第17話 自立の証明と、同僚との別れ
バベルの地下に清水と明かりを取り戻し、すべての引き継ぎを終えた出発の朝。
私が通路に出ると、人工排水の滝のフレームの前に、タハールが一人で立っていた。
手には、私が数ヶ月前に渡したあのプラスチック板のマニュアルが握られている。
おじさんは、水飛沫を浴びて泥にまみれながら、真剣な目で水車の駆動部を熱心に覗き込んでいた。
声をかけようと私が一歩踏み出した、その時だった。
「見てて、ここのボルト、もう自分で締められるようになったんだ」
タハールは振り返りもせず、だけど私の足音に気づいて、誇らしげにそう言った。
不器用な手つきで鉄片を構え、教えた通りにまっすぐ、垂直にグッと体重をかける。
ガチリ、と確かな金属音が響き、ボルトが完璧なトルクで締め直された。
(……泣かせないでよ、おじさん)
胸の奥がツンと熱くなり、視界がじんわりと滲む。
一年前、このバベルに落ちてきた私のジーンズの裾にすがりついて「直してくれ」と泣き叫んでいた老人の姿は、もうそこにはなかった。
仕様書をボロボロになるまで読み込み、自分の手でインフラを守る「一人のエンジニア」の背中が、そこにあった。
広場に出ると、他の住民たちも集まってきた。
だけど、以前のように「次は何を直してくれるんだ」という甘えた目は、誰一人として持っていなかった。
「おい、カオル。本当にあの外へ行くのか?」
「北に行くんだろ? 旅の安全を祈ってるよ、カオル」
住民たちは、私のことをもう「御使い様」とは呼ばない。
対等な一人の人間として、敬意を込めて「カオル」と名前で呼ぶ。
その響きが、地味に、だけど何よりも深く私の胸に効いていた。
彼らを家畜にせず、自立した人間にできたのだという確かな証拠が、その呼び名に詰まっていた。
「仕様書通りにメンテナンスしないと、またすぐシステムがハングアップするんだからね。しっかり保守しなさいよ」
私はぶっきらぼうにフンと鼻を鳴らし、涙を誤魔化すように、住民たちに背を向けて歩き出した。
後ろから、「分かってるさ!」「元気でな、カオル!」という、力強い、だけど温かい見送りの声が、いつまでも私の背中を押し続けてくれていた。
住民たちの声を背に受けながらたどり着いた、バベル地区の最果て――外の世界へと繋がる錆びついた巨大な鉄扉の前。
そこには、治安維持のネビルが、一人で壁に背を預けて待っていた。
彼の足元には、無骨な黒いサバイバルバックパックが置かれている。
ネビルは私が近づくと、無言でそれを拾い上げ、中から一つの小さな、だけどずっしりと重い金属製の『水筒』を取り出した。そして、何も言わずにそれを私へと手渡してきた。
受け取ると、中からはちゃぷちゃぷと、あの滝から引いた澄み切った清水の音がした。
「同僚への餞別にしては地味ね」
私は水筒の冷たい金属の感触を確かめながら、少しおどけた調子で軽口を叩いてみせた。
「黙れ。エンジニアが旅に出るとき、余計な荷物は邪魔になる」
ネビルは相変わらず冷淡なトーンのまま、低くそう吐き捨てた。
だけど、その濁った目の奥には、かつて私を犯罪者として査定していた時のような冷酷さは微塵もなかった。
そこにあるのは、同じ地獄を潜り抜け、同じ答えにたどり着いた、たった一人の信頼できる『同僚』への静かな敬意だった。
「ネビルさん。……あなた、一緒には来ないの? ハッカーが二人いたほうが、ファイアウォールを破るのも楽なんだけど」
鉄扉のレバーに手をかけながら、ネビルはフンと短く鼻を鳴らした。
「この区画の管理者だからな。俺が面倒見ないといけないだろ」
ネビルは自嘲するように目を伏せ、声音を一段低くした。
「……本当なら、お前みたいなシステムとアナログを融合できる技術者を、手放したくはないんだ。だが、俺の力ではこれ以上どうすることもできない。過酷な一人旅に出させてしまって、すまない」
その言葉には、かつて「全自動の地獄」で住民を全滅させてしまった男の重い贖罪と、管理者の冷酷な配置転換に対する無力感が込められていた。
ギギギギギ……と、重厚な金属音を立てて、一年間私を閉じ込めていたバベルの扉が、外の世界へと大きく開かれていく。
「行きなさい、カオル。お前の一番大切な人のところへ」
「ええ。……ありがとね、最高のパートナー」
私は一度だけネビルと視線を交わすと、振り返ることなく、新しいブーツで未知の荒野へと力強く一歩を踏み出した。
開かれた扉の向こうから差し込んでくるのは、どこまでも白く、眩い、バベルの出口の光だけだった。バベルを包む人工の滝の音が、遠ざかっていく。
カオルの背中が完全に光に溶けて見えなくなった後。
ネビルは鉄扉を閉ざし、手元の管理端末の画面に視線を落として――息を呑んだ。
先ほど彼が、自分の決死のハッキングで突破したと思い込んでいた上層のセキュリティゲートのログ。
そこには『特権管理者による一時的なアクセス許可』という、見慣れない不可解な痕跡が残されていた。
「……初めから、俺に座標を渡させるように仕向けられていたのか?」
ネビルは暗い通路の中で、自分たちを駒として弄ぶ、底知れぬ悪意の気配にただ立ち尽くすことしかできなかった。




