【reverse 42 唐箕(とうみ)を直しに参る】
山を下りた。
麓に、小さな村があった。
龍馬が、迷わず一軒の農家の扉を叩いた。
中からくぐもった声がして、扉が開いた。
龍馬が何か話した。
土佐弁が早くて、本田にはほとんど聞き取れなかった。
しばらくして、龍馬が戻ってきた。
両腕に、筵を何枚か抱えている。
「おい、この筵をそのからくり馬に巻いちょいてくれんか。城下じゃあ馬に乗るわけにゃあいかんき、押し歩くしかないがじゃ。あんまり目立つと厄介なことになる。筵で上手いこと隠いておいてつかぁさい」
アプリが、無言で筵を受け取った。
鈴菌が、荒縄を見てニヤリとした。
「任せろ」
二人が、率先して車体に筵を巻き始めた。
荒縄でぐるぐると縛った。
タイヤも、ハンドルも、見えないように。
本田と花も、見様見真似で自分のバイクに筵を巻いた。
四台が、筵に包まれた。
もこもこの、正体不明の塊が四つ並んだ。
「もし、役人に何か言われたらどうするんですか?」
「壊れた唐箕を直しに行きゆうところじゃあ、と嘘をついたらしっかと大丈夫ぜよ!さあ、城下に入るきね。しっかりついてきとうせー!」
龍馬が、歩き出した。
草履の音が、土の道に響く。
四人が、重い塊を押しながら続いた。
*
人の気配が、増えてきた。
道が、広くなった。
行き交う人が、増えた。
天秤棒を担いだ男が通り過ぎた。
背に荷を括った女が歩いている。
子供が走っている。
犬が吠えている。
花が、きょろきょろしながら本田の袖を引いた。
「ねえ、本田くん。あの人たちの服、全部同じじゃない?」
「本当だ。みんな着物だ」
「当たり前じゃないですか」
花と本田が同時に振り返った。
アプリが、淡々と歩きながら言った。
「ここは幕末だ。洋服はない」
「……そりゃそうか」
本田は頷いてから、また周りを見た。
でも止まらなかった。
目だけが、あちこちに動いた。
屋根が、全部瓦だ。
壁が、全部土だ。
電柱が、一本もない。
信号が、一つもない。
空が、広い。
どこまでも、広い。
(電柱がないだけで、こんなに空が広くなるのか)
本田は、プレスカブを押しながら空を見上げた。
足が、石に躓いた。
*
道沿いに、店が並び始めた。
米屋だ。
表に、米俵が積んである。
その隣が、魚屋だ。
軒先に、干物が吊るされている。
鈴菌が、立ち止まって覗いた。
「あれ何の魚だ?」
「歩いてください」
アプリが、淡々と言った。
花が、また本田の袖を引いた。
「ねえ、あれ見て。あの人、何を担いでるの?」
「天秤棒? あっちの人は桶を担いでる」
「桶って、あの木の桶? 本物だ……」
「本物しかないですよ、ここには」
アプリが、また言った。
本田と花は、また「そりゃそうか」と言い合った。
鈴菌が、今度は前方を指差した。
「あれ、馬だ。本物の馬が歩いてる」
「ここ、馬がいるんですね」
「当たり前だ。車がない時代だぞ」
「でも実際に見ると、でかいですね」
「でかい」
鈴菌と本田が、馬の横を通り過ぎながら目を丸くした。
馬の持ち主が、怪訝な顔でこちらを見た。
四人は、黙って前を向いた。
*
道が、登りになった。
プレスカブに筵を巻いた塊が、重い。
ただでさえ重い車体に、筵と荒縄が加わっている。
腕が、じんじんしてくる。
「……はぁ、はぁ……鈴菌さん、これ本当に唐箕に見えてます? 重すぎて、もう腕の感覚がないですよ……」
「見えない。でも誰も見てない」
「それが問題なんじゃないですか!?」
本田が、泣き言を言いながら坂を登った。
一歩、一歩、プレスカブのタイヤを転がした。
足が重い。
土佐の空気が、蒸し暑い。
そして、坂を登りきった。
視界が、開いた。
*
本田の足が、止まった。
空が、広い。
ビルがない。
電柱がない。
看板がない。
信号がない。
何もない、青い空の真ん中に。
白かった。
白漆喰の壁が、朝の光を受けて眩しく光っている。
高く積まれた野面積みの石垣が、苔をまとって荒々しく立ち上がっている。
その上に、天守が建っている。
高知城だ。
観光地の看板もない。
入場口もない。
土産物屋もない。
ただ、城が、そこにある。
現役の、城が。
「……うわぁ、すごい……」
本田の口から、それだけが出た。
花が、隣で固まっていた。
鈴菌が、口を半開きにしていた。
アプリでさえ、腕を組んだまま動いていなかった。
「おい本田! ぼうっとしちゅう暇はなぞ。あれがわしらあの高知城ぜよ!」
龍馬が、草履の音を響かせて振り返った。
