【reverse 22 陸雄じっちゃの秘宝と、霧の十和田湖】
朝ごはんを食べ終えた。
花が、菊に向かった。
「昨日はバタバタしちゃって聞きそびれたけど、あの一千二百万円は何?」
菊が、当たり前のように言った。
「あぁ、あれだば、じっちゃがバイク売ってこさえた金だぉ」
「まさか! バイクを売ってもこんな金額にはならないよ?」
「はてぇ? それより他だば、考えらねぉ?」
その会話を、アプリが聞いていた。
コーヒーを置いた。
「花、バイク次第ではその金額になる恐れもある。花のモトラでさえ今は五十万円もする」
「モトラが? 私の車よりも高いじゃないですか!」
「ちなみに俺のRS50も四十〜六十万円はする」
花の顔が変わった。
急に立ち上がった。
「おばあちゃん! おじいちゃんの写真、残ってないの?」
「陸雄さんの写真だば……ちょっ、待っててけの。アルバム探してかっくるはんでの……」
菊が押し入れを開けた。
ごそごそと、奥の方まで手を伸ばした。
古いアルバムが出てきた。
年季が入っている。
表紙が、日焼けで茶色くなっている。
花がアルバムを受け取った。
ページをめくった。
おじいさんの写真が並んでいる。
若い頃の陸雄さんだ。
バイクと一緒に写っている写真が、何枚もある。
花が、バイクが映っている写真を選んで抜き取った。
アプリに差し出した。
「アプリさん! 何かわかりますか?」
アプリが写真を受け取った。
一枚目を見た。
一瞬だった。
すぐに納得した顔になった。
「花、お前の爺さんは良い趣味してたんだな。まあ、モトラを買ってるくらいだから、俺の趣味と限りなく近い」
アプリが、一枚目の写真を花と本田に見せた。
「これはSUZUKIのRE-5だ。ロータリーエンジンを積んだバイクだ。これだけで今の相場は二百五十〜四百万円だ」
花が、写真とアプリを交互に見た。
口が、少し開いていた。
アプリが二枚目を出した。
「これが凄い。HONDAのCBX1000、初期型だ。六気筒のエンジンを積んでる。これも今の相場は三百五十〜六百万円だ」
本田が、「六気筒……」と呟いた。
アプリが三枚目を出した。
その写真だけは、他とは違った。
アプリが、少し間を置いてから言った。
「これが一番凄い。陸王だ」
「陸王?」
「戦前から戦後にかけて作られた国産バイクだ。ハーレーダビッドソンをベースに、日本で生産された。現存する数が極めて少ない。相場は四百五十〜七百五十万円以上だな」
リビングが静かになった。
花が写真を見た。
古いモノクロの写真の中に、がっしりとした大きなバイクが写っている。
その隣に、若い陸雄さんが誇らしそうに立っている。
「これが……そんなに高いんですか……」
「まあ、そうだな。あまり良いことでは無いんだが、人気車種にはプレミア価格がつく。陸雄さんは全部で何台持ってたのかは知らないが、この三台だけでも余裕で一千万円を超える」
花が、菊を見た。
菊が、にこにこしている。
一千二百万円の謎が、解けた。
本田が言った。
「僕からしたらモトラもRS50も高すぎてびっくりですよ! もしかして、僕のプレスカブがキャノンボールの参加者の中で一番安かったりします?」
「プレスカブかメイトだな。走行距離的にはメイトの方が安い。いや、引き取り料が発生するからマイナスだ」
「メイトとカブって人気ないんですか?」
「人気があるから売れる。弾数も多くなる。だから、安い」
「私のボルティはいつか価値が上がりますか?」
リリーが、少し期待のこもった顔で聞いた。
アプリが、少しだけ間を置いた。
「残念ながら、現時点でボルティは原付よりも安い。だからリリーも買ったんだろ?」
「そういえばそうでした……」
リリーが、しみじみと言った。
謎が全部、解けた。
陸雄さんは、良い趣味をしていた。
ただそれだけで、一千二百万円が残っていた。
花は、アルバムの中の陸雄さんの写真を、もう一度見た。
誇らしそうに、バイクの隣に立っている。
その顔が、何となく笑っているように見えた。
*
出発の準備が整った。
四台が庭に並んだ。
RS50。
プレスカブ。
モトラ。
ボルティ。
玄関を出た四人が、固まった。
家の前に、人がいた。
人が、たくさんいた。
ご近所のお年寄りが、集まっている。
数珠を持っている人が、何人もいる。
全員が、アプリを見ていた。
「仙人様が旅立たれるんだと聞いてなぁ……」
「ありがでぇなぁ、ありがでぇなぁ……」
「一目見てがら死ねる……」
「なんまんだぶ、なんまんだぶ……」
数珠の音が、住宅街に響いた。
お年寄りたちが、手を合わせながら、アプリに向かってゆっくりと前進してきた。
アプリが後退した。
