【reverse 54 荒野の6人】
葛島神社の夜が明けた。
朝の光が、川面をゆっくりと照らし始めた。
焚き火を囲む花と本田と鈴菌。
RS50に跨ったまま動かない龍馬。
そこへ、馬の蹄の音が聞こえてきた。
「アプリさん! 遅いですよ!」
花が駆け寄った。
その視線が、馬の前に座る小さな子供に釘付けになった。
「……アプリさん、その子は?」
「タツだ。道中で拾った。……あー、それと、こいつは女の子だった」
花の目が、鋭く光った。
*
花は、タツのそばに膝をついた。
バサバサに傷んだ髪を、そっと指で梳いた。
指が、途中で止まった。
ブチッ。
「……アプリさん」
「……なんだ」
「昨日の夜、タツちゃんの体、何で洗いました?」
「……メリットだ。背負子の奥に入ってたやつだ。汚れはよく落ちる」
パチン、と花の心の中で何かが弾けた。
「信じられない!! メリット!? タツちゃんは女の子ですよ! そんな、お父さんの枕みたいな匂いがするシャンプー、この子に使ったんですか!? 乙女の髪をなんだと思ってるんですか!」
「いや、メリットは花王のロングセラーで、地肌を健やかに……」
「問答無用です! 本田くん、お湯! 早くお湯沸かして!」
花は、怒涛の勢いで自分の荷物をひっくり返した。
取り出したのは、オーロラ色に輝くボトルだった。
エッセンシャル THE BEAUTY バリアシャンプー。
「いい、タツちゃん。これが本当の『シャンプー』っていうものよ」
*
花が、川原でタツの髪を濡らした。
魔法の液体を、手のひらで泡立てた。
その瞬間。
辺り一面に、フローラルリュクスの、上品で瑞々しい香りが爆発した。
「……!! ぶ、ぶはぁぁぁぁっ!!」
タツが、天を仰いで叫んだ。
「な、なんだこれはぁぁぁ! 鼻の奥がお花畑になったぞ! メリットの『清涼感』とは次元が違う! 脳みそがトロけて、耳から花が咲きそうだぁぁぁ!!」
タツの背後に、満開の桜と黄金の後光が差しているように見えた。
「落ち着いてタツちゃん、まだ流してないから。次はトリートメントね」
花が手際よくトリートメントを指に取った。
昨夜までゴワゴワのタワシのようだったタツの髪が、見る間に潤いを含んでいく。
重みを持って、しなやかに垂れていく。
「……お、おおぉぉぉ……!!」
タツの目が、カッと見開かれた。
「指が……指が止まらない! 髪の毛一本一本が、上等な絹糸に変わっていく! これだ、これがおいらが求めていた『女の子』の感触だぁぁぁ!! 旨いものを食った時より、体中の血が騒ぐぞぉぉぉ!!」
タツは、川面に映る自分の姿を見て、また号泣した。
「お姉ちゃん……おいら、生きてて良かった……! 昨日のメリットは『修行』だったんだね!」
「そうよタツちゃん、あれは忘れていいの。女の子は、こういう良い匂いの中で生きていかなきゃダメなんだから」
花が、得意げにアプリを睨んだ。
アプリは、本田の横で小さくなってカップ麺を啜っていた。
「……本田、十九歳の女子ってのは、シャンプー一つでここまで熱くなれるもんなのか?」
「アプリさん、地雷踏みましたね。メリットは良い商品ですけど、十九歳の美意識の前では『無』に等しいんですよ……」
朝の光を浴びて、タツの髪に天使の輪が浮かんでいた。
龍馬が、RS50のエンジンをかけながらガハハと笑った。
「まっこと、女子の執念いうがは、黒船よりも恐ろしいちや!」
*
髪を洗い終えたタツが、焚き火のそばで自分の手をじっと見ていた。
指先が、ひび割れていた。
手の甲が、寒風に焼かれて象の皮膚のように硬く、どす黒くなっている。
「……痛そう」
花が、タツの隣に座った。
タツが、慌てて手を隠そうとした。
「いいんだ。おいらの手は、馬の蹄と同じだよ。おっちゃんが削ってくれた蹄みたいに、硬くて丈夫なんだ」
「女の子の手が、蹄と同じなわけないでしょ」
花は荷物から、丸くて平べったい青い缶を取り出した。
蓋を開けると、真っ白で濃厚なクリームがぎっしり詰まっていた。
「……なんだい、それは。食べ物かい?」
「ううん。これはね、お肌を守る『盾』よ。ニベアっていうの」
