【reverse 77 東海道中、原付と残像】
浜松駅前。
伝馬町。
歩道の脇に、石碑が立っていた。
鈴菌が、ハスラーを降りてそれを読んだ。
「浜松宿 本陣跡……杉浦家」
オフィスビルが並んでいた。
車が行き交っていた。
何もかもが現代だった。
石碑だけが、ひっそりと、しかし誇らしげに立っていた。
「建物はなくても……確かにここにいたな」
「なんか不思議な気持ちです。助右衛門さんが『しっかりやってこいよ』って、背中を押してくれてる気がしますね」
本田が、石碑の前で手を合わせた。
「行くか」
四台のエンジンが、伝馬町に響いた。
*
旧東海道を西へ。
舞阪の松並木が続いた。
幕末に三時間かけて歩いた道を、原付で二十分で抜けた。
「もう着いちゃった……」
本田が、弁天島の赤い鳥居を見ながら呆然とした。
潮風が、ヘルメットのシールドを叩いた。
*
十一時。
新居関所の前を通り過ぎようとした時、鼻に匂いが届いた。
炭と、タレと、脂の焼ける匂いだった。
アプリが、即座にウインカーを出した。
安田屋だった。
開店と同時に、一番乗りだった。
うな重が来た。
四人が、箸を構えた。
本田が一口食べた。
黙った。
もう一口食べた。
また黙った。
「……圧倒的に昔の方が美味いんですけど」
本田が、本音をこぼした。
花が、箸を置いて考えてから言い切った。
「うなぎそのものが違うのよ。育った環境が違いすぎているのね…」
厨房から、職人の視線が飛んできた。
四人は、うなぎを急いで食べた。
米は美味かった。
早急に店を後にした。
*
十二時半。
潮見坂の旧道を登った。
頂上で、パッと視界が開けた。
遠州灘が、どこまでも広がっていた。
幕末に、全員が足を止めた場所だ。
「龍馬さんも、今頃この海のどこかにいるのかな」
花が言った時と、同じ海だった。
同じ風が吹いていた。
四人が、エンジンを切って、しばらく立っていた。
*
豊橋を抜けた。
路面電車のレールを踏まないようにヘルメットの中で緊張した。
御油に入ると、松並木が見えてきた。
天然記念物の看板が立っていた。
約六百メートル、巨松のトンネルが続いていた。
四台が、並んで松並木に入った。
木漏れ日が、路面に揺れた。
エンジン音が、葉の間に吸い込まれていった。
「歩いても最高だったけど……」
本田が、ヘルメット越しに呟いた。
「原付でも最高だな」
鈴菌が、答えた。
*
赤坂宿。
大橋屋が、そこにあった。
梁が太かった。
廊下が長かった。
あの時と、同じ建物が立っていた。
でも、戸が閉まっていた。
「……閉まってる」
本田が、縁側を見た。
「でも見てください。あの時、僕たちが腰掛けてお茶を飲んだ縁側、そのまんまですよ。看板の文字の掠れ具合まで……」
「残念だが、これで正解だったのかもな。……見てみろよ、隣の建物はアルミサッシにサイディング壁だ。大橋屋が現役であり続けようとしたら、今頃ここもコンクリートの塊になってたはずだぜ」
「……死んで剥製になったことで、永遠の命を得たというわけか。あの日、番頭が言っていた『何代も続いております』という言葉。形は変わったが、嘘ではなかったようだな」
花が、建物の柱にそっと触れた。
「……営業してなくてもいい。こうして残っててくれるだけで、私たちがここにいたことが『なかったこと』にならない気がする。……龍馬さんも、ここに泊まったかもしれないんだもんね」
四人が、しばらく大橋屋の前に立っていた。
誰も、バイクに戻ろうとしなかった。
*
岡崎城の西。
矢作川の手前で、濃い香りが漂ってきた。
ヘルメット越しでも、わかった。
まるや八丁味噌。
巨大な蔵が、道沿いに続いていた。
四人が、蔵の中に入った。
一歩入った瞬間、外の音が消えた。
国道のトラック音も、スマホの通知音も、全部消えた。
あるのは、濃厚な味噌の香りと、ひんやりとした静寂と、天井まで届く巨大な木桶だけだった。
あまりにも、あの時と同じだった。