「拝むな……」
声が、少し上ずっていた。
花が前に出た。
手を広げた。
「皆さん! アプリさんは仙人じゃないですから! 普通の人ですから! ねえ、おばあちゃんからちゃんと言ってください!」
菊が、数珠を持って花の後ろに立っていた。
花の呼びかけを聞いた。
それから、お年寄りたちに向かって厳かに言った。
「仙人様は旅のお方だはんでな。無理に引き止めるのは無礼だぞ。仙人様が通られる道を開けなさい。なんまんだぶ、なんまんだぶ……」
花が振り返った。
菊が数珠を鳴らしながら、厳かな顔をしていた。
花の顔が、真っ赤になった。
「おばあちゃんも拝まないで!!」
本田が、アプリの隣に立った。
真面目な顔を作って言った。
「さあ、参りましょう。仙人様」
「そうですよ。仙人様」
リリーが反対側から言った。
アプリが、本田とリリーを見た。
二人とも、目が笑っていた。
「お前ら……」
「ご出立でございます!!」
本田が、お年寄りたちに向かって宣言した。
お年寄りたちが、道を開けた。
数珠を鳴らしながら、頭を下げた。
「ありがでぇなぁ……」
「いつかまたいらしてけろ……」
「なんまんだぶ……」
四台が走り出した。
アプリの顔が、まだ赤かった。
本田とリリーは、走りながら笑いをこらえるのに必死だった。
花は、恥ずかしさと可笑しさで、もはや何の感情なのかわからなかった。
見送りの声が、遠くなった。
やがて聞こえなくなった。
菊が、小さくなっていく四台を見ていた。
曲がり角に消える前に、呟いた。
「仙人様だば一緒だはんで、花は大丈夫だぁ」
数珠を、もう一度鳴らした。
それから、笑った。
誰にも見えない笑顔で、笑った。
*
国道103号線に入った。
市街地が、後ろに遠ざかっていった。
道が、山の方へ向かっていく。
緑が、深くなっていく。
八甲田の山が、前方に見えてきた。
四台が、山道を登っていった。
*
県道40号に入った。
少し登った先に、銅像が見えてきた。
後藤伍長だ。
雪の中で、前を向いて立っている。
あの姿のままで、ここに立っている。
本田がバイクを止めた。
ヘルメットを脱いだ。
銅像の前に立った。
アプリとリリーが、目を合わせた。
何も言わなかった。
二人でレストハウス八甲田の方へ歩いていった。
花がリリーに小声で聞いた。
リリーが小声で答えた。
花も、二人についていった。
本田は一人で、後藤伍長の前に立った。
秋の風が、丘を渡っていく。
晴れていた。
遠く、陸奥湾が見える。
青森市街が、小さく見える。
あそこから、ここまで走ってきた。
「伍長」
本田が、銅像に向かって言った。
「宗谷岬まで行けましたよ。海を見ました。水平線を見ました。皆で見ました」
風が、丘を渡った。
「ありがとうございます。あなたが仲間のために先に行って待っていた話を、リリーさんにも話しました。あの話があったから、僕は諦めなかった気がします」
後藤伍長は、答えなかった。
でも、前を向いていた。
ずっと、前を向いていた。
本田はもう一度、陸奥湾を見た。
それから、レストハウスに向かった。
*
レストハウス八甲田で山菜そばを食べた。
四人で食べた。
本田は何も言わなかった。
アプリも何も聞かなかった。
それだけで、十分だった。
*
八甲田ゴールドラインを走った。
よく整備された道だ。
快走路だ。
萱野高原を通過した。
芝生が広がっている。
空が、広い。
道の駅で「長生きのお茶」を四人で飲んだ。
アプリが「本当に長生きできたら困る」と言った。
リリーが「仙人様はもう長生き確定じゃないですか」と言った。
アプリが無言でリリーを見た。
リリーが笑いながら逃げた。
酸ヶ湯の近くを通った。
硫黄の匂いが漂ってきた。
地獄沼が見えた。
荒涼とした景色だ。
煙が、水面から立ち上っている。
この世のものではない景色が、道路のすぐ横にある。
*
子の口で、十和田湖が現れた。
花は、アクセルを緩めた。
深い青だった。
湖というより、海のようだ。
どこまでも深い青が、山に囲まれて静かに満ちている。
木々が、赤と黄色に染まっている。
紅葉の十和田湖が、目の前にある。
花は、走りながら見た。
ずっと見た。
諦めていた世界が、目の前にある。
二日前まで、ここには来られないと思っていた。
テントも持っていなかった。
知識も持っていなかった。
でも、今、ここを走っている。
それだけで、全部が美しく見えた。
生出キャンプ場に着いた。
*
テントを設営した。
リリーが花に設営の手順を教えながら、二人で同じテントを張った。
ポールを組んで、シートを広げて、ペグを打つ。
花が迷うたびに、リリーが「そこそこ、そっちに引っ張って」と言った。
