【reverse 21 Pay it forward】
本田が玄関前に戻ってきた。
アプリとリリーが放置していった荷物を、ガレージに片付けてきた。
二人とも、パチンコに行くと言って、荷物を放り出したまま走り去った。
花は、もう泣いていなかった。
縁側で、菊と並んで微笑んでいた。
二人の顔に、朝の光が当たっている。
本田は、その光景を見て、少しだけほっとした。
菊が立ち上がった。
「まんま食わねばまね。早ぐ座って、温けぇうちに食べなせ」
台所へ、小走りで戻っていった。
花が本田に言った。
「キャンプ用品買いに一緒に行ってくれる?」
「もちろん! 僕も欲しいものがあるからね」
*
台所から、菊が次々と料理を運んでくる。
トーストが来た。
バターが来た。
それから、お湯の注がれたカップが来た。
焼そばBAGOOOONだ。
「ありがとう、おばあちゃん。僕、これ好き!」
菊が、嬉しそうに笑った。
「バゴーンだば、なんぼでも、あるはんで、好きなだげ、食べなせ。いっぺぇ、あるんだはんで、遠慮、しねぇば、まねぉ」
本田には半分しか聞き取れなかった。
でも、たくさんあるから遠慮するな、ということはわかった。
本田が頷くと、菊がまた笑った。
菊が仏壇に向かった。
焼そばBAGOOOONを一つ、そっと供えた。
手を合わせた。
おじいさんも、これが好きだったんだろうか。
本田は、その背中を見ながら思った。
*
朝食を食べながら、本田と花がリストを作った。
花がスマホにメモを打ち込んでいく。
「えっ! テントってテントだけじゃダメなんですか?」
「うん。晴れてる日ならテントだけでもいいんだけどね。雨の日は雨漏りするからね」
「料理道具とか、皆さんは何を使ってるの?」
「僕もアプリさんもキャンプではコーヒーとカップラーメン用にお湯を沸かす程度だよ」
「なるほど。だから焼そばBAGOOOONが好きなの?」
「花さんは寒い日のカレーヌードルを甘く見すぎてるよ。あれを体験すると、寒い日のキャンプこそ楽しくなるよ!」
「か、カレーヌードル限定なの?」
「うん! 一択!」
菊が台所から顔を出した。
二人が楽しそうに話しているのを見て、また笑った。
何を言っているかはわからなくても、嬉しそうだった。
*
十時になった。
二人は青森みちのく銀行大野支店へ向かった。
菊から渡されたキャッシュカードだ。
テントなどを買い揃える資金を下ろすためだ。
花がATMにカードを入れた。
暗証番号を押した。
金額を入力した。
二十万円。
確認ボタンを押した。
明細書が出てきた。
花が受け取った。
見た。
固まった。
「ほ、ほ、ほ、本田くん! コレ見て!」
震える手で、明細書を本田に渡した。
本田が受け取った。
見た。
残高。
一千二百万円。
本田も固まった。
二人で、ATMの前でしばらく固まった。
ATMが「他にご用件はございますか?」と言ってきた。
二人とも、答えなかった。
「ど、どうしておばあちゃんがこんな大金を?」
「お、落ち着こう! 今は考えたって何もわからないから、それは家に帰ってからおばあちゃんに直接聞こう!」
「そ、そうだよね。早くドン・キホーテに行こうか?」
二人は、少し足取りが変なまま、銀行を出た。
*
ドン・キホーテ青森観光通り店に来た。
アウトドアコーナーへ向かった。
「あ! これ! リリーさんと同じテントだよ! 中が広くて、中で着替えもできるから便利だよ」
「じゃ、それにしよう」
花が、テントを迷いなくカゴに入れた。
昨日まで、1200万円のことが頭から離れなかったはずなのに、テントを見た瞬間に花の顔が少し戻った。
二人はさくさくと買い物を済ませた。
続いてDAISOイオンタウン青森浜田店へ。
食器、ランタン、ロープ、ペグ。
本田が必要なものを選んで、花がカゴに入れた。
二人の連携が、だんだん手慣れてきた。
