第11話 慣れという病、底なしのバグ
バベルの地下に、自家発電の明かりが灯ってから、3か月が経過していた。
毎日、滝に潜ってファンに詰まるゴミを掃除し、水圧で歪む木製フレームの補強に追われる日々。
私の指先はすっかり荒れ果て、スマホのメモ帳には日々の泥臭い保守・運用ログが膨大に積み重なっている。
電力収支は「トントン」の完璧な水平線を維持しており、私の当てたパッチは、システム的には完璧にバベルの環境を安定させていた。
だけど、人間というシステムは、エンジニアの計算通りには動かない。
最初の数週間こそ、住民たちは私を神の使いか何かのように崇め奉り、すれ違うたびに頭を下げて「カオル様、本当にありがとう」と涙を流して感謝を口にしていた。
けれど、三ヶ月も経てば、その奇跡のインフラは住民たちにとって「あって当たり前の日常」へと変わっていく。
「おい、今日の水、なんか少し温くないか?」
「街灯の端っこ、ちょっと暗い気がするんだよな。カオル様、ちゃんと見てるのか?」
感謝の言葉は完全に消え失せ、今や少しでも出力が落ちれば不満が飛んでくる。
人間は、良くも悪くも「慣れる」生き物なのだ。
一度手に入れた豊かさを当然の権利として消費し始めた彼らの間には、今や低く不気味な『要求』のプロトコルが蔓延し始めていた。
その日の夜、私がいつものように滝の点検から戻ると、焚き火の周りにいた数人の住民が、待ってましたとばかりに私のジーンズの袖を引っ張った。
「どうしたの?」
「この広場だけじゃなくてさ、俺たちの寝床の通路にも、全部明かりをつけて欲しいんだよ。一歩広場を出ると真っ暗でさ。自分たちだけこんな惨めで真っ暗な箱に閉じ込められてるの、もう嫌なんだ」
「そうだそうだ!」
別の住民も身を乗り出してきた。
「あっちの崩落したエリアに、昔ジャンナの奴らが置いていった『音楽が鳴る聖遺物』が転がってるのを見つけたんだ。カオル様、あれに電気を通してくれよ。毎日あいつらと同じ綺麗な音楽を流して、人間らしいいい暮らしがしたいんだ」
住民たちが口々に私を取り囲み、要求のレイヤーを重ねてくる。
「待って、みんな落ち着きなさい」
私は引きつる笑みを浮かべ、両手を広げて彼らを制した。
「今の水車は、街の寿命を維持するためのミニマムなシステムなの。これ以上の電気をあちこちに回したら、またバッテリーが赤字になって、数日で全員の寿命が縮むわ」
「でもさ、カオル様ならもっと大きい水車を作れるだろ?」
「そうだよ、あの滝はあんなにデカいんだ。もっとファンをたくさん沈めれば、ジャンナの奴らみたいに、毎日贅沢に明かりをつけっぱなしにして暮らせるはずだ!」
「なんでやってくれないんだ? 俺たちをジャンナの奴らみたいに、もっと幸せにしてくれよ!」
「――ダメよ、無理なものは無理!」
私が声を荒らげると、広場は一瞬にして静まり返った。
住民たちは、まるで裏切られたかのような、不満と恨みがましい目で私をじっと見つめていた。
「ケチだな」「ジャンナの味方なのか」という陰口が、暗闇の奥からチクチクと突き刺さってくる。
彼らが求めているのは、ただの便利さじゃない。
ジャンナへの嫉妬と、奪われた尊厳の穴埋め。
それは、一度火がつけば二度と消えない、人間の根源的な欲望だった。
逃げるようにして自分の狭い部屋へ戻り、私は冷たい床に座り込んで膝を抱えた。
指先はまだ、一週間前の作業のせいでボロボロのままだ。
「なによ、これ……。システムを安定に保つのが、一番正しいはずなのに……」
ハックして環境を良くすればするほど、人間の心が甘え、飢え、歪んでいく。
このまま彼らの言う通りに電気を与え続け、インフラを豊かにすることが、本当にこの人たちの救いになるの? それとも、ただ自分で立つ気力を奪う「麻薬」を与えているだけなんじゃないの?
「……お前が与えたのは、ただの電気ではない。最悪の『毒』だ」
暗闇から響いた声に、私は弾かれたように顔を上げた。
扉の影に立っていたのは、いつからそこにいたのか、治安維持のネビルだった。
彼は相変わらず冷徹な目で、膝を抱える私を見下ろしていた。
「ネビル、さん……」
「豊かさを知った家畜は、二度と元のスープでは満足しない。お前がその原始的な知恵でこれ以上インフラを拡充すれば、需給のバランスは完全に崩壊する。人の欲求には、底がないからな……」
ネビルはそう吐き捨てると、私を嘲笑うこともなく、再び暗闇の中へと去っていった。
一人残された部屋。
左腕の暗闇の中で、バグの画面が健気にちいさく明滅している。
その冷たい光を見つめながら、私は初めて、自分の持つ『エンジニアの技術』の恐ろしさと、与え続けることへの深い恐怖に、身震いするような孤独の中で苦悩するのだった。