二人のテントが、並んで立った。
焚き火の起こし方を、本田が花に教えた。
着火剤を置いて、薪を組んで、火をつける。
最初は煙だけだった。
それから、小さな炎が生まれた。
炎が大きくなっていった。
花が、焚き火の前にしゃがんだ。
しばらく、黙って見ていた。
「……なんでこんなに落ち着くんですか?」
「原始人からのDNAが覚えてるのかもな」
アプリが言った。
リリーが「さすが仙人様!」と言った。
花が笑った。
本田も笑った。
アプリも、口元だけで笑った。
リリーが一番大きく笑っていた。
焚き火が、四人の顔を照らしていた。
*
本田が、お湯を沸かした。
四人分のカレーヌードルに、お湯を注いだ。
三分待った。
十和田湖の夜は、寒かった。
息が、白くなるほど寒かった。
だからこそ、カレーヌードルが劇的だった。
スープを一口飲んだ花が、目を丸くした。
こんなものが、こんなに美味いのか。
寒い夜に、湖畔で、焚き火の前で飲むカレーヌードルが、こんなに美味いのか。
これが最強のキャンプ飯だ、と花は本気で思った。
四人が、焚き火を囲んで食べた。
誰も、何も言わなかった。
言葉がなくても、十分だった。
炎が揺れていた。
十和田湖が、暗闇の中で静かに呼吸していた。
*
花視点。
目が覚めた。
まだ暗い。
でも、テントの中が暑かった。
寝袋の中が、こんなに暖かいのか。
外はあんなに寒かったのに。
花はテントの外に出た。
冷たい空気が、頬に当たった。
息が、白くなった。
まだ誰も起きていない。
テントが、並んで静かに膨らんでいる。
花は、昨夜の焚き火の跡に向かった。
炭がまだ少し温かい。
着火剤を一つ置いた。
昨夜本田に教えてもらった通りに、薪を組んだ。
火をつけた。
煙が出た。
炎が生まれた。
一人で、焚き火を起こせた。
花は、焚き火の前に座った。
誰もいない。
音がない。
十和田湖が、目の前にある。
湖面に霧が漂っている。
朝の靄が、湖の上に白く広がっている。
その向こうに、紅葉の山がある。
マジックアワーの光が、少しずつ空を染めていく。
オレンジと、紫と、青が混ざった空が、霧の湖の上に広がっていく。
花は、その景色を見た。
ただ、見た。
今まで、こんなものが青森にあると知らなかった。
同じ県に生まれて、二十年近く生きてきた。
でも、知らなかった。
見ようとしなかった。
下を向いて、怖くて、動けなくて、知ることができなかった。
今は、ここにいる。
霧の十和田湖の前に、一人で座っている。
自分で焚き火を起こして、一人でここにいる。
(今度は一人で来てみるのも悪くない)
花は思った。
焚き火の炎が、静かに揺れていた。
霧の向こうで、鳥が一声鳴いた。
それだけで、朝が始まった気がした。
*
やがて、テントが動いた。
リリーが出てきた。
本田が出てきた。
アプリが出てきた。
三人が、焚き火を見た。
花が一人で起こした焚き火が、ちゃんと燃えていた。
「一人で起こしたの?」
リリーが聞いた。
「うん」
リリーが、花の頭をぽんと叩いた。
それだけだった。
でも、花には十分だった。
リリーがコーヒーを入れた。
四人分、丁寧に入れた。
コーヒーカップを受け取った花は、両手で包んだ。
温かかった。
四人で、霧の十和田湖を見ながらコーヒーを飲んだ。
誰も、何も言わなかった。
言葉は、要らなかった。
*
荷造りを始めた。
テントを畳んだ。
寝袋を丸めた。
ゴミを袋に入れた。
焚き火の後始末をした。
水をかけて、完全に消えたことを確認した。
花は、キャンプ場を見渡した。
昨夜ここで眠った。
一人で焚き火を起こした。
霧の湖を、一人で見た。
たった一泊だが、全部ここでの出来事だ。
本田とアプリは、毎日こんな生活をしてきたんだ。
毎日、テントを畳んで、荷造りして、次の場所へ走っていく。
それが羨ましかった。
心から、羨ましかった。
四台が、生出キャンプ場を出た。
十和田湖の湖畔を走った。
霧がまだ残っていた。
深い青の湖が、霧の向こうに見えた。
花は走りながら、また来ると思った。
今度は一人で来よう。
モトラと一緒に、一人で来よう。
その時には、もっと上手に焚き火が起こせるだろう。
もっと美味いカレーヌードルが飲めるだろう。
モトラのエンジンが、霧の中に響いた。
十和田湖が、見送るように静かに揺れていた。
SUZUKI RE-5
型式 RE-5
最高出力 62 ps / 6,500rpm
HONDA CBX1000
型式 CB1
最高出力 105ps / 9,000rpm
日本工作機械 陸王
型式 VFD
最高出力 22rps / 3,000rpm