*
和風レストランまるまつ。
遅めの昼飯だ。
もうすっかり定位置だ。
席に座ると、店員が「またいらっしゃいましたね」と言った。
「本当に、この大金はなんなんだろうね」
「おじいちゃんはお金持ちだったの?」
「ごく普通の農家だよ。むしろバイクを趣味にしてたから、貧乏な方だったはず……」
「ギャンブルかな?」
「あぁ、確かに競馬は好きだったかも。よく函館競馬を見に函館まで行ってたから……」
「じゃあ! きっとそれだよ! おじいちゃんは競馬で当てたんだよ!」
二人は急いで函館競馬の万馬券を検索した。
本田がスクロールした。
止まった。
「あった! これだよ! 二〇〇六年十月二十一日に恐ろしい馬券があるよ! 払い戻しが五百八十四万円だって! もし仮におじいちゃんが三百円分の馬券を買っていたら……一千七百五十三万円だ!」
「きっとそれだよ! 間違いない! おじいちゃんが亡くなるまでに五百万円くらい使ったと思うから、ピッタリだね!」
二人は顔を見合わせた。
謎が解けた。
おじいさんは、函館競馬で億に近い配当を当てた。
それをずっと、花のために取っておいた。
花の名義のカードに、こつこつと移していた。
二人は、しばらく黙った。
定食が来た。
食べた。
気づいたら夕方だった。
*
菊の家に帰ると、アプリのRS50とリリーのボルティが庭に停まっていた。
パチンコから帰ってきているらしい。
「ただいまー! テント用品を買い揃えましたよ! あとは荷造りすれば明日には出られます!」
本田が玄関から声をかけた。
花が続けて入ってきた。
「おばあちゃん! このキャッシュカードなんだけど、残高が一千二百万円も入ってたよ? こんな大金は受け取れないし、キャンプ用品と明日からの旅の資金で二十万円を下ろしたから残りは返すよ」
菊が、首を横に振った。
「それは花のだはんで、好きに使えばいい。じいちゃんもその方が喜ぶはんでな」
花がカードを差し出した。
菊が受け取らなかった。
花が再び差し出した。
菊がまた受け取らなかった。
二人の間で、カードが行ったり来たりしかけた。
その時だった。
「花」
アプリの声だ。
リビングから、低い声が来た。
「受けた恩を、本人に返すな」
部屋が、静かになった。
花が、アプリを見た。
本田も、アプリを見た。
リリーも、菊も、アプリを見た。
アプリが続けた。
「受けた恩を本人に返すことが正しいと思うな。受けた恩というものは、送るのが正しい。恩返しじゃなくて、恩送りだ。わかるか? 自分が受けた恩は、次に困っている人に送るのが恩送りだ」
本田は、その言葉を聞いた瞬間に、頭の中で何かが一気に繋がった。
鹿児島を出た日。
伊根の舟屋でアプリに声をかけてもらった夜。
ボーダーで宿泊費を支払ってくれた夜。
くま子も広島と留萌でご馳走してくれた事。
ミーハーも福井でずっと奢ってくれた事。
赤マルが雨の中、ゲストハウスに招いてくれた夜。
菊がバゴーンにお湯を入れてくれた朝。
全部が、誰かから誰かへ、渡されてきたものだった。
アプリが本田に奢ったのも。
アプリが知識を与えたのも。
アプリが先頭を花に任せたのも。
アプリがキャブレターを本田に任せたのも。
全部、アプリが誰かから受け取ってきたものを、次へ渡していただけだったんだ。
(そうか。アプリさんも、誰かから送られてきたんだ)
本田の目が、潤んだ。
こらえた。
こらえようとした。
リリーが、先にだめだった。
涙が、ぼろりとこぼれた。
紋別のキャンプ場で、セルが回らなくて泣いていた自分を思い出していた。
あの時、アプリが来てくれた。
押しがけを教えてくれた。
ヤレヤレという顔で、でも来てくれた。
それが全部、誰かから受け取ったものを渡してくれていたんだ。
「恩送り……」
花が、呟いた。
目が潤んでいた。
唇が、小さく震えていた。
