【reverse 48 仁淀ブルーと、仙人様と、桃源郷】
昼食を食べ終えた。
アプリは河原の丸石の上にしゃがんだ。
馬の前脚を、静かに持ち上げた。
膝で支えて、蹄の裏を覗き込む。
タツが、飛び上がった。
「馬の足の下に潜るなんて、おっちゃん死ぬ気?」
アプリは気にせず、背負子からタングステンナイフを取り出した。
乾いた蹄の縁を、カリ……カリ……と削っていく。
「人間だって爪は切らないと気持ち悪いだろ。馬だって同じだ」
「そうなのかい? おいら、そんなこと怖くて出来ないよ!」
「爪を整えてやってる間は、俺を蹴らない」
タツが、馬とアプリを交互に見た。
馬は、されるがままに立っていた。
蹄を整えながら、アプリは聞いた。
「さっきから馬、馬って呼んでるが……名前は付けてないのか?」
「馬に名前なんか付けないよ」
タツが、当然のように言った。
「どうせそのうち別の旦那に売られるか、乗り潰されて死んじゃうしさ」
アプリは、手を止めなかった。
この時代の馬は、そういうものだ。
使われて、売られて、死ぬ。
名前をつける理由がない。
「じゃあ今つけろ」
「え?」
「今から龍光寺から帰るまでは、こいつは俺の馬だ。名前がないと不便だ」
「……じゃあ、おっちゃんが決めてよ」
アプリは蹄を下ろして、馬の目を見た。
「アプリリアだ」
タツが、首を傾げた。
「……アププリン?」
アプリは訂正しなかった。
馬が、小さく鼻を鳴らした。
「ほら、嫌がってる」
「いや、気に入ったらしい」
アプリが馬の鼻筋を撫でた。
馬が、目を細めた。
タツには、二人が目と目で何かを話し合っているように見えた。
*
午後の道は、川に沿って続いた。
仁淀川だ。
水が、青い。
いや、青というより、別の色だ。
エメラルドとも青ともつかない、透明な青。
アプリは手綱を持ったまま、少しの間だけ川を見た。
(……仁淀ブルーか。桂浜へ来る時にも見たな)
あの時は、バイクで走りながら見た。
今は、馬の背から見ている。
どちらも、同じ川だ。
でも、全然違う見え方がする。
速さが違えば、景色も変わる。
「おっちゃん、川が青いぞ」
タツが、川を指差した。
「この川、日本一の水質らしいぞ」
「なんでおっちゃんはそんなことを知ってるんだい?」
「……旅慣れてるからだ」
馬の足音が、ゴト……ゴト……と丸石に響いた。
川沿いの道は、岩壁と水に挟まれていた。
岩肌に、山桜の蕾が白くついている。
まだ開いていない。
もう少しで咲く、という顔をしていた。
川の向こうに、虚空蔵山が見えた。
石鎚山系の南端だ。
山肌が、午後の日差しを受けて青く霞んでいる。
(四国って、山の密度がバグってる……一本道しかねえ)
バイクで走った時も思った。
馬で来ても、やっぱり同じことを思う。
ただ、バイクで見た時は、風景が後ろへ流れていった。
馬では、景色がゆっくり近づいてくる。
山が、迫ってくる。
川が、寄り添ってくる。
どちらがいいとは言えない。
でも、今日の速さが、今日には合っている気がした。
*
峠のゆるい登りに差し掛かった。
杉林が、両側から迫ってくる。
竹林が、風で揺れる。
鳥の声が、どこかから続いている。
アプリリア……アププリンが、一歩一歩、確かめるように登っていく。
タツが、林の奥を見ながら言った。
「この先、熊が出るって聞いたことあるよ」
「そうか」
「怖くないの?」
「熊より、バイクで峠を越える方が怖い」
「バイク?」
「……なんでもない」
アプリは、手綱を緩めた。
アプリリアが、自分のペースで歩き始めた。
*
日高村付近に出た頃、空が橙色になり始めていた。
仁淀川の中流域だ。
広い川原が広がっている。
砂利が、夕日を受けて光っている。
山に囲まれた谷に、川の音だけが満ちていた。
(完璧な野営地だな……水ある、平地ある、薪ある、熊もいなさそう)
バイクキャンプで培った目が、即座に判断した。
「ここで寝るかい?」
「川沿いは野営の基本だ」
アプリは馬から降りた。
アプリリアを川辺の木に繋いだ。
背負子を下ろした。
*
テントを取り出した。
広げた。
ポールを通した。
形になった。
タツが、後ずさった。
「おっちゃん……どこからこんな立派な家を出しただ?」
「俺は旅慣れてるだけだ。気にするな」
「おっちゃんは忍びの者なのかい?」
「いや、ただの配達員……いや、飛脚みたいなもんだ」
アプリは地面に石を並べて竈を作った。
薪を組んだ。
箱マッチを一本擦った。
火が、ついた。
(直火焚き火なんて何年ぶりだ?)
