第10話 最初の火花(パッチ)
「せーの、引けっ!!」
タハールの声を合図に、十数人の住民たちが泥まみれのロープをがむしゃらに引っ張った。
激しい人工排水の爆音としぶきが吹き荒れる中、地下倉庫から運び出した巨大な『サーバー用冷却ファン』が、即席の木製フレームに支えられて、滝の端の水流へとゆっくり沈み込んでいく。
だが、牙を剥く大自然のエネルギーは甘くなかった。
ガガガガガッ!
「うわあああ! ロープが、ロープが持っていかれる!」
「フレームが軋んでる! 支柱が折れるぞ!」
水流に触れた瞬間、ファンの生み出す強烈な抵抗がロープを伝い、若い住民たちの手の皮を容赦なく剥き取った。悲鳴が上がり、木製のフレームがミシミシと不気味な音を立てて傾いていく。水圧の計算が、現場の泥と狂暴な水流のせいで狂いかけていた。
「諦めないで! 右のロープをあと5センチ弛めて! 角度を逃がすのよ!」
私は片方ないサンダルを泥に取られ、膝を突きながらも叫んだ。泥水が顔に跳ね、視界が真っ黒に染まる。タハールが「うおおお!」と声を枯らし、血の滲む手でロープをコンクリートの支柱に巻き付けた。
一進一退の、泥臭い力比べ。
何度もファンが水流に弾かれ、フレームの組み直しを余儀なくされる試行錯誤の末――ついに、ファンの羽根が完璧な角度で濁流を噛んだ。
ギュウウウウ――ッ!!!
猛烈な速度で、ファンが安定して回転を始める。
「カオル、ケーブルを! 早く!」
私は泥を蹴りながら這い寄り、ファンから伸びた高圧ケーブルの端子を、主電源室の予備ノードへと手作業で力任せに叩き込んだ。
バチバチッ!と激しい火花が散り、私の指先に鋭い痛みが走る。
だけど、目を逸らさずに中央の古びたモニターを見上げた。
不気味な赤字を刻んでいた電力収支のグラフが――ゼロ(トントン)のラインへと、目にも留まらぬ速さでピタリと跳ね上がった。
『――システムチェック。自家発電パッチの起動を確認。現在の消費電力に対し、発電量が完全に相殺されました。バベル地区のバッテリー寿命は、元の安定値へと復帰します』
耳元で響くバグの報告に、私は思わず泥だらけの拳を天高く突き上げた。
「やった……! 完了よ!」
私が叫んだ瞬間、見守っていた住民たちから、バベルの地下空洞を震わせるほどの、地鳴りのような大歓声が沸き起こった。
「やったぞ!」「本当に電気が戻った!」「カオル様万歳!」
タハールたちが、泥だらけの手で私の肩を叩き、ある者は涙を流して抱き合って跳ね回っている。
東京のオフィスで、誰にも気づかれないバグを黙々と修正していた私。
誰も褒めてくれなかった私の技術が、今、この檻のような街の100人の命を繋ぎ、絶望をひっくり返した。
胸の奥から湧き上がる圧倒的な達成感と全能感に、私は泥で汚れた顔のまま、最高の笑顔を浮かべていた。
その日の夜、広場には、これまでにない煌々とまばゆい明かりが灯っていた。
今まではチカチカと消えかかっていた街灯が、私たちが作った水車の電気によって、夜の闇を完全に払拭していたのだ。
ドラム缶に満たされた清水が、黄金色の光を美しく反射してきらめいている。
住民たちは焚き火を囲み、美味そうに水を飲みながら、口々に私への感謝を歌うように笑い合っていた。
冷たいバベルの夜が、今日だけは、まるで本当の祭りのように温かい。
私は広場の隅の特等席で、温かいスープの器を両手で包み込みながら、左腕のバグの画面をそっと爪で叩いた。
画面の中では、電力の水平線が美しく、完璧な安定を保ち続けている。
(カイ、見た? 私だって、身一つでここまでやれるのよ――)
離れた場所にいる、あの憎たらしいほど不屈な相棒への、届かない勝ち誇りを胸に抱きながら。
私は夜空のようなバベルの天井を見上げ、静かに、だけど心の底から満たされた心地よい余韻に浸るのだった。




