【reverse 49 きれいを こころに 未来に 小宇宙に】
朝七時。
仁淀川の河原に、霧が立っていた。
川面から白い靄が静かに上がって、山の輪郭を滲ませている。
空は薄い水色だ。
まだ日が低い。
アプリは霧の中に馬を出した。
アプリリア……アププリンが、霧を踏みながら歩く。
蹄の音が、川の音に混じった。
(この景色、ツーリング雑誌の表紙だろ)
バイクで走っていたら、絶対に止まって写真を撮っていた。
でも今日は、ただ、通り過ぎていく。
それでいい気がした。
*
朝霧の中を、川沿いの街道が続いた。
右手に、仁淀川。
左手に、虚空蔵山の稜線。
石鎚山系の山々が、霧の向こうに重なっている。
山桜の蕾が、街道沿いの木々についていた。
まだ白い、固い蕾だ。
でも、もう少しで開く。
鳥が鳴いた。
また鳴いた。
霧の中から、声だけが来た。
タツが、アプリの前でうとうとしていた。
昨夜の桃缶のせいだろう。
よく眠れたのかもしれない。
アプリは、手綱を緩めたまま進んだ。
*
八時半を過ぎた頃、山が近づいてきた。
川が、蛇行し始めた。
左手に、形の違う山が現れた。
横倉山だ。
丸くも尖ってもいない。
どっしりとした、重い形の山だ。
山肌が、他の山より濃い緑をしている。
アプリは、その山を見た。
(化石が出る山か……バイクで来た時には気づかなかったな)
あの時は、鍋焼きラーメンを食べた後、桂浜に向かって走っていた。
景色を見る余裕が、あの日の四人にはまだなかった。
今は、ある。
馬の背から、横倉山を見た。
ゆっくりと、近づいて、また遠ざかっていく。
この見方は、バイクでは無理だ。
*
九時を過ぎた頃、谷が開けた。
仁淀川が、大きく曲がっている。
田畑が広がった。
茅葺きの家が、点在している。
煙が、朝の空に細く上がっている。
越知の谷だ。
「町が見えたぞ!」
タツが、目を覚まして顔を上げた。
「あれ? あそこ! なんか変な人がいるよ」
街道の脇に、若い男がうずくまっていた。
左足を押さえている。
アプリは、手綱を引いた。
「どうした?」
男が、顔を上げた。
若い。
二十歳前後だろうか。
「左足の小指の爪を剥がしただけなので、大した事ないです。わざわざ馬を停めて頂いて申し訳ないです」
アプリは馬から降りた。
男の足を見た。
爪が、伸びていた。
小指の先が、血で滲んでいる。
少し引っかければ、また剥がれる。
アプリは、ポーチから爪切りを取り出した。
それから、タツに向いた。
「手を出せ」
「え?」
「爪を切ってやる」
タツが、おそるおそる手を差し出した。
アプリが、タツの爪を一本ずつ切った。
パチン。
パチン。
男が、目を丸くして見ていた。
切り終えた後、アプリは爪切りを男に手渡した。
「爪が伸びてるとまた引っ掛けるぞ。こいつの爪みたいに切ってみろ」
男が、爪切りを受け取った。
しばらく眺めた。
それから、タツを見本に、自分の足の爪に当てた。
パチン。
「切れた! こ、これは凄い……!」
タツも、隣で目を輝かせていた。
男が、足の爪を一本ずつ切った。
切り終えた。
アプリは絆創膏を取り出して、左足の小指に貼ってやった。
男が、唖然としたまま自分の足を見ていた。
それから、顔を上げた。
「拙者は田中光顕と申します。このお礼は必ず致しますので、よろしければお名前を……」
「礼なんていい。それよりも、越知で我々でも泊まれる宿はあるか?」
田中光顕が、少し驚いた顔をした。
それから、すぐに立ち上がった。
「宿ですか? それなら谷脇という旅籠が私の親戚です。良ければ案内させて下さい」
*
田中光顕が、馬の前を歩いた。
越知の町が、近づいてきた。
仁淀川が、町の手前で大きく曲がっている。
横倉山が、川の向こうに見えていた。
馬継場で、アプリリアを預けた。
田中光顕が、世話役の男に何か話した。
谷脇旅籠は、町の中ほどにあった。
シーズンオフのようで、客の姿はない。
アプリとタツの貸切だった。
女将が、宿帳を出してきた。
「……申し訳ない、田中殿。俺たちは字が書けません。代わりに書いてもらえませんか?」
「もちろん任せてください」
田中光顕が、筆を取った。
「お名前は?」
「アプリとタツだ」
「どちらの?」
「上町才谷屋」
田中光顕が、宿帳に書いた。
女将に手渡した。
女将が、二人を部屋へ案内した。
*
女将から、風呂を自分たちで沸かすなら使っていいと言われた。
タツが水汲みに行った。
