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【reverse 31 時速15キロの幸福】

 セイコ視点。



 ミルミル宅のガレージで、自分のディオチェスタと久しぶりに対面した。


 見た目は何も変わっていない。


 前カゴのついた、どこにでもあるおばちゃんスクーターだ。


 ジモティーで安く買った。


 それだけのバイクだ。



 でも、セル一発でかかったエンジンの音が、預ける前とは違っていた。


 軽い。


 音が、明らかに軽くなっている。



「……なんか、音が元気ね」



「中身、だいぶ掃除しましたから。気をつけて乗ってくださいね、セイコさん」



 本田が、少し照れた顔で言った。


 セイコは頷いて、ディオチェスタに跨った。



   *



 国道17号。


 信号待ちの先頭に出た。


 いつもなら、ここで強迫観念が来る。


 青になった瞬間に素早く加速しなければ、後ろの車に煽られる。


 それが嫌で、三車線のピックアップを断り続けてきた。


 それが嫌で、Uberが楽しいと思えなかった。



 信号が、青に変わった。


 セイコは、いつもと同じようにアクセルを捻った。



「――っ!?」



 ヘルメットの中で、目が見開かれた。


 粘土の中を走るような、あの重さがない。


 吸気音がパランと乾いた音に変わって、ディオの車体が弾けるように前へ飛び出した。



 バックミラーを見た。


 いつも自分を追い立てていたワンボックスカーが、一瞬で豆粒になっている。



(……速い。なにこれ、私のバイクじゃないみたい)



 車列の先頭を走っている。


 前を走る車のブレーキランプを凝視して流れに従うのが精一杯だった自分が、今は自分の意思で速度を選んでいる。


 加速が鋭いということは、それだけで自由なのだと知った。



 その日の夕方、家に帰ってから、セイコは少し考えた。


 ショッピングモールへのピックアップ。


 三車線道路の横断。


 二段階右折。


 それら全てが面倒だったのは、バイクが自分の手足になっていなかったからかもしれない。



(本田くんが言ってた「楽しい」って、こういうことなのかな……)



 次の日、スマホのアラーム音が鳴った時、指が拒否ボタンを押すまでのコンマ数秒、迷いが生じた。


「ま、この加速なら、あそこまで行くのもすぐか……」


 独り言を呟きながら、セイコはオーダーを受諾した。


 青信号。


 ディオが、高崎の昼下がりを軽やかに切り裂いていった。



   *



 ほんの少しだけ、原付が面倒ではなくなった頃、本田からLINEが来た。



『ミルミルさんの親戚が草津温泉で民泊をしてるので、皆で行くんですけど、セイコさんも娘さんと行きませんか?草津温泉まではミルダンさんが車で乗せて行ってくれるそうですよ』



 セイコは、スマホを持ったまましばらく固まった。



 娘には、連休なのにどこにも連れて行ってあげられていない。


 それだけで、胸が痛かった。


 元旦那が去年から養育費を払わなくなった。


 スーパーのパートだけでは生活が成り立たなくなって、ジモティーで安く見つけたディオチェスタでUberを始めた。


 楽な仕事ではなかった。


 毎日、一円でも多く稼ぐために走っていた。


 それが全部だった。



 でも、本田くんが整備してくれたディオチェスタは、ほんの少しだけ乗っていて気分がいい。


 信号待ちで、前よりも優越感に浸れるようになった。


 面倒だったピックアップ先も、あまり面倒ではなくなっていた。



 セイコは、返信した。


『行きます』



   *



 草津温泉旅行当日の朝、十時。


 安アパートの前に、TOYOTAアルテッツァが停まった。



「セイコさんですね、はじめまして。ミルダンといいます。よろしくお願いします」



 五十代後半くらいの男性だ。


 穏やかな顔をしている。


 本当に人の良さそうな人だった。


 娘が、助手席に座った。


 ミルダンが、ミラーで娘を確認して、にこっとした。


 それだけで、娘がミルダンに懐いた。



 国道を走り始めた。


 車内が、温かかった。


 ミルダンが「釣りが好きでね。草津の近くにも良い渓流があるんですよ」と話してくれた。


 娘が「お魚つかまえたことあるー?」と言った。


 ミルダンが「何匹も捕まえたことありますよ」と答えた。


 娘が歓声を上げた。



 セイコは、助手席から窓の外を見ていた。


 山が近づいてくる。


 道が登り始めている。



   *



 八ッ場ダムを過ぎた頃、ミルダンが「おっ」と声を漏らして、アクセルを緩めた。



 視線の先に、四つの小さな背中があった。


 長い上り坂に、へばりついている。



 本田のプレスカブ。


 アプリのRS50。


 花のモトラ。


 ミルミルのジャイロX。



 時速は、十五キロほどだ。


 ほとんど歩いているのと変わらない。


 四台が、坂を必死に登っている。


 それでも、なぜか楽しそうだった。


 本田が何かを叫んでいる。


 アプリが片手で答えている。


 花が笑っている。


 ミルミルが何かを言って、本田がまた叫んでいる。



「おかあさん! あそこ! 本田くんだ!」



 娘が、窓を開けて身を乗り出した。


 手を振った。


 精一杯、振った。



 本田が気づいた。


 こちらに向かって、大きく手を振り返した。


 それを見た娘が、また喜んで手を振った。


 アルテッツァは、その「不自由な幸福」をあっさりと追い越した。


 冷房の効いた車内から見た彼らの背中が、どんどん小さくなっていった。



(……なんであんなに、笑っていられるの?)



