表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
75/141

【reverse 47 松山街道と、タツと、銀シャリ】

 久しぶりの徒歩旅だな。


 アプリは、才谷屋の門を出てすぐにそう思った。


 かつて、徒歩で日本を縦断したことがある。

 脚には、多少の自信があった。

 でも、この時代の人の歩き方は違う。

 すれ違う旅人が、荷を背負ったまま、黙々と先へ進んでいく。

 速い。

 淡々と、恐ろしく速い。


(文久二年の人の脚には、かなわんな)


 アプリは笠の紐を締め直して、歩いた。


   *


 沢村惣之丞から教えてもらった裏道を使った。


 唐人町側の細道だ。

 思案橋番所を避ける、事実上の抜け道。

 狭い路地が、板塀の間を縫うように続いている。

 朝の光が、塀の上から細く差し込んでいた。


 路地を抜けると、城下外れの街道に出た。


   *


 卯の刻。

 朝六時頃だった。


 高知城下の上町を出ると、道の様子が変わった。


 武家屋敷の板塀が途切れ、町屋の軒が続く。

 朝餉の煙が、あちこちから静かに上がっていた。

 振り返ると、遠くに高知城の天守が見えた。

 朝日を受けた白漆喰が、薄く光っている。


(現役の城というのは、こういう顔をしているのか)


 アプリは少し立ち止まって見てから、また歩いた。


   *


 出発から三十分ほどで、町屋が減った。


 畑が広がった。

 竹藪が現れた。

 道は石混じりの土道になった。


 電柱がない。

 舗装がない。

 看板がない。


 道の両脇に、背の高い竹が風で揺れている。

 その音だけが、しばらく続いた。


 振り返ると、城下の向こうに鷲尾山の稜線が見えた。

 丸く、緑の濃い山だ。

 その麓に、高知城下の白い瓦がまだわずかに光っていた。


(ようやく城下を離れた)


 アプリは前を向いた。

 久礼街道が、土佐の山並みの奥へと続いていた。


   *


 出発から一時間ほど歩いた頃。


 街道脇の広い草地に、馬が何頭か繋がれていた。


 藁笠をかぶった男たちが、手綱を持って立っている。

 荷鞍をつけた馬が、尾を振りながら道端の草を食んでいる。

 馬子たちだ。


 男の一人が、煙草をふかしながらアプリの旅装を見た。

 着物の仕立てを、素早く値踏みした目だった。


「旦那、荷なら伊予まで運べるぞ」


 馬の首を、ぽんと叩きながら言った。


 アプリは、馬を一頭一頭、見ていった。

 足の太さ。

 目の落ち着き。

 背の高さ。


(この馬はダメだな)


 大きな栗毛を見て、アプリは首を横に振った。


 そして、端に繋がれた一頭の前で、足を止めた。


 小柄な牝馬だ。

 栗色の毛並みに、白い鼻筋が入っている。

 その馬の傍らに、小さな子供がいた。


 馬童だ。


 着ている着物が、ひどくボロボロだった。

 継ぎ当てが、継ぎ当ての上に重なっている。

 裸足の足が、土で黒くなっていた。


 でも、馬の首を撫でる手が、やさしかった。


「牝馬だが、懐いてるな」


 アプリが言った。


 子供が、顔を上げた。


「おいらにはコイツしか家族はいないんだ」


 その目が、まっすぐだった。


   *


「今から伊予国の龍光寺まで行くんだが、一緒に来るか? この馬の鞍と鐙はあるか?」


 子供が、目を丸くした。

 それから、馬を引いて駆け出した。


 どこかへ行った。


 馬子たちが、アプリを見た。

 アプリは、街道の先を眺めていた。


 西へ向かえば、やがて須崎の海をかすめ、四万十川の谷を遡り、伊予国境の山へと続いていく。


 しばらくして、子供が戻ってきた。


 笑顔だった。


 馬に、古い鞍と鐙がついていた。


「ばあちゃんから借りてきた!」


「古いが、良い鞍と鐙だ」


 アプリは馬に跨った。

 子供が、馬の口を取って先導しようとした。


「船頭はいらない」


 子供が、きょとんとした。


「お前も乗れ」


 アプリが、前に空けたスペースに子供を引き上げた。


 子供が、アプリの前に収まった。


 馬が、ゆっくりと歩き出した。


   *


 やっと馬での旅ができたな。


 アプリは、手綱を握りながら思った。


 乗馬インストラクターをしていた時代がある。

 馬の背から見る景色がどんなものか、ずっと知っていた。

 でも、こうして街道を馬で行くのは、生まれて初めてだった。


(バチ当たりなことをして、こんな夢が叶うとは思わなかったな)


