【reverse 47 松山街道と、タツと、銀シャリ】
久しぶりの徒歩旅だな。
アプリは、才谷屋の門を出てすぐにそう思った。
かつて、徒歩で日本を縦断したことがある。
脚には、多少の自信があった。
でも、この時代の人の歩き方は違う。
すれ違う旅人が、荷を背負ったまま、黙々と先へ進んでいく。
速い。
淡々と、恐ろしく速い。
(文久二年の人の脚には、かなわんな)
アプリは笠の紐を締め直して、歩いた。
*
沢村惣之丞から教えてもらった裏道を使った。
唐人町側の細道だ。
思案橋番所を避ける、事実上の抜け道。
狭い路地が、板塀の間を縫うように続いている。
朝の光が、塀の上から細く差し込んでいた。
路地を抜けると、城下外れの街道に出た。
*
卯の刻。
朝六時頃だった。
高知城下の上町を出ると、道の様子が変わった。
武家屋敷の板塀が途切れ、町屋の軒が続く。
朝餉の煙が、あちこちから静かに上がっていた。
振り返ると、遠くに高知城の天守が見えた。
朝日を受けた白漆喰が、薄く光っている。
(現役の城というのは、こういう顔をしているのか)
アプリは少し立ち止まって見てから、また歩いた。
*
出発から三十分ほどで、町屋が減った。
畑が広がった。
竹藪が現れた。
道は石混じりの土道になった。
電柱がない。
舗装がない。
看板がない。
道の両脇に、背の高い竹が風で揺れている。
その音だけが、しばらく続いた。
振り返ると、城下の向こうに鷲尾山の稜線が見えた。
丸く、緑の濃い山だ。
その麓に、高知城下の白い瓦がまだわずかに光っていた。
(ようやく城下を離れた)
アプリは前を向いた。
久礼街道が、土佐の山並みの奥へと続いていた。
*
出発から一時間ほど歩いた頃。
街道脇の広い草地に、馬が何頭か繋がれていた。
藁笠をかぶった男たちが、手綱を持って立っている。
荷鞍をつけた馬が、尾を振りながら道端の草を食んでいる。
馬子たちだ。
男の一人が、煙草をふかしながらアプリの旅装を見た。
着物の仕立てを、素早く値踏みした目だった。
「旦那、荷なら伊予まで運べるぞ」
馬の首を、ぽんと叩きながら言った。
アプリは、馬を一頭一頭、見ていった。
足の太さ。
目の落ち着き。
背の高さ。
(この馬はダメだな)
大きな栗毛を見て、アプリは首を横に振った。
そして、端に繋がれた一頭の前で、足を止めた。
小柄な牝馬だ。
栗色の毛並みに、白い鼻筋が入っている。
その馬の傍らに、小さな子供がいた。
馬童だ。
着ている着物が、ひどくボロボロだった。
継ぎ当てが、継ぎ当ての上に重なっている。
裸足の足が、土で黒くなっていた。
でも、馬の首を撫でる手が、やさしかった。
「牝馬だが、懐いてるな」
アプリが言った。
子供が、顔を上げた。
「おいらにはコイツしか家族はいないんだ」
その目が、まっすぐだった。
*
「今から伊予国の龍光寺まで行くんだが、一緒に来るか? この馬の鞍と鐙はあるか?」
子供が、目を丸くした。
それから、馬を引いて駆け出した。
どこかへ行った。
馬子たちが、アプリを見た。
アプリは、街道の先を眺めていた。
西へ向かえば、やがて須崎の海をかすめ、四万十川の谷を遡り、伊予国境の山へと続いていく。
しばらくして、子供が戻ってきた。
笑顔だった。
馬に、古い鞍と鐙がついていた。
「ばあちゃんから借りてきた!」
「古いが、良い鞍と鐙だ」
アプリは馬に跨った。
子供が、馬の口を取って先導しようとした。
「船頭はいらない」
子供が、きょとんとした。
「お前も乗れ」
アプリが、前に空けたスペースに子供を引き上げた。
子供が、アプリの前に収まった。
馬が、ゆっくりと歩き出した。
*
やっと馬での旅ができたな。
アプリは、手綱を握りながら思った。
乗馬インストラクターをしていた時代がある。
馬の背から見る景色がどんなものか、ずっと知っていた。
でも、こうして街道を馬で行くのは、生まれて初めてだった。
(バチ当たりなことをして、こんな夢が叶うとは思わなかったな)
