【reverse 76 本当に来れた】
こちらの後日談は『kasadera転生』の
【k-15 また楽しからずや】を読むと幕末編の全てが繋がります。青森から過去へと旅を続けてきた花の旅はここで終わります。
明治三十一年。
春猪は、五十五歳になっていた。
髪に白いものが混じっていた。
でも、目は、あの頃と変わっていなかった。
出発の朝、長男の直道が心配そうに尋ねた。
「母さん、長旅になるけど大丈夫?」
「ウフフ。母さんの友達にはね、十九歳なのに日本中を旅してた女の子がいたのよ」
春猪は、文久二年のあの日、花から貰ったDAISOの手鏡を取り出した。
小さな鏡だ。
三十六年、大切に持っていた。
春猪は、その鏡をそっと胸に当てて、笑った。
*
【第一区間 高知〜大阪】
土佐の蒸気船が、太平洋を渡った。
高知の港が、遠くなっていく。
鏡川が見えた。
城下の屋根が見えた。
やがて、何も見えなくなった。
春猪は、甲板に立って、高知の空が消えるまで見ていた。
龍馬叔父さんが脱藩した海だ。
あの人も、この海を渡った。
(……叔父さん、行ってきます)
一日の航海を経て、大阪に着いた。
龍馬の義兄、高松太郎の家に一泊した。
旧友に会った夜は、短かった。
*
【第二区間 大阪〜東京】
東海道本線の汽車に乗った。
汽笛が鳴った。
煙が流れた。
窓の外を、景色が飛んでいく。
浜松を通り過ぎた。
春猪の胸が、少しだけ痛んだ。
(……あの頃の花は、この辺にいたのかしら)
平七さんの綿畑も。
亜留斗さんの工房も。
杉浦さんの本陣も。
全部、この車窓の向こうのどこかにある。
約十七時間。
上野に着いた。
子供たちが、駅の賑わいに目を丸くした。
「函館もこのくらい栄えてるみたいよ」
春猪が言うと、子供たちがさらに驚いた。
*
【第三区間 上野〜青森】
日本鉄道に乗り換えた。
東北本線。
上野から青森まで、丸一日以上かかる。
蒸気機関車の煤煙が、窓から入ってきた。
椅子が硬かった。
揺れが止まらなかった。
子供たちが、次々と眠っていった。
春猪だけが、ずっと窓の外を見ていた。
景色が変わっていく。
関東平野が、東北の山に変わっていく。
田んぼが、杉林に変わっていく。
空の色が、少しずつ、北の色になっていく。
(……花は、どこまで旅をしたのかしら)
約三十時間。
青森に着いた。
*
青森の港は、時化だった。
函館行きの船が、止まっていた。
駅前の宿は、満室ばかりだった。
街の人に教えてもらって、横内方面へ歩き始めた。
夕暮れが近かった。
北の風が、冷たかった。
しばらく歩いたところで、春猪の足が止まった。
*
薬種商の店先に、少女が立っていた。
春猪の目が、釘付けになった。
「ど、どうして……花が……」
直道が、春猪を見た。
「母さん、どうしたの?」
「花が……あの頃のままの花がいる……」
春猪は、走った。
五十五歳の体で、走った。
「花! どうしてあの頃のままなの!? まだ、十九歳の頃の花のままじゃない!」
少女が、キョトンとした顔で春猪を見た。
「すみません、人違いだと思いますよ。私はアヤメです。花はおばあちゃんの名前ですよ! まあ、おばあちゃんは花葉ですけどね」
春猪の足が、止まった。
アヤメが、嫌な顔一つせず、丁寧に答えてくれていた。
「そ、そうよね……申し訳ないわね。貴女に瓜二つな友達がいるのよ。でも、もう三十年近くも会ってなかったから、つい……」
「そんなに私が似ていたんですか?」
「えぇ。似てると言うよりは……花本人に見えたわ。もしかして、貴女のお母様は花という名前ではないの?」
「はい、私の母は桜と言います」
完全に別人だとわかって、春猪が肩を落とした。
するとアヤメが、春猪に静かに尋ねた。
「その花さんという方は、親友だったんですね」
