第3話 管理人の男、錆びたマザーボード
「そこで何をしている」
暗闇から突然かけられた冷徹なその声に、私の心臓が爆音を立てた。
慌てて振り返る。
懐中電灯の細い光の向こうに立っていたのは、一人の男だった。
住民たちのようなボロボロの布ではなく、煤けてはいるものの、しっかりと仕立てられた暗い灰色の服を着ている。
年齢は四十代か、あるいは五十代か。
白髪混じりの髪を短く整え、酷く冷淡で、すべてを見透かすような濁った目をしていた。
「あ、えっと……」
咄嗟に言い訳を探す私を、男は値奮いするように上から下まで冷たく一瞥した。
「見ない顔だな。……新しく落ちてきた身寄りなしか。ここは崩落の危険がある。住民の立ち入りは禁止されているはずだが」
「……すみません。ちょっと、迷い込んじゃって」
愛想笑いを浮かべながら、私はジーンズのポケットの中で、左腕のクソ端末をそっと隠した。
男の口調は、ただの警告ではない。
逆らえば即座に排除されるような、絶対的な「警察」か、この街の「支配者」のような冷酷な威圧感に満ちていた。
(この男、絶対にただの住民じゃない)
背筋にまとわりつく、刺すような冷たい視線。
歩き方、佇まい、そして何より、この死にかけの街の人間が持つはずのない、圧倒的な「管理側の余裕」が滲み出ていた。
この男は、私を監視している。
直感がそう告げていた。だけど、ここで下手に敵対して暴れるのは悪手だ。
手元に武器も道具もない以上、私は何も知らない哀れな遭難者のフリをして、男の言葉に乗ることにした。
「あの、おじさん……、ここ、本当に何もないんですね。私、アフリカのあの村から急にここに連れてこられて、電波も繋がらないし、何が何だか分からなくて。おじさんは、ここの管理人さん、なんですか?」
捨てられた子猫のような弱々しい声を意識して作ってみる。
男は私の下手な演技を鼻で笑うこともなく、ただ感情の消えた声で淡々と言った。
「ネビルだ。この区画の配給と治安維持を、ジャンナから任されているに過ぎん。用がないならさっさと広場へ戻れ。ここにはお前の欲しがるような『まともな物』は何一つない」
ネビル。それがこの男の名前。
彼は私に背を向け、促すように歩き出した。
その高圧的な態度に、私は確信した。
彼は私を捕まえるでもなく、ただ「元の場所(広場)」へ戻そうとしている。
つまり、私はまだ、生かされたまま動向を観察されているのだ。
「……分かりました。戻ります」
私は素直に従うフリをして、ネビルの数歩後ろを歩いた。
片方ないサンダルのせいで、コンクリートの冷たさが足裏に直接伝わる。
悔しいけれど、今の私には戦う道具が何もない。
だけど、神様はまだ、私を見捨てていなかった。
曲がり角の手前、崩落した天井のコンクリート片が山積みになっている影を通り過ぎようとした、その瞬間。
ネビルの持つ懐中電灯の光が、ほんの一瞬だけ、そのガラクタの隙間を舐めるように照らし出した。
(――ッ!?)
私の目が、過敏に反応した。
埃と泥に塗れ、半分押し潰されたプラスチックの筐体。その隙間から覗く、緑色の基盤と、並んだコンデンサの列。
(マザーボード……! それに、あの形状は……旧世代のシリアルポート!?)
地球の技術ではない。
だけど、あれは明らかに、何らかのデータを処理するための「演算端末」の残骸だった。
心臓の鼓動が跳ね上がる。
欲しい。
喉から手が出るほど欲しい。
あれがあれば、あの錆びた基盤から通信チップやポートを引っ剥がせば、私の左腕のクソ端末に物理的につなぐためのインターフェースを自作できるかもしれない!
私は立ち止まりそうになる足を必死に動かし、何事もなかったかのようにネビルの後ろを歩き続けた。
今ここで拾えば、この冷徹な監視員に「私はシステムに細工をする気満々です」と言っているようなものだ。
広場の手前まで戻ると、ネビルは立ち止まり、振り返ることもせずに言った。
「物資の配給は週に一度だ。死にたくなければ、配られたスープをすすって、大人しく割り当てられた部屋で寝ていろ。余計な詮索は、寿命を縮めるぞ」
「……はーい。ご親切にどうも、ネビルさん」
私が皮肉を込めて手を振ると、男は暗闇の中へと溶けるように去っていった。
一人残された広場。十数人の住民たちが、焚き火の周りで力なく身を寄せ合っている。
私は自分のジーンズのポケットを外から叩いた。
道具はない。だけど、さっきの場所は覚えている。
(見てなさいよ、ネビルさん。大人しくスープだけすすって飼い殺しになるなんて、絶対に御免だわ)
夜が更けて、あの男の目が薄れる時間を待つ。
あの錆びたマザーボードを泥まみれになって掘り起こし、私の『反撃の環境』を構築するための戦いは、ここから始まるのだ。




