【reverse 27 緑の神殿と、三途の川の渡し賃】
七時。
坂内食堂の前に、四人が並んだ。
開店と同時に入った。
肉そばを頼んだ。
来た。
丼いっぱいにチャーシューが敷き詰められている。
スープが透き通っている。
豚骨ベースなのに、濁っていない。
一口飲んだ。
旨い。
朝七時に食べるラーメンが、こんなに旨いのか。
喜多方の朝ラーとはこういうことだ、と本田は思った。
チャーシューが厚い。
柔らかい。
箸で触れると、ほろりと崩れる。
四人とも、黙って食べた。
食べ終えた。
「行くか」
アプリが言った。
四台が走り出した。
*
国道121号を南へ。
会津若松を抜けた。
渓谷に入った。
阿賀川が、道の横を流れている。
岩が、川の中に点々と現れている。
塔のへつり付近で、奇岩が渓谷の壁から突き出ていた。
岩が、川の上に張り出している。
何万年もかけて削られた形だ。
自然が作り出した造形が、この道のすぐ横にある。
湯野上温泉駅で止まった。
茅葺き屋根の駅舎だ。
無人駅だ。
でも、ホームに電車が来る。
今でも、現役の駅だ。
花が駅舎を見て「こんな駅があるんですね……」と呟いた。
五十里湖を過ぎた。
湖畔沿いのワインディングロードだ。
水面が、山の緑を映している。
原付のエンジン音だけが、湖の静けさの中に響いた。
*
日光だいや川公園オートキャンプ場に着いた。
チェックインした。
荷物を降ろした。
テントを張った。
「杉並木、行くか」
アプリが言った。
*
四台が、日光杉並木街道に入った。
一歩足を踏み入れた瞬間、世界が変わった。
左右に、杉が立っている。
樹齢四百年を超える杉が、道の両側から立ち上がっている。
梢が、頭上で空を覆い隠している。
真昼なのに、道が薄暗い。
でも、暗いのとは違う。
木漏れ日が、細い光の筋になって落ちてくる。
その光の中に、苔の匂いが混じっている。
冷たい空気が、ヘルメットの隙間から入ってくる。
四台が、速度を落とした。
誰も言っていないのに、全員がゆっくり走っていた。
時速十キロ。
歩くより少し速い程度だ。
でも、それ以上出せなかった。
出してはいけない気がした。
巨大な幹のうねりが、道の両側で続いている。
その間を、四台が進んでいく。
エンジン音が、杉の幹に吸い込まれて、小さくなった気がした。
この道を走っている自分たちが、いかに小さいか。
杉の高さが、それを教えてくれていた。
花は、走りながらヘルメットの中で息を吸った。
苔と土と、古い木の香りが混じっている。
この香りは、ここにしかない。
どこかで嗅いだことがない。
本田は、ハンドルを握りながら、杉の上を見た。
梢の先が、空に溶けている。
どこまで高いのか、わからない。
光の柱が、梢の合間から真っ直ぐに降りてきている。
その光の中を、プレスカブが進んでいく。
神域だ、と本田は思った。
それ以外の言葉が出てこなかった。
*
四台が、一里塚の前で止まった。
道の両側に、こんもりとした土盛りがある。
木が植えられている。
何でもない風景のように見えるが、アプリが止まったから、四人も止まった。
「これは一里塚だ」
アプリが言った。
本田が、土盛りを見た。
花も見た。
二人とも、首をかしげた。
「一里塚というのは、江戸時代に街道の一里ごとに築かれた距離の目印だ。旅人が疲れを計るための標識でもある。旅人は塚を数えることで、日本橋からどれだけ離れているかを知った」
「今で言うキロポストですか?」
「そうだ。ここは日本橋から三十三里目にあたる。約百三十キロだ」
「なぜ、当時のまま残ってるんですか! ここって栃木県ですよね? 宇都宮にもこんなに近いし、都内からも日帰りできる距離なのに……」
アプリが答えた。
「日光杉並木は国から特別史跡と特別天然記念物の両方に指定されている。この両方をダブルで受けているのは、日本でここだけだ。木を一本切るどころか、地面を掘ることも建物を建てることも、文化庁の許可なしには出来ない。だから四百年前の姿がここに残っている」
本田が、杉並木を見渡した。
今は、アスファルトが敷かれている。
でも、この並木は四百年前から変わっていない。
この杉が、この場所から動いていない。
徳川の時代に植えられた杉が、令和の今も、ここに立っている。
