第16話 座標の掘り出し方
涙は、あの夜に全部バベルの砂に吸わせた。
翌朝、ネビルの執務室のコンソール前に座る私の顔からは、迷いも感傷も完全に消え去っていた。
泥だらけだった指先はきれいに拭われ、左腕の『バグ』の画面には、ネビルから付与された緑色の管理者用コマンドラインが静かに明滅している。
「……始めるわよ」
私の呟きに、隣で腕を組んでいたネビルが、フンと短く鼻を鳴らした。
「ずいぶん切り替えが早いな。昨夜はあれほど醜く泣き喚いていたというのに」
「うるさいわね。あれはただのデトックス。バグを吐き出し切ったシステムは、処理速度が跳ね上がるのよ。……さあ、ネビル、あなたの管理端末の暗号キーを貸して。ここからジャンナ(上層)のメインサーバーへ、本格的なバックドア(裏口)をこじ開けるわ」
ここに放り込まれた頭書の私は、生き延びるために『システムの表層』を弄るのが精一杯だった。
だけど、今の私にはルート権限がある。
狙うのは、この世界が隠蔽している「キャスト全員の個人データ」――すなわち、カイの正確な三次元座標だ。
キーボードを叩く私の指先に、かつての「荒療治」の危うさはない。
どこまでも淡々と、冷徹に、プロとして無駄のないコード(プロトコル)を走らせていく。
左腕のバグが、青いシグナルを激しく明滅させた。
『マスター・カオル、警告。これより深いデータ階層への侵入は、本部の検知プロトコルに触れるリスクが跳ね上がります』
「そんなの百も承知よ。バグ、ファイアウォールの巡回パターンの隙間を計算して、私の接続ログをそこに隠蔽しなさい」
『了解です。……処理を実行。……成功しました。ジャンナ中央サーバー・ステージ1のキャスト位置情報の取得を完了。データをマスターの画面へ転送します』
パチリ、とスマホの画面に、広大なこの世界全体の立体マップが浮かび上がった。その遥か北方の地、緑色のドットが一つ、静かに点滅している。
「あった……!」
思わず息を呑む。
だけど、その距離の数値を見た瞬間、私の指がピタリと止まった。
「……ずいぶん遠いわね」
『はい。徒歩での推定移動時間は、現在のバベル地区の座標から、昼夜連続で歩き続けたとしても――』
「いいわ、計算は自分でやる」
私はバグの音声アシストを途中で遮り、画面のマップをピンチアウトして、地形で割った実質的な移動ルートの算定に入った。
今までの私なら「そんな遠くへどうやって行くのよ!」とパニックになっていたはずだ。
だけど今の私は、提示された困難なデータに対して、どうやってパッチを当てるか、どうやってタスクを切り分けるかを、脳内で冷静に組み立てている。
バグとの掛け合いを見つめていたネビルが、椅子の背もたれに体重を預け、低く笑った。
「同じハッキングをしているというのに、別人のようだな」
「言ったでしょ、私はプロのシステムエンジニア。要件が定義されて、ターゲットの座標が決まったなら、あとはそこまでの最短ルートのプログラムを書くだけよ」
私はスマホをジーンズのポケットに滑り込ませ、立ち上がってネビルを真っ直ぐに見据えた。
「ネビルさん。カイの場所は分かった。ここから北へ約三百キロ。……ここを出るわ。出発の準備をさせて」
ネビルは何も言わず、ただその濁った目の奥で、私の「変わった姿」を静かに、だけど深く満足そうに査定していた。
拉致されてから、今日でちょうど1年。
ただの泣き虫な遭難者だったカオルは、もうどこにもいない。
相棒の背中を追いかけるための、本物の「同僚」の旅立ちが、今、静かに始まろうとしていた。




