【reverse 23 マタギ街道と、西馬音内の静寂】
六時。
生出キャンプ場を出た。
朝の空気が、肺に刺さるほど冷たい。
四台のエンジン音が、静かな湖畔に響いた。
十和田湖が、霧の中に消えていく。
*
発荷峠の展望台に着いた。
六時二十分。
眼下に、十和田湖が広がっていた。
朝もやが、湖の上に白く漂っている。
その霧の合間から、深い青が見えている。
湖の輪郭が、霧に溶けている。
山が、湖を囲んでいる。
空が、山の上にある。
全部が静かだ。
全部が、静かなまま、そこにある。
花が、展望台の手すりに両手をついた。
しばらく、何も言わなかった。
昨日からここに来たかったんだ、とその背中が言っていた。
四人とも、しばらく黙っていた。
十和田湖が、朝もやの中で息をしていた。
*
七時過ぎ。
小坂町に入った。
デイリーヤマザキが見えた。
本田が、駐輪場にプレスカブを止めながら、少しだけ足取りが軽くなった。
気づかれないように、軽くなった。
四人で店内に入った。
本田がランチパックのコーナーへ真っ先に向かった。
「実は鹿児島にはヤマザキYショップって偽物っぽいデイリーヤマザキしかないんですよ」
「ヤマザキYショップ? 逆に興味あります!」
花もランチパックを手に取りヤマザキYショップなるものに興味を持っている
「函館にはどっちもないよ?」
リリーはどっちでもいいよ、と言った感じでランチパックを手に取っている。
本田は目を輝かやかせて
「でも、セイコーマートがあるじゃないですか!」
アプリもランチパックを選びながら冷静に語る。
「函館はセイコーマートよりも、ハセストの方が圧倒的にご当地感があるぞ。本田はハセストのやきとり弁当を食べなかったのか?」
「えっ? なんですか、それ!」
「ハセスト寄らなかったの?」
「は、はい……」
花は得意げに語り始める。
「私でもハセストのやきとり弁当は食べたことあるよ? 函館には何度も行ってるし」
「Cafe CHI'sの近くにもハセストあったのに……」
「えっ? も、戻りませんか? 今なら今日中に函館に着きますよ!」
「嫌だよ! せっかくここまで来たのに!」
「どうせ北海道を走る時はまた函館に必ず立ち寄るからな。次の楽しみにしておけ」
「た、確かに。函館は必ず通る街ですもんね」
「函館を本気で観光しようとすると三日で足りないと言われてるぞ。全部楽しもうと思ったらキリがない。青森でさえ全部回れなかっただろ?」
「そうですね。アプリさんが何度も北海道へ来てる理由がわかってきました!」
「俺でさえ、函館でリリーから教えてもらった中道食堂や函館水産市場は初めて行った」
「そだよ、また来なよ。今度はもっとディープなところに連れてくよ」
本田がランチパックを三つ手に取った。
ピーナッツ、たまご、ナポリタン。
並べて眺めた。
これがデイリーヤマザキの本気だ。
鹿児島のYショップには、こんなに種類がない。
そっと、もう一つ取った。
誰にも気づかれていないと思っていた。
「本田くんが一番嬉しそう」
花が言った。
本田の顔が、少し赤くなった。
*
道の駅たかのすで休憩した。
大太鼓が、展示されていた。
世界一の大きさだという。
花が「こんな太鼓、どうやって叩くんだろう」と言った。
リリーがGoProを向けた。
アプリが缶コーヒーを飲んでいた。
国道105号へ入った。
マタギ街道だ。
道が、山の中へ入っていく。
木々が、道の両側から迫ってくる。
深い緑だ。
秋だから、少し赤みが混じっている。
清流が、道の脇を流れている。
水の音が、エンジン音の合間に聞こえてくる。
田んぼの向こうを、赤い車両が走っていた。
一両編成だ。
秋田内陸縦貫鉄道だ。
広い田んぼの中を、小さな赤い車両が、ゆっくりと走っていく。
リリーがGoProを構えた。
間に合った。
赤い車両が、田んぼの向こうに消えた。
「撮れた!!」
誰も乗っていないような速さで、でも確かに走っていた。
*
道の駅あにに着いた。
缶コーヒーを買った。
駐車場で飲んでいると、声をかけられた。
「ねーちゃ、そのバイクって……ボルティ……だっけがぁ? いや、違ったっけのぉ?」
振り返った。
若い男性だ。
二十代くらいだ。
日焼けした顔で、ニコニコしている。
隣に、YAMAHA TDR50が停まっていた。
南魚沼市のナンバープレートだ。
リリーが答えた。
「これはkawasakiの250TRですけど」
「あぁー、ほうだかぁ。カワサキもそんなSRみてぇなバイク出してたのぉ。ほうかほうか、250TRだぁかぁ」
青年が、ボルティを眺めながら何度も頷いた。
本田がナンバープレートを見た。
「南魚沼市? 新潟からここまで走ってきたんですか?」
「あぁー、ほうだぁ。俺、zyo-yaってぇんだけどぉ。一人で走ってきたんだぁ。TDR50で」
「TDR50! 珍しいですね!」
「そがぁか? 俺にはこいつしかわかんねぇけどぉ」
zyo-yaが、恥ずかしそうに頭をかいた。
それから、また250TRを見た。
もとい、ボルティを見た。
「250TRって乗り心地はどうだぁ? ほれ、カワサキって固めだべや?」
「そうですね、やっぱり漢のバイクって感じで硬派な乗り味ですよ!」