「どうぜよ、この景色は。おんしゃが押しゆうそのカブちゅうからくり馬も、この城の石垣のように頑丈ながやろう? 疲れちゅう場合じゃあないき。ほら、追手門が見えてきたぜよ。あそこを抜ければ、いよいよ城下の一等地じゃ!」
本田は、筵だらけのプレスカブを見た。
ボロボロの筵に包まれた、正体不明の塊。
その中に、エンジンが眠っている。
未来まで走り抜けるための、プレスカブのエンジンが。
「……そうですね。城が見えたら、なんだかちょっとだけ軽くなった気がします」
「はっはっは! それは気のせいぜよ、本田! 実際はこれからもっと坂がきつうなるきね!」
龍馬の笑い声が、城下の乾いた空気に響いた。
本田は、また一歩、プレスカブを押した。
*
追手門をくぐった。
城下町の中に入った。
人が、もっと増えた。
声が、飛び交っている。
土佐弁が、波のように押し寄せてくる。
半分も聞き取れない。
花が、きょろきょろしながら歩いた。
「あれって、武士?」
二人連れの男が、刀を差して歩いている。
「そうだな」
「本物の刀が差さってる……」
「全員差してる。ここでは普通だ」
アプリが言った。
花は、刀を差した男たちから目が離せなかった。
鈴菌が、立ち止まりそうになった。
「あれ、なんだ?」
道沿いに、大きな看板がある。
文字が書いてある。
でも、読める字と読めない字が混ざっている。
「崩し字だろ。江戸時代の書き方だ」
「読めないですね」
「読めなくていい。歩け」
本田は歩きながら、店の前を次々と通り過ぎた。
畳屋。
桶屋。
薬種屋。
どの店も、現代では見たことのない形をしている。
ガラスの窓がない。
代わりに、格子が嵌まっている。
格子の向こうで、人が動いている。
(ここは、テーマパークじゃない)
本田は、また思った。
全部、本物だ。
匂いも、音も、人の顔も、全部。
*
午前十時。
龍馬が、立ち止まった。
「着いた、着いた! ここがわしの実家、才谷屋ぜよ」
本田が、顔を上げた。
大きかった。
重厚な漆喰の外壁が、道沿いに長く続いている。
幾重にも重なる瓦屋根が、空に張り出している。
軒先に、大きな暖簾が揺れている。
「才谷屋」の屋号が、染め抜かれている。
奥から、音が聞こえてくる。
算盤の音だ。
パチパチと、小気味よく弾く音が、壁越しに伝わってくる。
それに混じって、怒号のような掛け声と、荷物を動かす音。
店先には、馬がつながれていた。
荷を積んだ馬だ。
商人たちが、忙しなく出入りしている。
「……これが、龍馬さんの実家……? デカすぎる……」
本田は、筵まみれのプレスカブを押したまま、才谷屋の前に立った。
場違いだ、と思った。
汗だくで、ハンドルを握っている自分が、急に恥ずかしくなった。
「見てみいや、今日も商売繁盛で、えろう景気がええろうが! 本田、鈴菌、おんしゃらあも遠慮せんと入りや。筵の中身がバレんように、裏の蔵の方へ回るきね!」
龍馬が、暖簾をくぐろうとした。
その瞬間だった。
店先で荷解きをしていた若い丁稚が、こちらを見た。
目が、大きく開いた。
「……あ、あ、若旦那! お戻りになられたがですか!」
「おお、久しぶりじゃのう! 息災にしちょったか? おい、悪いがこの唐箕を直しに持ってきたんじゃ。ちくと訳ありでな、裏の蔵に置かせてもらうぜよ。誰にも触らせんように、しっかり見ちょいてつかぁさい!」
「は、はい! 唐箕……ですな? かしこまりました……って、若旦那、その唐箕……なんだかゴムの匂いと油の匂いが凄いですけんど、大丈夫ながですか……?」
「はっはっは! 最新式の唐箕は、そういう匂いがするがじゃ! 気にせんでええき!」
丁稚が、おそるおそる筵の塊を見た。
鼻をひくひくさせた。
でも、それ以上は何も言わなかった。
*
裏の蔵に、四台を押し込んだ。
分厚い扉が、閉まった。
蔵の中は暗かった。
土の匂いがした。
古い木の匂いがした。
静かだった。
四人が、顔を見合わせた。
誰も言葉を出さなかった。
本田が、筵まみれのプレスカブを見た。
アプリが、天井を見た。
鈴菌が、扉を見た。
花が、自分の手を見た。
四人が、同時に息を吐いた。
長い、長い、溜息だった。
蔵の外で、才谷屋の算盤の音が続いていた。
商人たちの声が、壁越しに聞こえていた。
馬の蹄の音が、遠ざかっていった。
ここは、幕末の土佐だ。
現代への帰り方は、誰も知らない。
チート能力は、全員なかった。
才谷屋の蔵の中で、四人の溜息がもう一度重なった。