 セイコは、後部座席の窓越しに彼らを見つめた。


 一円でも多く稼ぐために、毎日アクセルを捻る自分と、あまりに違う世界だった。



   *



 草津温泉街に着いた。


 ミルダンの兄弟が経営する民泊に荷物を置いた。


 温泉に入った。


 硫黄の匂いがする。


 温泉街の石畳を、娘と並んで歩いた。



「おかあさん、ここのお湯、いろが緑っぽいね」



「ほんとね。温泉によって色が違うんだよ」



「なんで?」



「中に入ってるものが違うから」



「ふーん。なんか魔法みたい」



 娘が、石畳の上を跳ねながら歩いた。


 温泉まんじゅうの店の前で止まった。



「あれ食べたい」



「一個だよ」



「二個!」



「……一個半ね」



 娘が笑った。


 セイコも笑った。


 温泉まんじゅうを買った。


 一個と半分に割って、並んで食べた。



 温泉街の路地が続いている。


 木造の建物が並んでいる。


 湯気が、あちこちから上がっている。


 観光客が、写真を撮っている。



「おかあさん、また来たい」



「うん、また来ようね」



 セイコは、そう答えた。


 また来られるかどうか、わからない。


 でも、そう答えた。


 そう答えられる自分が、少し前の自分より、ほんの少しだけ前を向いている気がした。



   *



 昼食を終えて、温泉街の影が長く伸び始めた頃だった。


 民泊の前に、爆音が近づいてきた。


 白煙が見えた。


 四台が、坂を登りきって宿に滑り込んできた。



 ヘルメットを脱いだ。


 四人の顔が、煤と汗で汚れている。


 でも、その目が、驚くほど澄んでいた。



「「「「I have a low exhaust!」」」」



 四人の拳が、合わさった。


 娘が「やったー!」と一緒に叫んだ。


 本田が、娘の頭を撫でた。


 娘が照れた。



 ただ、原付で草津まで来た。


 それだけのことだ。


 大人から見れば、それだけのことだ。



 でも、セイコの胸の奥に、小さな火が灯った。



(原付でも、あんなに遠くまで……あんなに笑って、来れるんだ……)



   *



 深夜。


 草津の湯に浸かっていた。


 娘は、民泊の部屋でミルダンに絵本を読んでもらいながら寝てしまったらしい。


 ミルミルと、二人で湯船に並んだ。


 硫黄の匂いが、夜の空気に混じっている。



「原付、面倒じゃなくなった?」



「……ほんの少しだけ、楽になりました」



 整備されたディオの加速が、少しだけ自分を前に進めてくれた。


 そして今日、時速十五キロで笑っている四人を見て、何かが変わった気がした。



「原付、好きになれそう?」



「……もう、好きになってるかも知れません」



 ミルミルが、少し真剣な顔になった。


 湯船の中で、身を乗り出した。



「それなら、貴女もヤクルトおばさんになりなさい」



「えっ……私が、ですか?」



「私、月に手取りで二十八万円よ?」



 セイコが、息を呑んだ。


 二十八万円。


 今の自分が、Uberとパートをどれだけかけもちしても、届かない数字だ。


 稼ぎの良い日も、悪い日も、全部合わせても届かない数字だ。



「まずは生活を安定させなくちゃダメよ。貴女はお母さんなんでしょ?」



 甘い誘惑ではなかった。


 同じく働く女性の、重みのある言葉だった。


 子供を抱えて、一人で立っている女性の言葉だった。



 セイコは、しばらく湯を見つめていた。


 草津の夜が、静かだった。



(生活を、安定させる)



 今までは、それだけで精一杯だった。


 安定させる、という言葉を、前向きに考えたことが、なかった気がした。


 安定を「守る」ことで手一杯で、安定に「向かう」ことができていなかった。



「……考えてみます」



 セイコは、そう言った。


 ミルミルが、頷いた。


 それ以上は、何も言わなかった。


 それだけで、十分だった。



 草津の湯が、二人を温めていた。



   *



 本田達の出発の日。


 ミルミル宅の前に、セイコと娘が来ていた。


 四台が荷造りを終えて、並んでいる。


 本田がプレスカブのそばで、荷物を確認しているそばにセイコは立ち別れを告げる。



「次に来る時は、レモン牛乳を群馬県に持ち込まないでね! 条例違反になるから!」



 本田が、顔を上げた。


 笑った。


 アプリも、花も、ミルミルも、笑った。



 四人が、二本指を立てた。


 エンジンをかけた。


 走り出した。



 娘が、手を振った。


 本田が振り返って、手を振った。


 四台が、曲がり角の向こうに消えた。



 エンジン音が、遠ざかった。


 やがて、聞こえなくなった。


 セイコは、しばらく道を見ていた。


 誰もいなくなった道を、見ていた。



「おかあさん、また会える?」



 娘が、セイコを見上げた。



「また会えるよ」



 セイコは答えた。


 今度は、本当にそう思って、答えた。


草津温泉旅行から娘はミルミル宅を自宅のように勝手にあがり込むようになっていた。


今も彼らを見送った後はミルミルとミルダンに甘やかされながらミルミルが作った朝ごはんを頂いている。




 道が、続いている。


 高崎の空が、広い。


 ディオチェスタが、ミルミル宅のそばに停まっている。


 カゴのついた、おばちゃんスクーターだ。


 でも、中身は少し違う。



 セイコは、ヘルメットを手に取った。


 被った。


 エンジンをかけた。


 音が、軽い。



 信号が、青になった。


 セイコは、アクセルを捻った。


 ディオが、高崎の道を、軽やかに走り出した。







TOYOTA アルテッツァ RS200


型式 SXE10

最高出力 210ps / 7,600rpm

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