花は指先でたっぷりとクリームを掬い、タツの手の甲に乗せた。
体温で溶かすように、ゆっくりと広げていく。
「…………っ!! ぐわああぁぁぁぁぁっ!!」
タツが、またしても天を仰いで絶叫した。
「な、なんだこの……この『守られてる感』はぁぁぁっ!! 白い雪のような塊が、おいらの手に触れた瞬間……火照っていた傷口が、凪いだ海のように静まっていく! まるで、手だけが極上の布団に包まれているみたいだぁぁぁ!!」
花が、さらに指の節々まで丁寧に塗り込んでいく。
白かったクリームが肌に吸い込まれ、透明に変わっていく。
硬く強張っていたタツの皮膚が、みるみるうちに柔らかく、桃色に透き通っていく。
「……お、おいらの手が……動く。動くぞぉぉぉっ!! 今まで、曲げるたびにパキパキと鳴っていた手の皮が、しなやかだ! この匂い……優しくて、懐かしくて……お母ちゃんの匂いがする……!!」
タツは、自分の手を頬にすり寄せた。
ニベアの香りに包まれながら、大粒の涙が流れた。
「お姉ちゃん……おいら、この手があれば、どんなに遠い山道だって馬を引いていけるよ! この青い缶には、仏様が閉じ込められてるのかい!?」
「仏様じゃないわよ。花王のニベアよ。……ほら、もう片方の手も出して」
アプリが、ぼそりと呟いた。
「……ニベア一つで、世界が救われたような騒ぎだな」
「アプリさん、馬鹿にしちゃダメですよ。この時代の子供にとって、保湿っていう概念そのものが『救済』なんですから」
本田が、スマホで天使の輪とニベアの手を持つタツを写真に収めた。
龍馬が、ハンドルを握ったまま感慨深げに眺めていた。
「……まっこと。見舞金泥棒らあを考える知恵より、その青い缶を一つ配る知恵の方が、世の中を明るうするかもしれんのう。……よし、タツ! その『盾』を装備して、阿波までぶっ飛ばすぜよ!」
「おう! 仙人様もお姉ちゃんも、置いていかないでよ!」
*
出発前の朝食だ。
花が米を炊いて、昼食用の握り飯を作った。
本田が、全員分のうまかっちゃんを作った。
できた順に、それぞれの器に流し込んでいく。
最初は龍馬の器に入れた。
龍馬が、一口飲んだ。
「……ほう! これはたまげたぜよ。この白い汁、見た目は泥のようじゃが、一口飲めば猪の肉より濃厚な旨みが広がる。まっこと、九州の衆は恐ろしいもんを考え出すもんじゃのう!」
美味そうに食べる龍馬を、タツが羨ましそうに見ていた。
本田が、タツの器にも注いだ。
タツが、恐る恐る一口食べた。
止まった。
「う、う、う、う、う、う……」
タツの目に、黄金の光が宿った。
「うーっ! まーっ! いーっ! ぞぉぉぉぉぉーーーっ!!!」
衝撃波が広がった。
本田のプレスカブが揺れた。
鈴菌のハスラー50のミラーが震えた。
繋がれていた馬が、嘶いた。
「なんという……なんという調和だ! この白いスープ! 豚の骨の芯まで煮出した濃厚な旨みが、まるで太平洋の黒潮のごとく私の舌に押し寄せてくる! それでいて、後味は決してしつこくない! これぞまさに、荒波に揉まれる船を操るような、繊細かつ大胆な技法だ!!」
「さらに、この細麺! スープを余すことなく抱き込み、喉を通る瞬間の感触は、まるで満開の桜並木を駆け抜ける春風のようではないか! あぁ……見える! 私には見えるぞ! 九州の広大な大地が、そこで豚と共に生きる人々の情熱がぁぁーっ!!」
「味皇! うるさい!」
アプリが、静かに諌めた。
タツは、おとなしく座ってうまかっちゃんを食べた。
龍馬が、初日から思う存分この生活を楽しんでいた。
*
いよいよ、出発だった。
東の空が、朝日に燃えていた。
先頭に、アプリとタツが馬で走り出した。
続いて龍馬がRS50に乗った。
花がモトラで続いた。
本田がプレスカブで続いた。
殿を、鈴菌がハスラー50で走った。
土佐東街道が、阿波へ向かって伸びていた。
龍馬が、RS50を操りながら笑っていた。
風が、東から来ていた。
昨日まで縁側で昼寝していた男の顔とは、もう、どこにもなかった。
朝の光の中を、六人が東へ走り出した。