松山街道が、鏡川の流れに寄り添うように続いていた。
川面が、朝の光を受けて細かく揺れている。
水が、澄んでいる。
川底の丸石まで、はっきりと見えた。
道の両脇に、田が広がっている。
稲が、青く揺れている。
農夫が一人、早くから鍬を振るっていた。
アプリが通り過ぎると、顔を上げて会釈した。
アプリも、軽く会釈を返した。
前方の空が、広い。
電柱がないだけで、空はこんなに広い。
道の先に、丸い山がせり出してきた。
烏帽子山だ。
名前の通り、烏帽子の形をしている。
その左に、鷲尾山の稜線が霞みながら遠ざかっていく。
(悪くない)
アプリは、素直にそう思った。
*
馬の上で、子供がアプリを振り返った。
「ねえ、あんたの名前は?」
「アプリだ」
子供が、笑った。
「おいらはタツ! 伊予国までよろしくな、アプリのおっちゃん!」
おっちゃん、という響きを、アプリはしばらく咀嚼した。
何も言わなかった。
馬が、街道を前へ前へと進んでいく。
*
昼近くになると、日差しが強くなってきた。
馬の歩みが、少し鈍くなった。
街道が川へ降りるところで、アプリは手綱を引いた。
鏡川の河原だった。
広い河原だ。
水が浅く、丸石の間をさらさらと流れている。
河原の石が、昼の光を受けて白く光っていた。
上流の方から、涼しい川風が吹いていた。
馬が首を下げて、川の水を飲み始めた。
アプリとタツは、川辺の石に腰を下ろした。
笠を外した。
アプリが、背負子から握り飯を取り出した。
花が、才谷屋を出る前に握ってくれたものだ。
タツに一つ渡した。
タツが、両手で受け取った。
少し間があった。
「……しろい」
タツが、握り飯をじっと見ていた。
「銀シャリだ」
「……ほんとに?」
タツの目が、みるみる大きくなった。
握り飯と、アプリの顔を、交互に見た。
また握り飯を見た。
「……おいらが食べていいの?」
「食え」
タツが、両手でそっと持ち上げた。
まるで、壊れものを扱うように。
一口かじった。
「……!」
何も言わなかった。
ただ、目が潤んでいた。
もう一口、かじった。
その時だった。
「……ん?」
タツの顔が、変わった。
目が、さらに大きくなった。
「な、なんか入ってる……!!」
おかかだ。
「かつおぶしだ」
「か、かつおぶしが中に入ってる……! ご飯の中に……!!」
タツが、握り飯を大事そうに持ったまま固まっている。
食べるのが惜しくなったのか、もう一度じっくり眺めた。
それから、恐る恐るまた一口かじった。
今度は、酸っぱさが来た。
「すっぱ……!! なんかまだ入ってる……!!」
「梅干だ」
「おかかと梅干が両方入ってるの……!?」
タツが、アプリを見た。
アプリを見て、握り飯を見た。
また、アプリを見た。
「……おっちゃん、金持ちなの?」
アプリは、少しだけ笑った。
川風が、涼しく吹き抜けた。
馬が、河原の草を静かに食んでいる。
上流の山が、青く霞んでいた。
タツが、また一口かじった。
今度は、ゆっくりと、大事そうに噛んだ。
*
休憩が落ち着いた頃、タツが川の向こうを指した。
「この先は山道だよ?」
「わかってる。伊予へ行くなら、まだまだ歩くぞ」
アプリは、ツーリングマップルを取り出した。
紙の地図を、川風に飛ばされないよう押さえながら開いた。
街道の先には、土佐の山が幾重にも重なっていた。
その向こうに、伊予国がある。
その先に、龍光寺がある。
タツが、地図を覗き込んだ。
「なんだそれ?」
「地図だ」
「絵みたいだな」
「まあ、そんなものだ」
アプリは地図を畳んで、背負子にしまった。
川辺の石に座ったまま、しばらく川を見た。
水が、丸石の間を滑るように流れている。
遠くで、鳥が鳴いた。
龍光寺までは、まだ遠い。
でも、急ぐことはない。
アプリは立ち上がって、馬の手綱を取った。
タツが、素早く横に立った。
松山街道が、山の奥へと続いていた。
川風が、また涼しく吹き抜けた。