「えぇ。無二の友なの。旅人だから、どこにいるのかわからないのよ……」
「そうですか……でも、親友がいるってことは素敵な事だと思います! 私の花葉おばあちゃんがいつも私に言ってる言葉があるんですよ!」
「どんな?」
「いい友達はいい旦那さんを見つけるよりも難しいって……」
春猪の胸に、何かが込み上げた。
その言葉を、春猪は知っていた。
才谷屋の縁側で、花が笑いながら言っていた言葉だ。
菊おばあちゃんから教わったと言っていた。
(……花。貴女のおばあちゃんの言葉が、こんな北の町まで来ていたのね)
「そうね。とてもいい言葉。私の親友は……きっと今でも旅を続けてるのね! ありがとう、アヤメさん」
春猪は、笑った。
花が今も旅をしている光景が、はっきりと目に浮かんだ。
どこかの知らない道を、モトラを押しながら、笑っている花が見えた。
*
宿が見つかった。
一家は、ようやく荷物を降ろした。
翌朝、時化が収まった。
青森港から、函館行きの船に乗った。
甲板に出ると、津軽海峡の風が吹いてきた。
冷たく、潮の匂いがした。
春猪は、手すりを握って、水平線を見た。
才谷屋の縁側で、花が言ってくれた言葉を思い出した。
「春猪ちゃんなら必ず行けるよ!」
あの時、春猪は半分しか信じていなかった。
蝦夷地なんて、夢の話だと思っていた。
でも今、津軽海峡の風の中に立っている。
三十六年かかったけれど、本当にここまで来た。
春猪は、花に追いついた気がした。
自然と、笑みがこぼれてきた。
*
函館の港が、見えてきた。
海の向こうに、街が広がっていた。
レンガ造りの建物。
異国の船。
坂の上に広がる、青い空。
子供たちが、一斉に声を上げた。
春猪は、黙ってその景色を見ていた。
*
港に降りると、人の波が押し寄せた。
迎えのはずの従兄弟、坂本直の姿がなかった。
一家が途方に暮れていると、声がかかった。
「オバサン! 何処まで行くのさ!」
振り返ると、三十代くらいの活発そうな女性が立っていた。
「実は迎えのものが来ていなくて……弥生町まで行きたいのですが……」
「弥生町? それなら私が案内するよ! うちは弁天だけど同じ方向だからさ! 私はリリコ。貴女は?」
リリコ。
その名前を聞いた瞬間、春猪の胸が跳ねた。
走馬灯のように、あの言葉が蘇った。
才谷屋の縁側で、本田という少年が言っていた。
「函館にはリリーさんという親切な人がいる」と。
本田の言う通りだった。
函館には、親切な人がいた。
「お願いします。私たちは今日、函館に着いたの。もしも弁天町がウチから近いのなら……友達になってくれるかしら?」
「もちろん! 弥生町から弁天町までは歩いてすぐだよ! これからはご近所付き合いができるね!」
リリコが、あっけらかんと笑った。
春猪も、笑った。
*
馬車列車が、函館山に向かってゆっくりと走り出した。
窓の外を、函館の街が流れていく。
石畳の坂道。
ハリストス正教会の屋根。
異国と日本が混ざり合った、この国のどこにもない景色だ。
春猪は、リリコと話しながら、函館の青い空を見ていた。
土佐の港を出てから、何日かかっただろう。
蒸気船と汽車と、時化と満室と、人違いと。
全部を越えて、やっとここまで来た。
才谷屋でのことを思い出した。
花と本田と鈴菌とアプリと、縁側で笑っていたあの夜を。
あの夜、春猪は「いつか蝦夷地まで行きたい」と言った。
花が「絶対に行ける」と言ってくれた。
行けた。
本当に、行けた。
春猪は、胸の内ポケットに手を当てた。
DAISOの手鏡が、そこにあった。
「……花、来たよ」
誰にも聞こえない声で、呟いた。
馬車が揺れた。
函館の青い空が、窓いっぱいに広がっていた。
春猪は、ずっと笑っていた。
―― 幕末編・エピローグ 完 ――




