【reverse 87 醤油の香る朝と、不自由な羽】
小豆島の朝は、醤油の匂いから始まった。
ヘルメット越しに、芳醇な香りが入り込んでくる。
「……醤油? いや、もっと濃いな」
道の両脇に、年季の入った黒い板壁の蔵が連なっていた。
巨大な醤油樽が積み上げられた軒先を通り過ぎるたびに、香りが一段と強くなる。
苗羽地区だ。
醤の郷のど真ん中だ。
本田は、エンジンの振動に身を任せながら、醤油蔵の並ぶ路地を走った。
潮風と醤油の香りが混じり合う苗羽の空気の中で、教科書の中でしか知らなかった物語の世界が、タイヤから伝わる地面の感触と共に、急に色鮮やかな現実として胸に迫ってきた。
*
岬の分教場に着いた。
海沿いに、古い木造の建物があった。
ひっそりとしていた。
寂れていた。
「何故か廃校って物悲しく見えますね……」
「これからの日本はますます廃校が増えるからな……」
「ここに通ってた生徒は当時どうしたんですか?」
「この近くにある苗羽小学校に移った……まあ、話せば長くなるから自分の目で見てみろ。着いて来い」
*
アプリが、苗羽小学校の前に二台を停めた。
「ここが苗羽小学校だ。当時の生徒はこちらに移ったんだ」
校門の前で二台が停まっていると、中から教師らしき人が出てきた。
「どちら様ですか?」
「えっと……僕らは今、岬の分教場を見ていて、その流れでここにも来ちゃっただけです……すいません……僕らは不審者ですよね……」
「あぁ、なるほど! よくここの事がわかりましたね。当時の生徒達はこの小学校へ移ったんですよ」
「って事は、ここもそれなりに歴史がある小学校なんですね」
「えぇ……歴史はあるんですが……実はここも二〇二七年には廃校になるんですよ」
「え? ここも?」
「この学校には今は各学年に一クラス十人前後しか生徒がいませんからね……クラスで野球もサッカーもできないんです。でも、二〇二七年に他所の学校と統合されることでようやく一クラスが三十人になるんです。ようやく集団競技が出来るようになるんです」
「なるほど。一クラス十人だとドッジボールもできませんよね?」
女教師が、静かに頷いた。
本田は、校門の向こうの校庭を見た。
醤油蔵の香りが、ここまで届いていた。
二人は島を一周すると言って、女教師と別れた。
女教師は、二台のバイクが走り去るのを、しばらく見つめていた。
*
寒霞渓のスカイラインに入った。
急勾配のワインディングが続く。
プレスカブのエンジンが、懸命に唸った。
RS50が、甲高い音を上げた。
頂上に着いた。
眼下に、瀬戸内海が広がった。
本田は、しばらく何も言えなかった。
重岩に寄った。
急な階段を登った。
巨大な岩が、絶妙なバランスで重なっていた。
世界の果てのような景色が、冬の空の下に広がっていた。
*
エンジェルロードに着いたのは、午後四時だった。
海はまだ、深い紺碧を湛えていた。
けれど、引き始めた潮の波打ち際から、わずかに白い砂の背中がのぞき始めていた。
太陽が西の空に傾き、海面を眩しいほどの銀細工に変えている。
砂の道が、少しずつ現れていく。
まるで海が、秘めていた大切な思い出をそっと打ち明けてくれているみたいだった。
日が傾くにつれ、道はどんどんその幅を広げていく。
空が淡い水色から、燃えるようなオレンジ、深い紫へと溶け合っていく。
十七時十五分。
太陽が水平線に触れた瞬間、エンジェルロード全体が黄金色の輝きに包まれた。
濡れた砂の粒ひとつひとつが光を反射して、まるで宝石を敷き詰めた道のようだった。
太陽がゆっくりと沈んだ。
最後の一線が海に消えると、世界は一瞬だけ、ため息が出るほど美しいマジックアワーに包まれた。
冬の星座たちが瞬き始めた頃、砂の道は夜露に濡れて月明かりをぼんやりと照らし返していた。
プレスカブのエンジンがカチカチと熱を冷ます音が、静寂の中で妙に心地よく響いていた。
*
その時、遠くから甲高い二ストの音が近づいてきた。
「SDRか……マニアックだな……」
YAMAHA SDR200から降りたライダーが、ヘルメットを取った。
苗羽小学校の、あの女教師だった。
「あ、さっきの先生……」
「先程はどうも。昼間のあなた達を見てたら私も久しぶりにバイクに乗りたくなっちゃってね」
三人が、しばらく並んで砂の道を眺めた。
やがて、あたりが暗くなり始めた。
「僕らはそろそろ宿に行くので失礼しますね」
「私もそろそろ帰らなくちゃ」
三台が、別々の方向へ走り出した。
*
今夜の宿は、農村ゲストハウスNOTELだった。
肥土山地区の、廃校を改装したゲストハウスだ。
「ここも廃校なんですね」
「廃校や廃駅を利用したこういった施設は近年に増えてきたな」
一階のHOMEMAKERSカフェで、島の野菜と自家製ジンジャーシロップのドリンクを飲んだ。
窓の外に、肥土山の田園風景が広がっていた。
居心地が良かった。
宿泊料金も安かった。
二人は、黙って顔を見合わせた。
「連泊しますか」
「そうだな」
*
一方、池田の喫茶どんぐりでは。
「マジで小豆島まで着いて行ったの?」
「なぉ! マジでオモロすぎたわ〜! ユッタも来たら良かったんよ、ホンマに。原付ってエグいな、めちゃくちゃオモロいやんけ!
