バグの画面が健気にちいさく点滅している。
(一歩前進、ね。……カイ、あんたが別の場所で土をいじってるなら、私はこのバベルのシステムを少しずつ剥ぎ取ってやるわ)
泥の匂いと、錆びた鉄の匂いが混ざる部屋の中で、私はようやく、明日を戦うための小さな、だけど確実な足がかりを手に入れたのだった。