その間に、アプリは田中光顕と呉服屋へ出かけた。
「田中殿、ここまで付き合わせて悪いな」
「いえいえ、こんなことはご恩返しにもなりませんよ」
田中光顕が、笑いながら言った。
アプリは呉服屋で、男の子用の着物を買った。
タツのためだ。
田中光顕が、宿まで送り届けてくれた。
それから、自分の家へ帰っていった。
角を曲がったところで田中光顕は気づいた。
爪切りを、返し忘れた。
(明朝、見送りの時に返せばいい)
そのまま、歩いていった。
*
宿に戻ると、タツが湯を沸かし終えていた。
アプリが先に五右衛門風呂に入った。
久しぶりの風呂だった。
湯が、芯まで温かかった。
次はタツの番だった。
「どうやって入るの?」
タツが、風呂桶の前で固まっていた。
五右衛門風呂は、入り方がある。
底の板を踏んで沈めながら入る。
そうしないと、鉄の底が熱い。
アプリが教えた。
タツが入った。
その間に湯が冷めてきたので、アプリは外に出て薪をくべた。
火吹き棒で火力を調整しながら、格子窓の隙間から声をかけた。
「これを使え」
緑色のボトルを、格子窓の隙間から差し入れた。
「少しだけ頭に垂らして、ガシガシ洗え」
メリットシャンプーだ。
洗い場で、タツが言われた通りにやった。
泡が、あまり立たなかった。
「もう一度やれ」
二度目。
「仙人様ーーー!!! なんじゃこれーーー!! 雲みたいなやつ出たーーー! 雲だ! 雲! 仙人様は雲も操れるの?」
格子窓の外で、アプリは火吹き棒を咥えたまま笑った。
洗髪が終わったようだったので、今度は別のボトルを差し入れた。
「手ぬぐいに少し垂らせば雲が出る。身体をそれで洗え」
ビオレUだ。
しばらくして、湯船に浸かる音がした。
「脱衣場に浴衣がある。それを着ろ」
「え? あれってオイラも着ても良いの?」
「当たり前だ」
*
風呂から上がったタツは、しばらく自分の髪を触っていた。
サラサラだった。
おそらく、生まれて初めての感触だ。
浴衣を着て、不思議そうに裾を眺めていた。
アプリが、缶詰を出した。
フルーツみつ豆だ。
スプーンと一緒に渡した。
タツが、缶詰を受け取った。
昨日の缶詰騒ぎを経て、缶というものには慣れた顔をしていた。
(また桃が食える!)
タツが、中を覗いた。
止まった。
「……仙人様。これは宝石? オイラに宝石をくれたのかい?」
「そんなわけあるか。良いから黙って食え」
タツは、スプーンで色鮮やかな寒天とフルーツを掬った。
恐る恐る、口に運んだ。
「な、なんだこれはぁぁぁっ!!」
スプーンが、震えた。
「この白い立方体……ただの石かと思えば、舌の上で涼やかに崩れ、鼻を抜けるこの清涼感! まるで初夏の渓流をそのまま固めたかのような喉越しだ! そしてこの黄色い果実……桃とは違う、この弾けるような酸味と甘みの奔流は何だ! 歯を立てるたびに太陽の恵みが口いっぱいに溢れ出すではないか!」
タツが、天を仰いだ。
「うーまーいーぞぉぉぉぉっ!!」
宿の廊下に、声が響いた。
「仙人様……! 貴殿はこの一缶の中に、桃源郷を閉じ込めたというのか! 昨日の桃が『静』ならば、このみつ豆はまさに『動』! 万華鏡のごとく変化する味の小宇宙……! オイラ、オイラは今、生きていて良かったと心の底から思うぞぉぉ!!」
一気に完食した。
空になった缶を、しみじみと見つめた。
清々しい涙が、一筋流れた。
アプリが、呟いた。
「もはや味皇だな」
それから、ぼんやりと思った。
(明日も何か食わせてやるか)
タツのリアクションを、もう少し見たい気がしていた。
アプリは、そのことに気づかないふりをした。
*
谷脇旅籠の夜は、静かだった。
横倉山が、窓の外の闇の中にある。
仁淀川の音が、遠くから聞こえてくる。
タツは、浴衣を着たまま、畳の上で眠った。
サラサラの髪が、枕に広がっていた。
アプリは、ツーリングマップルを膝に開いたまま、それを見た。
龍光寺まで、あと少しだ。
地図を閉じた。
行燈の灯りを消した。
仁淀川の音だけが、続いていた。
田中 光顕★★★
「土佐のラスト・エグゼクティブ」
HP:1300
攻撃力:300
素早さ:700
知力:900
特殊スキル:【歴史の語り部】
その場に居合わせるだけで、起きた出来事が「正史」として記録される。物語の信頼度を底上げするスキル。
装備品:【土佐勤王党の名簿】
誰が味方で誰が敵か、一瞬で判別するためのデスノート(管理帳)。




