第一話 王太子殿下の日記を読んでしまいました
『今日もロレーヌは美しかった』
最初の一文を目にした瞬間、ロレーヌは息の仕方を忘れた。
なぜなら、その言葉を書いた相手は、婚約して二年、一度たりともロレーヌに甘い言葉を告げたことのない人だったからだ。
ロレーヌ・フォン・クロスフェルトは、その日、婚約者である王太子殿下の日記を読んでしまった。
そこには、王国の政務に関する覚書でも、貴族たちの名簿でも、外交上の機密でもなく。
ただ、ロレーヌへの恋だけが、怖いほど丁寧に綴られていた。
王太子エーヴェハルト・アルテア・レイエス殿下。
整いすぎるほど整った容貌。
光の加減によって色を変える灰青の双眸。
くせのない金髪。長い指先。
彫刻のように美しく、氷のように静かな人。
そして、ロレーヌの婚約者。
けれどロレーヌは、彼が自分をどう思っているのか、ずっと知らなかった。
その週の茶会も、いつもと同じように始まった。
ロレーヌは公爵令嬢らしく背筋を伸ばし、磁器のカップを静かに置いた。
向かいに座る殿下は、今日もやはり美しかった。
ただし、その美貌はロレーヌに向けられてはいない。
殿下の灰青の瞳は、手元の書類に落ちていた。
お茶の時間とは名ばかりで、殿下はいつも仕事の書類を持ち込んでくる。
ロレーヌも最初のうちは気を揉んだ。
二人きりの時間なのに。
婚約者同士、お互いを知るための時間のはずなのに。
けれど、もう慣れた。
週に一度、決められた時間に同じ部屋で向かい合い、ロレーヌが茶を淹れ、殿下が短く返事をする。
それが、彼らの『定例の時間』だった。
「殿下、今日のお茶はダージリンですわ。先週ご所望でしたので」
殿下の指が、書類の端で止まった。
「……ああ」
それだけだった。
礼も、感想も、なかった。
けれど無視ではない。殿下の返答としては、これで十分なのだろう。
ロレーヌは小さく息を吐いた。
怒っているわけではない。
悲しんでいるわけでもない。
ただ、少しだけ——ほんの少しだけ、虚しかった。
婚約が決まってから二年が経つ。
殿下が無礼なわけではない。
ロレーヌを蔑ろにするわけでも、他に想い人がいるわけでもないと、側近から聞いている。
ただ、この方は生まれながらにして口が重く、感情を表に出すことをしない人なのだ。
——わたくしのことが、好きなのでしょうか。
答えの出ない問いを、ロレーヌは胸の奥にしまい込んだ。
そのとき、扉がノックされた。
「失礼します。殿下、至急のご報告がございます」
側近の声だった。
殿下の眉がわずかに動く。
書類から目を上げ、ロレーヌを一瞥した。
「少し席を外す。待てるか」
「もちろんですわ」
殿下は立ち上がり、慣れた動作で上着を整えた。
そのとき、ロレーヌは見た。
殿下がテーブルの上に置かれていた革張りのノートへ、ほんの一瞬だけ視線を落としたのを。
そして、なぜかそのノートを閉じ直さなかった。
ページの端が、わずかに開いたままになっている。
「……すぐ戻る」
そう言って、殿下は部屋を出ていった。
部屋に残されたのは、ロレーヌと、まだ湯気の立つ紅茶と、一冊のノート。
革張りの、落ち着いた色のノートだった。
殿下がいつも仕事の書類に紛れて持ち込んでいるものだ。
ロレーヌはそれが何かを知らなかった。
仕事のメモか、政務の覚書か、あるいは視察先の記録だろうと、気に留めたことさえなかった。
けれど今日は、ページの端が少しだけ開いている。
まるで、呼ばれているみたいに。
——いけないわ。
ロレーヌは膝の上で手を重ねた。
他人の持ち物を勝手に見るべきではない。
ましてや婚約者とはいえ、王太子殿下の私物だ。そこに政務の機密が書かれている可能性だってある。
見てはいけない。
触れてもいけない。
そうわかっているのに、ロレーヌの視線はどうしても、その開きかけたページへ吸い寄せられた。
ほんの一行だけ。
確認するだけ。
そんな言い訳が、胸の中で弱々しく浮かんだ。
気づいたときには、ロレーヌの指先はノートの角に触れていた。
恐る恐る、ひとページだけ開く。
そこには、殿下らしい端正な文字が並んでいた。
『今日もロレーヌは美しかった。ダージリンを頼んでいたことを、覚えていてくれた。なぜ俺はそれを、直接礼が言えないのだろう』
ロレーヌは、息を忘れた。
これは、政務の記録ではない。
覚書でもない。
殿下の、心の内だ。
読んではいけない。
そう思ったのに、視線はもう次の行を追っていた。
『カップを置く指先まで綺麗だった。所作の一つひとつが静かで、見ていると呼吸を合わせたくなる。俺は今日も、返事ひとつまともにできなかった』
ロレーヌは唇を押さえた。
胸の奥が、かすかに痛んだ。
『ロレーヌが笑うと、胸が痛い。うまく言えないが、痛くて、苦しくて、もっと見ていたくなる。これが何なのか、俺にはもうわかっている。だが言葉にすると嘘くさくなる気がして、どうしても口から出てこない』
——殿下。
ページをめくる手が震える。
それでも、やめられなかった。
これは恋文ではない。
ロレーヌ宛てでもない。
殿下が誰にも見せるつもりのなかった心の内だ。
だから、読んではいけない。
そう思えば思うほど、次の文字から目を離せなかった。
扉の外で、足音がした。
ロレーヌは慌ててノートを閉じ、元の位置に戻した。
けれど、戻ってきたのは殿下ではなく侍女だった。
「ロレーヌ様。殿下はもうしばらくかかるとのことです」
「……そう。わかりました」
侍女が去ったあと、ロレーヌはひとり、静かになった部屋で動けなかった。
見てしまった。
いけないとわかっていながら、王太子の日記を勝手に読んでしまった。
ロレーヌは自分が恥ずかしかった。
けれどそれ以上に、胸の奥が熱かった。
殿下は、あんなことを考えていたのか。
あの短い「ああ」の裏で。
あの冷静な瞳の奥で。
あの無表情のまま、そんなふうに自分を見ていたのか。
その日は結局、殿下が戻ってくる前に茶会は終わった。
帰り際、侍女から「殿下から、お詫びを」と告げられた。
いつもなら形式的な言葉として受け取るところだ。
けれどその日だけは、その短い伝言にさえ、胸が騒いだ。
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