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【reverse 86 ラビリンス】

 翌朝、五時。


 気温二度。


 トラ子が、一人でテントを出た。


 本田もアプリも、まだ寝ていた。


 スカジャンでは寒すぎた。

 本田のプレスカブに干してあったカッパを借りた。


「見てーな、このカッパ。これ一枚で風ブチ殺せてるやん。全然寒ないわ、余裕すぎて笑けてくるわ!」


 虎柄のディオで、まだ薄暗い小豆島へ走り出した。


   *


 右手に、瀬戸内海が広がっている。


 まだ底の見えない、深い墨色の海だった。

 空の端がわずかに、薄く、透明な青に透けはじめていた。

 ブルーモーメントの幕開けだ。


 虎柄のディオの派手なカラーリングも、この一刻だけは夜明けの影に溶けてシックに沈む。

 エンジンの音だけが、氷のような空気を切り裂いていく。


「……あかん、指ちぎれる。まじで寒すぎて笑けてくるわ」


 吐く息が、真っ白だった。

 速度は二十キロ。


 けれど今は、この牛歩のような遅さが、何よりの贅沢に思えた。


 スローモーションのように流れていく海岸線。

 止まっているかのような波の音。

 誰もいない国道。


 この島にあるすべての色とすべての静寂が、今、自分ひとりのためだけに用意されている。


「……綺麗やんけ。野田のガード下とは、えらい違いやな」


 空が濃紺から、切ないほどの東雲色へと移ろっていく。


 その淡いグラデーションを見つめるトラ子の瞳に、ヤンキーの鋭さはなかった。

 ただ一人の少女としての、素直な感動だけがあった。


 寒さは痛みに変わり、震えは止まらない。

 けれどこの二十キロの視界に映る「青の世界」を、誰にも邪魔されずに走り抜けるこの瞬間は、どんな金銀財宝よりも贅沢で美しい「絵」だった。


   *


 土庄町に入った頃、太陽が昇り始めた。


 古い町並みが赤く染まった。


 趣がある。

 細い路地が続いている。


 トラ子が、ハンドルをふらりと切った。


 それが、運の尽きだった。


   *


「あれ……?」


 同じタバコ屋の角を、三回曲がっていた。


 道がどんどん細くなっていく。

 ディオのハンドル幅が、石垣にギリギリ触れそうだ。


 目の前に、民家の玄関が現れた。


「お邪魔します言わなアカン距離やんけ!」


 バックした。

 別の路地を選んだ。

 また同じ白壁が現れた。


「……ちょ、待てや。まじでこれ、どうなってんのん?」


 ディオを止めた。

 スタンドを立てるスペースすら怪しい細路地の真ん中で、立ち尽くした。


 かじかんだ指がカッパのポケットから出てこない。

 やっとの思いで出したスマホは、高すぎる石垣のせいで電波が虫の息だった。


「北……? 北ってどっちやねん! 壁が高すぎて影すら見えへんやんけ!」


 横を見ると、小さな看板があった。


 『迷路の街』。


「知ってるわ! 言われんでも分かっとるわ! 出口を教えろ、出口を!」


 ガタガタと膝が震えた。

 鼻水は止まらず、カッパの下のジャージはキンキンに冷えていた。

 ついさっき「独り占めして贅沢やわぁ」とポエムを噛み締めていた少女の面影は、微塵もなかった。


「おーい! 誰かおらんの!? 野田のトラ子が迷子やぞ! 笑わんと助けにこい、コラー!!」


 朝の静かな住宅街に、行き場を失ったヤンキー少女の咆哮だけが虚しく響き渡った。


   *


 キャンプ場では、アプリが目を覚ましてトラ子がいないことに気づいた。


「トラ子のヤツ……たぶんあそこだな……」


 アプリが、迷わず迷路の街へ走り出した。

 本田はキャンプ場で待機した。


   *


 迷路の街の出口ゲートに、地元のおばさんに連れられたトラ子が出てきたのは、ちょうどアプリが到着した瞬間だった。


 トラ子は迷子になっていたわりに、楽しそうだった。

 おばさんと世間話をしながら歩いていた。


 アプリの姿を見つけて、おばさんに別れを告げた。


「ちょお待て、原チャ凄すぎんぞ! こんな細い道もグイグイ行けるし、景色独り占めやんけ。何これ、最高すぎて笑けてくるわ! 免許取って正解やったわ、マジで!」


 アプリが、静かに言った。


「迷子になるのも、旅の一部だ」


   *


 二人がキャンプ場へ戻ると、本田がインスタントコーヒーを差し出した。


 三人が焚き火を囲んだ。


 アプリがフェリーの時刻表を開いた。


「四便で帰ると、暗くなる前に野田には着くんじゃないか?」


「姫路から野田まで一人で帰れるかなぁ……。あー、マジでスマホホルダー買っとけばよかった! 自分のアホさ加減に笑けてくるわ!」


「それなら、僕が喫茶どんぐりまで送っていくよ」


「は? マジで言うてんの? フェリー代ドブに捨てるようなもんやけど、ええんやな? うちは本田の分まで金返さへんからな。自分でケツ拭けよ?」


 本田が、笑いながら答えた。


「別にいいよ。フェリー代は無駄にならないから。だって僕はトラ子を送っていくことで、もう一度喫茶どんぐりに行けるんだもん。僕は鹿児島の人間だからね。もう二度とあのお店には来れないかもしれないだろ? だから、フェリー代は無駄にはならない。昨日も言ったけど、原付で走ればつまらない街なんて無いんだよ」