リリーが、胸を張って答えた。
本田がアプリを見た。
アプリが缶コーヒーを飲んでいた。
飲みながら、少し遠くを見ていた。
本田も缶コーヒーを飲んだ。
遠くを見た。
二人とも、何も言わなかった。
言えなかった。
「僕とアプリさんは九州まで行きます」
「私は秋田の西馬音内まで」
「私は行けるところまでかな」
「西馬音内なら、もうちっとだ。俺が案内してやっちゃ。俺もその原付ツーリング、混ぜてくろや!」
「ありがとうございます! 一緒に行きましょう!」
本田が言った。
zyo-yaが、嬉しそうに笑った。
五台が、道の駅あにを出た。
TDR50の甲高い音が、マタギ街道に加わった。
*
zyo-yaは、走りながら時々振り返った。
リリーの250TRを確認するように見た。
250TRだと信じていた。
本当に、信じていた。
純粋に、信じていた。
上桧木内を過ぎた頃、zyo-yaがリリーの隣に並んだ。
信号待ちで、声をかけた。
「250TRってよぉ、カワサキの中でも渋いポジションだべや? あんまり見かけねぇもんなぁ」
「そうなんですよ! 希少なんです! だから乗ってる私もセンスがいいってことで!」
「ほうだなぁ! ねーちゃ、センスあるぁ!」
zyo-yaが、真剣な顔で頷いた。
本田とアプリが、並んで走っていた。
本田がアプリを見た。
アプリが前を向いていた。
本田も前を向いた。
二人とも、何も言わなかった。
言えなかった。
*
角館に着いた。
武家屋敷通りに入った。
黒い板塀が続いている。
その向こうに、紅葉した木々がある。
赤と黄色が、黒い塀の上から溢れている。
静かだ。
観光客はいるが、それでも静かだ。
この通りには、静寂が似合う。
江戸時代の空気がまだ残っているような、そんな通りだ。
五台が、通りの端に止まった。
zyo-yaが案内した。
桜の里だ。
入口の引き戸を開けると、出汁の香りがした。
比内地鶏親子丼を頼んだ。
来た。
卵が、三個使われている。
半熟の卵が、備長炭で炙られた鶏肉を包んでいる。
一口食べた。
鶏肉の弾力が、普通の親子丼とは違う。
炭の香りが、卵の甘みの中に混ざっている。
秋田の米が、それを受け止めている。
「美味い」
アプリが言った。
それだけで、十分だった。
zyo-yaが「比内地鶏は秋田の宝だぁ」と言いながら、稲庭うどんとのセットを食べていた。
花が「うどんも頼めばよかった」と言った。
リリーが「次来た時に」と言った。
次、という言葉が、自然に出てきた。
角館には、次がある。
そういう街だ。
*
食事を終えて、また走り出した。
大仙市に入った。
視界が、突然開けた。
田んぼだ。
田んぼが、どこまでも広がっている。
刈り取りを終えた田んぼが、茶色く広がっている。
その向こうに、山がある。
山の上に、空がある。
空が、広い。
こんなに広い空を、本田は見たことがなかった。
高い建物が、何もない。
視界を遮るものが、何もない。
空と田んぼだけが、地平線まで続いている。
花が、走りながら左右を見た。
同じ青森に生まれて、こんな景色を知らなかった。
秋田は、空が違う。
田んぼが違う。
同じ東北でも、こんなに違うのか。
横手市を過ぎた。
羽後町に入った。
田んぼの色が、少し金色に近くなった。
刈り取りを待っている稲が、夕方の光を受けて輝いている。
*
西馬音内に入った。
静かだった。
車が、いない。
人が、いない。
でも、廃れているのとは違う。
静かに、生きている。
かがり火通りを走った。
道が、緩やかにカーブしている。
真っ直ぐではない。
曲がるたびに、新しい景色が現れる。
黒塗りの板塀が続く。
出し桁造りの屋根が、道の上に張り出している。
内蔵のある商家が並んでいる。
家の中に蔵がある。
外側には見えない蔵が、家の内側に収まっている。
道の脇を、水路が流れていた。
さらさらという音が、エンジンを止めると聞こえてきた。
古い石橋が、水路にかかっていた。
五台が、ゆっくりと走った。
誰も、速度を上げなかった。
この街は、ゆっくり走るしかない。
そうしないと、見落としてしまうから。
夕暮れの光が、茅葺き屋根を照らしていた。
黄色い光が、屋根の表面を流れていく。
その光が、水路に映って揺れていた。
ミーハーの街は、ミーハーに負けないくらい美しかった。
本田はそう思いながら、プレスカブを走らせた。
*
ミーハーの家があった。
大きな家だ。
豪農の家だ。
広い敷地に、母屋と納屋が並んでいる。
田んぼが、家の向こうに広がっている。
夕暮れの光の中に、静かに建っている。
五台が、家の前に止まった。
本田が、インターフォンを押した。
静寂があった。
西馬音内の、静かな夕暮れの静寂があった。
水路の音がする。
遠くで、鳥が鳴いた。
それから。
「遅すぎる!!」
インターフォンから、声が出た。
大きな声だ。
怒鳴り声だ。
のどかな田園に、その声が響き渡った。
田んぼが、震えた気がした。
五人が、固まった。
zyo-yaが、少し後ずさった。
西馬音内の夕暮れが、静かに続いていた。
YAMAHA TDR50
型式 3FY
最高出力 7.2 ps / 10,000rpm