アプリが、静かに言った。
「Pay it forward(恩送り)」
その瞬間だった。
花とリリーが、同時に崩れた。
二人が抱き合った。
声を上げて泣いた。
リビングに、二人の泣き声が満ちた。
本田は、唇を噛んだ。
こらえた。
必死でこらえた。
天井を見た。
深呼吸した。
ギリギリだった。
菊が、震えていた。
アプリの言葉を聞いて、全身が震えていた。
その目が、遠くを見ていた。
何かを思い出しているような顔だった。
菊がおもむろに立ち上がった。
仏壇の前に行った。
引き出しを開けた。
数珠を取り出した。
アプリの前に来た。
数珠を持った両手を合わせた。
深々と、頭を下げた。
「あぁ、仙人様だじゃ〜」
アプリが、菊を見た。
「仙人様が降りてきたんだじゃ〜。ありがでぇ、ありがでぇなぁ。なんて徳のたけぇお言葉だべ。まるでお釈迦様みてぇだ人だぁ。なんまんだぶ、なんまんだぶ……」
アプリの顔が、引きつった。
「数珠で拝むな!」
アプリが後ずさった。
菊が前に進んだ。
アプリがリビングの端まで下がった。
菊がさらに前に進んだ。
数珠を持った手を合わせたまま、アプリに向かってじりじりと迫っていく。
「なんまんだぶ、なんまんだぶ……」
「だから拝むな!」
アプリの顔が、みるみる赤くなった。
生まれて初めて見る顔だった。
本田は、さっきまでの涙が全部吹き飛んだ。
笑いが、込み上げてきた。
止まらなかった。
花とリリーは、まだ抱き合って号泣している。
菊は、アプリに向かって南無阿弥陀仏を唱え続けている。
アプリは、真っ赤な顔で菊から逃げ続けている。
本田は、腹を抱えて笑っていた。
リビングが、カオスだった。
感動と爆笑と南無阿弥陀仏が、全部同時に存在していた。
本田は笑いながら思った。
こんな人たちに出会えた。
こんな夜がある。
この旅に出て、本当によかった。
笑いが、また込み上げてきた。
菊の南無阿弥陀仏は、夜が更けてもしばらく続いた。
*
アプリも本田もリリーも、ようやく寝静まった。
縁側に、月明かりが落ちていた。
花と菊が、並んで座っていた。
「本当に友達って大事だね」
「んだべさ? 惚れだ腫れだの、夫婦だのってのはよ、お互い嫌んなって別れる時も来っけども、友達は一生のもんだ」
花が、月を見た。
昨夜と同じ月だ。
でも、昨夜より少し欠けている。
それでも、庭を白く染めていた。
「大事にさねばまいね。特に、その仙人様は逃しちゃまいねよ」
「アプリさんを仙人様と呼ばないであげてね」
「いんや、それだげは出来ねぉ。それに、もうご近所さも、仙人様のすごぉいお話、みぃんな伝えでしまったんだじゃ。この街さ、仙人様の銅像でも作らねばまいねがねぇ?」
「そんなことしたら、もう二度とアプリさんは泊まってくれなくなるよ?」
「いんや、仙人様はそったら小せぇことは気にさねぇはんでな。んだはんでこそ仙人様だべさ」
花は、諭そうとした。
でも、菊の目が熱狂的に輝いていた。
昨夜、感動的な言葉を贈ってくれたあのおばあちゃんとは、別の生き物がそこにいた。
(一夜でこんなに変わるものなのか……)
花は、月を見た。
モトラが、月明かりの中に停まっている。
明日から、あのモトラで旅に出る。
テントも買った。
お金もある。
仲間もいる。
怖くない、と言えば嘘になる。
でも、行ける気がする。
昨日の自分より、今日の自分の方が確かに前に進んでいる。
「おばあちゃん」
「んだ?」
「いってきます」
菊が、花を見た。
数珠は、もう手にしていなかった。
さっきまでの熱狂的な目ではなく、昨夜の、あの優しい目で花を見ていた。
「んだ。いってこい」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
月が、庭を照らしていた。
モトラが、静かに待っていた。