 トラ子が、少し黙った。


 昨日からの一泊を、頭の中で辿っていた。

 夜明けの海。

 迷路の石垣。

 寒空のカレーヌードル。

 喫茶どんぐりの笑顔。


「っしゃあ、分かった! そしたらいっぺん『どんぐり』まで一緒に流そか。気合い入れや!」


   *


 テントを撤収した。


 フェリー乗り場へ向かった。


 本田とトラ子が乗船手続きをした。


 アプリは、港で二人を見送った。


 四便が、岸壁を離れた。


   *


 池田の喫茶どんぐりに着いた。


 おばあちゃんが、「ゆっくりしていってね」と笑って迎えてくれた。


 トラ子が、今度は素直にその笑顔を受け取った。


 二人でサンドイッチを食べながら、トラ子が言った。


「ここまで来たら、あとは自分一人で帰れるわ! ホンマありがとな! ウチも早よバイト見つけて、金ガッツリ貯めて、原付で旅出たんねん!」


 本田が、気まずそうに答えた。


「それは少し難しいかな……」


「はぁ? 何言うてんねん。ウチがガキやからアカン言いたいんか? なめんなや! 未成年やろうが何やろうが、バイトくらい気合でできんねん!」


「残念だけど未成年だからとか関係ないんだよ。僕もキャノンボールに出た時はトラ子と同じ十七歳だったからね……」


「んじゃ、なんでやねん。理由言えや!」


「トラ子には致命的な欠点があるんだよ」


 トラ子が、固唾を飲んで本田を見た。


「トラ子のディオには……リアキャリアが、ない」


 沈黙が、どんぐりの店内に満ちた。


 トラ子の視線が、遠くなった。


 脳内で、自分のディオを思い浮かべた。

 後ろ。

 荷台のあるべき場所。


 あるのは、格好いい羽だった。


「……ちょ、待てや」


 トラ子の声が、一オクターブ上がった。


「詰んだわ。ウチのディオ、リアキャリア付いてへんやんけ! これマジで致命的すぎるやろ! あのイケてる『羽』のせいで、旅に出られへんとか冗談抜きでシャレにならんし! ウチ、最初から詰んでたんか……?

っちゅーか、これ何も『積めん(詰めん)』バイクやったんか、ボケェー!!!」


 どんぐりの店内に、トラ子の叫びが響いた。


「阪神スペシャルの限定装備だから……しょうがないよ」


「しょうがないで済む話かい! 虎柄で走れる癖に、荷物一個積めへんとか……どこの世界に旅に行けない旅バイクがあるねん! この子、見た目はキャラ強いくせに、中身は一番おとなしいやつやないかいっ! いや待て、ウチが悪いんか……? リアキャリアの有無くらい調べてから買えっちゅう話か……? でも誰も教えてくれへんかったやんっ!!」


 一人でノリツッコミが止まらない。


 おばあちゃんが、微笑ましそうに見ていた。


 本田が、ついに笑い出した。

 トラ子も、つられて笑い出した。


「なるほどな……。同じ原付でも、旅に向いとるやつと、全く使いもんにならんやつがおるっちゅーことか。おもろいやんけ。なんか、ますます原付のことが好きになりそうやわ!」


 おばあちゃんが、コーヒーのお代わりを持ってきた。


「ゆっくりしていってね」


 またその笑顔だった。


 トラ子が、「おおきに」と答えた。


   *


 トラ子と別れて、本田は姫路港へ戻った。

 夜の便で、小豆島へ上陸した。


 真っ暗な小豆島オートビレッジヨシダへ帰ると、アプリが焚き火の前にいた。

 インスタントコーヒーを、黙って差し出してくれた。


 トラ子を無事に送り届けた事。

 リアキャリアがないので旅を諦めさせた事。

 喫茶どんぐりでもう一度サンドイッチを食べた事。


 話しながら、焚き火が小さくなっていった。


「あいつ、また来るだろうな」


 アプリが言った。


「来ると思います」


 本田が答えた。


   *


 焚き火が、静かに落ちていった。


 トラ子のいない島の夜は、しんと静かだった。


 波の音だけが、暗い砂浜から届いていた。


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