 松山街道が、鏡川の流れに寄り添うように続いていた。

 川面が、朝の光を受けて細かく揺れている。

 水が、澄んでいる。

 川底の丸石まで、はっきりと見えた。


 道の両脇に、田が広がっている。

 稲が、青く揺れている。

 農夫が一人、早くから鍬を振るっていた。

 アプリが通り過ぎると、顔を上げて会釈した。

 アプリも、軽く会釈を返した。


 前方の空が、広い。

 電柱がないだけで、空はこんなに広い。


 道の先に、丸い山がせり出してきた。

 烏帽子山だ。

 名前の通り、烏帽子の形をしている。

 その左に、鷲尾山の稜線が霞みながら遠ざかっていく。


(悪くない)


 アプリは、素直にそう思った。


   *


 馬の上で、子供がアプリを振り返った。


「ねえ、あんたの名前は?」


「アプリだ」


 子供が、笑った。


「おいらはタツ! 伊予国までよろしくな、アプリのおっちゃん!」


 おっちゃん、という響きを、アプリはしばらく咀嚼した。

 何も言わなかった。


 馬が、街道を前へ前へと進んでいく。


   *


 昼近くになると、日差しが強くなってきた。


 馬の歩みが、少し鈍くなった。


 街道が川へ降りるところで、アプリは手綱を引いた。


 鏡川の河原だった。


 広い河原だ。

 水が浅く、丸石の間をさらさらと流れている。

 河原の石が、昼の光を受けて白く光っていた。

 上流の方から、涼しい川風が吹いていた。


 馬が首を下げて、川の水を飲み始めた。


 アプリとタツは、川辺の石に腰を下ろした。

 笠を外した。


 アプリが、背負子から握り飯を取り出した。


 花が、才谷屋を出る前に握ってくれたものだ。


 タツに一つ渡した。


 タツが、両手で受け取った。


 少し間があった。


「……しろい」


 タツが、握り飯をじっと見ていた。


「銀シャリだ」


「……ほんとに?」


 タツの目が、みるみる大きくなった。

 握り飯と、アプリの顔を、交互に見た。

 また握り飯を見た。


「……おいらが食べていいの?」


「食え」


 タツが、両手でそっと持ち上げた。

 まるで、壊れものを扱うように。

 一口かじった。


「……!」


 何も言わなかった。

 ただ、目が潤んでいた。


 もう一口、かじった。


 その時だった。


「……ん?」


 タツの顔が、変わった。

 目が、さらに大きくなった。


「な、なんか入ってる……!!」


 おかかだ。


「かつおぶしだ」


「か、かつおぶしが中に入ってる……! ご飯の中に……!!」


 タツが、握り飯を大事そうに持ったまま固まっている。

 食べるのが惜しくなったのか、もう一度じっくり眺めた。

 それから、恐る恐るまた一口かじった。


 今度は、酸っぱさが来た。


「すっぱ……!! なんかまだ入ってる……!!」


「梅干だ」


「おかかと梅干が両方入ってるの……!?」


 タツが、アプリを見た。

 アプリを見て、握り飯を見た。

 また、アプリを見た。


「……おっちゃん、金持ちなの?」


 アプリは、少しだけ笑った。


 川風が、涼しく吹き抜けた。

 馬が、河原の草を静かに食んでいる。

 上流の山が、青く霞んでいた。


 タツが、また一口かじった。

 今度は、ゆっくりと、大事そうに噛んだ。


   *


 休憩が落ち着いた頃、タツが川の向こうを指した。


「この先は山道だよ?」


「わかってる。伊予へ行くなら、まだまだ歩くぞ」


 アプリは、ツーリングマップルを取り出した。

 紙の地図を、川風に飛ばされないよう押さえながら開いた。


 街道の先には、土佐の山が幾重にも重なっていた。

 その向こうに、伊予国がある。

 その先に、龍光寺がある。


 タツが、地図を覗き込んだ。


「なんだそれ?」


「地図だ」


「絵みたいだな」


「まあ、そんなものだ」


 アプリは地図を畳んで、背負子にしまった。


 川辺の石に座ったまま、しばらく川を見た。

 水が、丸石の間を滑るように流れている。

 遠くで、鳥が鳴いた。


 龍光寺までは、まだ遠い。

 でも、急ぐことはない。


 アプリは立ち上がって、馬の手綱を取った。

 タツが、素早く横に立った。


 松山街道が、山の奥へと続いていた。


 川風が、また涼しく吹き抜けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