……あ、でもな、聞いて。ウチのディオもあんたのジョグもさ、荷物積むとこ『羽』やん? あの跳ね上がっとるヤツ。アイツが言うにはな、『羽付いとるバイクなんかで旅なんか行けるかボケ!』やて。羽があったら旅ができひんらしいわ。ウチらの気合いのハネ、全否定やで? ウケるやろ!」
「そうだね。リアキャリアがないと荷物が詰めないもんね」
「なぁユッタ、これどうにかして、あの羽に荷物積めるようにならへんかな? ガムテでぐるぐる巻きに縛り付けるか、それとも百均の網強引に引っ掛けるか……。でも、ウチらのこだわりと旅、どっちも捨てられへんやん?」
「そんな面倒な事をしなくても純正のリアキャリアを買えばいいんだよ。たぶん中古なら三千円もしないよ?」
「はぁ!? ウソやろ? ウチのディオ、純正の荷台付けられるん!? てか、そもそもあの『羽』って外せるもんなん? マジで!? ネジで留まっとるだけなん?
ウソやん、あんなに気合い入れて『羽こそが命!』思てたのに、あんなん飾りやったんか……。外して荷台付けたら、普通に旅仕様に変わるやんけ!
……でも待って、羽外したらウチのディオ、ただの『おばちゃんバイク』にならへん? それはそれでエグいわ、耐えられへん!」
「そんなに旅をしたいの?」
「ユッタ、あんたもいっぺんやってみ! 乗ったら絶対わかるから!
ええか、原付乗っとって旅せぇへんとか、そんなんファミコン本体だけ買うてカセット一個も買わんのと同じ事やぞ! 画面点けても『ピコーン』って空回りするだけやん? 走る場所があって初めて、このディオもジョグも『伝説のハード』になるんやんか。ただの近所の足にしとくとか、宝の持ち腐れすぎて逆に罪やで!」
「いくらなんでも遠くは無理でしょ!」
「なぁユッタ! 本田見てみぃや、アイツあんなカブで宗谷岬まで走り切ったんやで? カブで行けるんやったら、ウチのディオで行かれへんわけないやん!
絶対行けるって! ユッタ、あんたも一緒に行こうや。あんたのジョグかて、あの羽さえ取っ払ったら純正の荷台付くんやろ? 見た目はちょっとアレ……おばちゃん臭なるかも知らんけど、宗谷岬まで行くって決めたら、そんなん気合いでカバーや! 二人で『野田の伝説』作ったろうやんけ!」
「フフフ、それも良いかもね。旅か〜。それなら、私は山口県に行ってみたいな〜」
トラ子は山口県と聞いて、ユッタの真意が一瞬でわかった。
「山口か……。せやな……。ウチら、山口目指さなあかんわ。
ディオとジョグやったら、絶対行ける! 行けんことない! 行こうや! 山口まで! 国道2号線ひたすら西にブチ抜いて、本州の端っこまで、ウチらの根性見せつけに行こうやんけ!」
おばあちゃんが、コーヒーのお代わりをついだ。
ゆっくりしていってね。
二人が、懸命にスマホを開いた。
検索ワードは、「Dio Z4 純正リアキャリア 中古」だった。
ディオとジョグの、リアウイングの命運が尽きた瞬間だった。
そしてそれは同時に、二人の旅の、静かな始まりだった。
YAMAHA JOG ZR
型式JBH-SA39J
最高出力4.2ps / 8,500rpm
YAMAHA SDR200
型式 2TV
最高出力 34ps / 9,000 rpm




