第30話 親友のチケット
「……逃げなさい、カオル」
どれほどの沈黙が続いた後だったか。
凍りついた空気を破ったのは、ジャミーラだった。
彼女は自分の着ていた、エキゾチックな民族衣装風の装具を震える手で脱ぎ始めた。
「ジャミーラ……?」
「私の服を着て。フードを深く被れば、街の連中はごまかせる。ゲートの警備も私のIDで開けるわ」
彼女は部屋の奥から、分厚いケースを引っ張り出してきた。
「これを使って。旧軍用規格の折りたたみ式電動モビリティよ。展開すれば荒野を走れるし、モーター駆動だから音もなくステルスで抜け出せる」
「待ってよ! あなたはどうなるの!」
装具を押し付けてくる彼女の両手を、私は強く握り返した。
「一緒に逃げよう! あなただって、システムに騙されてたんだ。こんな所に残る必要なんてない!」
「ダメよ」
ジャミーラは、私の手を優しく、けれど力強く振りほどいた。
「私もずっと組織の歯車として動いていたわ。ただ、こんなエンタメとして使われていたとは思わなかった。……でも、私たちが二人とも消えれば、運営はこの街のシステムを『バグ』として完全にリセットする」
彼女は、コンソールの奥に広がる街の灯りへ視線を向けた。
「私たちが血を吐く思いで繋いだあのインフラも、屋台のおやじたちも、全部消されるわ。私はこの街の管理者よ。責任がある。私が残って時間を稼げば、街は守れる。それに……私をこんな三流の劇に付き合わせた上層部の顔を直接見て、文句の一つも言ってやらないと気が済まないから」
強がるように笑う彼女の目には、大粒の涙が浮かんでいた。
私は唇を強く噛み締め、渡された服を身に纏い、折りたたまれた重い機体を背負った。
「カオル」
ジャミーラが、泣き崩れそうな顔で私を強く抱きしめた。
「……あなたは、私のたった一人の、本当の友人で、最高の同僚よ。生きて、カイに会いなさい」
私も、彼女の細い背中に腕を回し、堪えきれずに涙をこぼした。
「あなたも、最高の同僚で、最高の飲み仲間だった。絶対に生きて。また、あの屋台で一緒に蒸留酒を飲むんだから!」
私たちは涙を拭い、もう一度だけ強く頷き合った。
ジャミーラの衣装を着た私は、彼女の言う通り、誰にも怪しまれることなく街の境界ゲートを抜け出した。
背負っていたモビリティを展開し、赤い土を蹴って夜の荒野へと走り出す。
冷たい風が頬の涙を乾かしていく。
カイは南の砂漠にいる。それが運営の仕組んだ罠だとしても、私は行くしかない。
私は闇の中へ向かって、モビリティのアクセルを強く捻った。
* * *
【システムログ:監視チャンネル 01】
『User_0211:うおおお! 親友の自己犠牲&決死の脱出イベントキター!!』
『User_3394:ジャミーラとの涙の別れ、神回すぎる(泣) スパチャ投げとくわ』
『User_7718:運営、この脱出ルート用意したの天才だろw カオル完全に信じ切ってるし』
『User_4509:さあ、次は南の砂漠だ! 環境最悪のハードモードでカオルの絶望顔に期待!』
彼女たちの本気の涙すらも、安全圏にいる者たちにとっては極上のスパイスでしかなかった。
狂った箱庭の観測者たちは、主役が次の「舞台」へと飛び込んでいくのを、今か今かと待ちわびていた。