「……おかしいな。さっきまで国道1号線を走ってたのに。……今、後ろを振り向いたら、汗を拭いながら笑ってる助右衛門さんが立ってる気がする」
「ああ。……あのアホみたいに重い石、一個一個積んでた職人の親父。あいつが『おめぇら、どこの回し者だ?』って睨んできた時の顔まで思い出しちまった」
アプリが、木桶にそっと手を当てた。
「……変わらないことが、これほど残酷だとはな。……亜留斗、平七、タツ。奴らはもう、この土の下だ。だが、奴らが守ろうとしたこの匂いだけが、百六十年後の俺たちの鼻を突いている」
「……みんな、精一杯生きたんだね。この味噌の匂いが消えてないってことは、みんなの頑張りがちゃんと未来に届いたってことだもんね」
花が、有松絞りの手拭いを、ぎゅっと握った。
木桶が、静かにそこにあった。
百六十年、ずっとそこにあった。
本田が、蔵の入口を振り返った。
「……行きましょう。僕たちの時代で頑張ってる人たちに、会いに行かなきゃ」
四人が、外の光の中に戻った。
*
有松に入ると、町並みが変わった。
重要伝統的建造物群保存地区の看板。
藍と白の暖簾が、風に揺れていた。
四台とも、バイクを降りて押した。
竹田嘉兵衛商店の前に来た時、花が足を止めた。
リュックから、手拭いを取り出した。
あの日、百六十年前に買った手拭いだ。
店の中から、白髪の老職人が出てきた。
花の手拭いを見た瞬間、老職人の目が変わった。
「……」
震える指先で、布の裏側をなぞった。
ルーペを取り出した。
「……信じられん。これは慶応年間の蜘蛛絞りだ。だが、保存状態がいいなんてレベルじゃない。まるで……今、職人が針を抜いたばかりのような瑞々しさだ」
本田が、内心で青くなった。
(あ、マズい……どう説明しよう)
「お嬢さん、これはどこで……いや、聞くのは野暮だな。……見てごらん、この絞りの根を。今の時代の糸じゃあ、この強さは出せない。当時の職人が、自分の指の皮を犠牲にしてまで引き締めた証拠だ」
「……今のものの方が、綺麗だなって思ったんですけど」
「綺麗さは、今の勝ちだ。だが、魂の震えはこっちの勝ちだよ。……ありがとう。先祖がどんな思いでこの店を繋いできたか、今、はっきりと教わった気がする」
老職人が、深く頭を下げた。
花が、手拭いを大切にリュックに戻した。
*
熱田神宮の前を通り過ぎた。
伏見通を北へ向かった。
十七時四十五分。
名古屋城が見えてきた。
金鯱が、夕日に光っていた。
四人が、城の前でエンジンを切った。
「……鈴菌さん。当時三日かかった道、原付ならうなぎ食べてお土産買っても、日が暮れる前に着いちゃいましたね」
「だから言っただろ、歩くよりバイクだって。……でも、マメの痛みを知ってるから、このエンジンのありがたみが分かるんだよ」
「やっぱりモトラって凄いんですね。これが百六十年の進化なんですね」
「残念ながら花のモトラも本田のカブも三十年前の原付だから、百三十年の進化だけどな……」
四人が笑った。
三十年前の原付で、三日の道を一日で来た。
幕末の志士がこれを見たら何と言うだろうか。
金鯱が、夕日の中で黙って輝いていた。
*
名古屋の夜が始まりかけていた。
四台が、街の灯りの中に並んでいた。
「明日、モト子さんに会いに行くんでしたっけ」
「あぁ」
「……幕末で会ったおモトさんに何かしてしまってないかが、正直ずっと怖かったんですよね」
「俺もだ」
鈴菌が、城を見上げたまま言った。
「だが、今日ここまで走ってきて、少しだけ答えが見えた気がするぞ」
「どういうことですか?」
「大橋屋も、まるやも、竹田嘉兵衛商店も……俺たちが見てきたものは全部、百六十年間ちゃんと続いてた。」
鈴菌が、ハスラーのタンクを軽く叩いた。
「モト子も、続いてるはずだ」
本田が、空を見た。
名古屋の夜空だ。
星は、あまり見えなかった。
でも、どこかに続いているような気がした。
「……行きましょう」
四台のエンジンが、また動き出した。
名古屋の夜の中へ、四つの灯りが走っていった。