この道を、四百年の間、どれだけの旅人が歩いたのか。
参勤交代の大名行列が通った。
日光参りの庶民が通った。
荷物を背負った旅人が通った。
それぞれが、この塚を数えながら、江戸から日光へ、日光から江戸へ歩いた。
そして今、自分もここを走っている。
プレスカブで、この道を走っている。
四百年の旅人たちの一人に、自分もなっている。
本田の胸が、静かに熱くなった。
花も、杉並木を見ていた。
昨夜のミーハーの言葉が、蘇ってきた。
原付で旅すると経験値が貯まる。
その意味が、今この瞬間に、体の芯からわかった気がした。
モトラと一緒に、この道を走った。
四百年前の旅人も、馬と一緒に、この道を歩いた。
形は違う。
でも、旅をしているという事実は同じだ。
モトラと花が、この四百年の旅人の列に、今日加わった。
それが誇らしかった。
*
四台が、また走り出した。
杉並木が続く。
光の筋が、また降ってくる。
少し行ったところで、アプリとミーハーが止まった。
道の脇に、小さな石が立っている。
杉の根元に、半ば埋まるように立っている。
苔が、表面を覆っている。
墓石のようにも見えるが、違う。
「馬頭観音だ」
アプリが言った。
「かつて、馬が旅の主役だった時代、この街道で力尽きた馬を供養するために建てられた石仏だ。原付と同じくらいのスピードで、当時の人間は馬でこの道を歩いた。荷物を運んで、人を乗せて、長い距離を走って、そして力尽きた馬がいた。その馬のために、人々は石仏を建てた」
本田は、小さな石仏を見た。
誰も知らない場所に、静かに立っている。
案内板もない。
観光地でもない。
でも、誰かがここに建てた。
誰かがここに手を合わせた。
花が、石仏のそばの地面に目を向けた。
土の中に、何かが光っている。
僅かに、金属の光だ。
屈んだ。
触れた。
周りの土が、ぽろぽろと剥がれた。
金属の形が、はっきりしてきた。
「ミーハーさん! こ、これ……」
花が立ち上がった。
手の中に、小さな金属片がある。
丸い形だ。
中に穴が開いている。
古い硬貨だ。
六文銭だ。
ミーハーが、静かに言った。
「それは取っちゃダメよ。この場で力尽きた馬へのお供えなんだもん。三途の川の渡し賃って言って、昔の人は六文銭を六枚捧げてたのよ」
花の手が、止まった。
三途の川の渡し賃。
あの世へ渡るための、最後のお金。
馬のために、それを供えた人がいた。
名もわからない馬のために。
名もわからない人が。
この杉並木の道で、力尽きた相棒のために。
花は、六文銭を、元あった土の中に静かに戻した。
両手で、少し土をかけた。
また、眠れるように。
「六文銭六枚って、今でいうといくらくらいなんですか?」
「確かそば一杯が十六文だから……えっと……二百円くらいかな?」
花が、本田を見た。
本田が、花を見た。
二人の目が、合った。
二人とも、財布を取り出した。
百円玉を一枚ずつ取り出した。
合わせて、二百円。
馬頭観音の前に、そっと置いた。
二人で、手を合わせた。
杉並木が、四人の頭上で静かに揺れた。
風が通った。
梢が、わずかに鳴った。
本田は、手を合わせながら思った。
プレスカブは、今日も峠を一緒に越えた。
押し歩きになっても、最後まで走った。
軽くなんかない。
鹿児島から、ずっと一緒に走ってきた。
このプレスカブがなければ、宗谷岬にも行けなかった。
奥尻にも渡れなかった。
この杉並木にも来られなかった。
花は、手を合わせながら思った。
モトラは、今日も登った。
本田のプレスカブが止まった坂を、米を積んで登った。
おじいちゃんが最後まで手放さなかった理由が、今はわかる。
このバイクは、信頼できる。
どんな道でも、一緒に行ける。
アプリが、二人の後ろで立っていた。
ミーハーが、アプリの隣に立っていた。
二人とも、何も言わなかった。
前を向いている二人の背中を、静かに見ていた。
杉並木が続いている。
梢の合間から、光の筋が降りてくる。
その光の中に、四人が立っている。
馬頭観音が、土の中で眠っている。
六文銭が、また土に還っていく。
四百年の旅人たちが歩いてきた道が、今日も続いている。
風が、また通った。
梢が、また鳴った。
それだけが、この場所の音だった。




