第二話 届かないはずの恋文は、わたくしに届いていました
翌週、またお茶の時間が来た。
殿下はいつものように書類を持ち込み、いつものように席に着いた。
ロレーヌは紅茶を淹れる。
けれどロレーヌは、もう以前のように平静ではいられなかった。
殿下の指がカップに触れる。
書類から一瞬だけ顔を上げ、ロレーヌを見る。
その灰青の瞳に、何か意味があるのではないかと思ってしまう。
「……今日は、庭の薔薇がよく咲いている」
唐突に、殿下が言った。
ロレーヌは驚いて目を瞬かせた。
殿下から話題を振られるのは、ひどく珍しい。
「ええ。とても綺麗ですわね」
そう答えると、殿下は何かを言いかけたように唇を動かした。
けれど、言葉は出てこなかった。
代わりに、灰青の瞳がすぐ書類へ戻る。
ロレーヌは胸の中で小さく笑った。
——今、何を言おうとしてくださったのかしら。
その答えは、少しあとにわかった。
「失礼します。殿下」
また側近が現れた。
急ぎの確認があるという。
殿下は立ち上がった。
そして、先週と同じように、ノートをテーブルの上に置いていった。
ただし今回は、ロレーヌにもわかった。
殿下は席を立つ前、ノートの角度をほんの少しだけ整えた。
開きやすいように。
そう見えた。
——偶然だわ。
ロレーヌはそう自分に言い聞かせた。
けれど殿下が部屋を出ると、彼女の手は、またノートへ伸びていた。
今度こそ、ほんの少しだけ。
確認するだけ。
『ロレーヌが今日、庭の薔薇を見て「綺麗ですわね」と言った。俺には、お前のほうがずっと綺麗だと思った。なぜ言えないのか。頭の中では何度も言っているのに』
「……っ」
声が漏れそうになって、ロレーヌは口を塞いだ。
顔が熱い。
心臓がうるさい。
先ほど、殿下が言いかけてやめた言葉は、これだったのだ。
——そんなこと、思ってくださっていたの。
ロレーヌはノートを閉じ、胸に手を当てた。
罪悪感はあった。
むしろ、先週よりも強くなっている。
これは、殿下の秘密だ。
本来なら、ロレーヌが知っていいものではない。
けれど、知ってしまった。
そして知ってしまった以上、知らなかった頃には戻れなかった。
それからも、毎週、同じことが繰り返された。
殿下はノートを持ち込み、席を外し、ノートを置いていく。
ロレーヌは「いけない」と思いながら、ページを開く。
最初のうちは、短い独り言のような記述だった。
『ロレーヌの指が好きだ。細くて、でも力強くて、ピアノを弾くときも茶器を扱うときも、すべての動作が優雅だ。あの手を、いつか握ってもいいだろうか』
『今日は少し顔色が悪かった。眠れていないのだろうか。心配で、夜、眠れなかった。お前にはよく眠ってほしい』
『ロレーヌが笑いかけてくれると、世界が少し明るくなる気がする。こんな感傷的なことを考えているとは、誰にも言えないが。お前だけに言う。お前には届かないとしても』
届かないとしても。
ロレーヌは、その一文を何度も読み返した。
——届いていますわ、殿下。
ちゃんと、届いています。
言えるわけがなかった。
盗み見ていたことを、どう説明すればいい。
殿下の心を勝手に覗き見て、それで救われていました、などと。
けれど、それ以上にやめることもできなかった。
あの冷静で、静かで、何を考えているかわからない殿下が、こんなにも自分のことを想っていてくれる。
それを知ってしまったら。
ロレーヌの日々は、少しずつ変わっていった。
茶会の前に、鏡を見る時間が長くなった。
ドレスの色を選ぶとき、殿下の瞳を思い浮かべるようになった。
髪飾りを変えた日、殿下が気づくだろうかと考えるようになった。
そして実際に、殿下は気づいた。
「……髪飾り」
ある日、殿下が書類から目を上げて言った。
「はい?」
「変えたのか」
それだけだった。
けれどロレーヌは、嬉しくてたまらなかった。
「ええ。秋らしい色にしてみましたの」
「……似合う」
短い言葉だった。
抑揚も乏しかった。
けれどロレーヌには、それがどれほど勇気を振り絞った言葉なのか、もうわかっていた。
「ありがとうございます」
ロレーヌが微笑むと、殿下はすぐに目を逸らした。
その耳の先が、かすかに赤くなっている。
ロレーヌは胸の中で、そっとその光景を抱きしめた。
その日のノートには、こう書かれていた。
『髪飾りのことを言えた。似合う、と言えた。たった一言なのに、声が震えそうだった。ロレーヌは笑ってくれた。もう少し、言葉にできるようになりたい』
ロレーヌは、ノートの上に涙が落ちそうになって、慌てて顔を上げた。
——殿下。
言葉が少ないのではない。
心がないのでもない。
むしろ、殿下の中には言葉にならないものが多すぎるのだ。
あふれそうで、苦しくて、だからこそ口に出せない。
正確に伝えようとするあまり、何も言えなくなってしまう。
ロレーヌは、殿下の沈黙の意味を少しずつ知っていった。
書類から顔を上げて一瞬だけこちらを見る、あの灰青の瞳。
ぶっきらぼうに「茶は飲んだか」と言う、あの声。
ロレーヌが咳をした日、何も言わずに部屋の暖炉の火を強めさせたこと。
帰り際、馬車の毛布を一枚増やすよう侍女に命じていたこと。
それらすべてに、ちゃんと色がある。
言葉にできない、不器用な、でも確かな——。
ある朝、ロレーヌは鏡の前で自分の顔を見つめて気づいた。
頬が、柔らかくなっている。
二年間、どこか緊張しながら過ごしていた。
好かれているのかどうかわからなくて、値踏みされているような気がして。
自分だけが、この婚約に意味を探しているのではないかと不安だった。
それがいつの間にか、溶けていた。
ロレーヌは、恋をしていた。
婚約者に、今さら。
いや、きっと最初からそうだったのだ。
ただ、確信が持てなかっただけで。
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