焚き火台を使わない焚き火は、また違う匂いがする。
土の匂いと、煙の匂いが混ざっている。
タツは、マッチ一本で火を起こしたアプリを見て、完全に決定づけた。
(このおっちゃんは、高貴な人に仕えてる隠密なんだ)
タツの中で、アプリの正体が固まりつつあった。
*
アプリは鍋でお湯を沸かした。
背負子の奥から、カップを二つ取り出した。
金ちゃんヌードルだ。
本田が、才谷屋を出る前に「餞別です」と言って押し込んでくれたものだ。
(本田の奴、愛媛の鍋焼きラーメンの代わりに金ちゃんヌードルか……まあ、悪くない)
ふたを開けた。
お湯を注いだ。
ふたを閉めた。
タツが、じっと見ていた。
三分後。
アプリがふたを開けた。
割り箸をタツに渡した。
「食え」
金ちゃんヌードルを、タツの前に置いた。
アプリが手本を見せるように、麺を啜った。
タツが、見様見真似で箸を入れた。
一口、食べた。
止まった。
昼間の銀シャリより旨いものなどないと思っていた。
その確信が、一口で全部、吹き飛んだ。
熱さなど、気にならなかった。
タツは、ただ啜り続けた。
麺が、なくなった。
つゆまで、飲み干した。
空になったカップを持ったまま、タツは深く反省した。
(少し残して、明日の朝飯にすれば良かった……)
「カップラーメンだけじゃ足りないか?」
アプリが、背負子からさらに二つ取り出した。
缶詰だ。
イワシの蒲焼。
桃の缶詰。
プルタブを開けて、タツの前に並べた。
「これを食え」
タツは、鋼の器に盛られた謎の料理を眺めた。
(おっちゃん、いつの間に調理したんだ?)
恐る恐る、イワシの蒲焼を一口食べた。
「濃い……! うま……!!」
夢中で食べた。
あっという間に、なくなった。
今度は、桃の缶詰を一口食べた。
「甘……!! うま……!!」
タツは、箸を持ったまま止まった。
焚き火の向こうに、仁淀川の闇が広がっている。
川の音が、静かに続いている。
山の影が、空に重なっている。
ここは、桃源郷だ。
そう思った瞬間に、気づいた。
(自分は死んでしまったのかもしれない)
こんなに旨いものが、この世にあるはずがない。
心当たりもないのに、どうして死んでしまったのか。
涙が、ぼろぼろと溢れてきた。
桃缶を持ったまま、止まらなかった。
アプリが、ポケットからティッシュを取り出した。
一枚引いて、タツに差し出した。
タツが、受け取った。
手の中で確かめた。
重さが、ない。
(……やっぱり自分は死んでいた)
号泣した。
アプリが、困った顔をした。
ティッシュでタツの涙を拭いてやった。
「いい加減にしろ! 桃缶を食ったくらいでリアクションがデカすぎる! お前はミスター味っ子の味皇様かよ! 泣いてないで早く食え!」
焦っているアプリが、なんだかおかしかった。
タツは、笑いだした。
アプリが、ほっとしたような顔で言った。
「早く食え」
タツは桃缶に箸を入れた。
夢中で食べた。
(おっちゃんは忍びじゃなかった。……きっと、徳のある仙人様なんだ)
尊敬の眼差しで、目の前の仙人様を見ながら、桃缶を食べた。
*
食べ終えた。
アプリがゴミをまとめようとした。
「おっちゃん! まさかそれを捨てようとしてるのかい?」
「当たり前だ」
「捨てるならくれよ」
タツが、金ちゃんヌードルのカップと缶詰の缶を両手で抱え込んだ。
「好きにしろ」
タツは川へ走った。
容器を、丁寧に洗った。
水で何度もすすいだ。
それから、ずた袋に大切そうにしまい込んだ。
アプリは見ていなかった。
馬のアプリリアの前にしゃがんで、塩を差し出していた。
「おっちゃん! 塩なんて舐めさせたらアププリンが死んじゃうよ!」
「馬は人間と同じで汗をかく。汗をかいたら塩分を補給しないとバテる。人間も馬も同じだ」
タツが、心配そうにアプリリアを見守った。
アプリリアは、差し出された塩を自ら舌で舐めていた。
(……おっちゃんは、馬とも会話できる仙人様なんだ)
タツの中で、アプリの格付けが静かに上がった。
*
夜が深くなった。
アプリがLEDランタンをつけた。
川原が、昼間のような明るさになった。
タツが、空を見上げた。
月も、星も、出ている。
でも、ランタンの光の方が、ずっと強い。
(……太陽さえも自由に操れる仙人様なんだ)
タツの中で、アプリの格付けが決定した。
アプリはツーリングマップルを広げて、ランタンの光の下で明日の道を確認していた。
*
「そろそろテントで寝るぞ」
アプリとタツが、テントの中に入った。
アプリが寝袋のファスナーを全開にした。
一枚の掛け毛布のように広げて、二人分の布団にした。
タツが、アプリのそばに身を寄せた。
川の音が、テントの外から聞こえてくる。
仁淀川が、静かに流れている。
アプリは天井を見ていた。
しばらくして、気づいた。
違和感があった。
しばらく、確かめた。
「………タツ……お前……女の子だったのか?」
タツが、不思議そうに答えた。
「うん、そうだよ? 仙人様なのに今気づいたの?」
「俺を仙人と呼ぶんじゃない。早く寝ろ」
タツは、仙人様の胸のそばで目を閉じた。
川の音が続いている。
焚き火が、外でまだ静かに燃えている。
アプリは、天井を見たまま、しばらく動かなかった。
仁淀川の夜が、深く、静かに続いていた。




