【reverse 72 芝浜の時そば】
この噺の後日談は『kasadera転生』の
【K-13 芝浜の種】にて執筆致しました。
フラグ回収のお好きな方は是非、kasadera転生もあわせてご覧くださいませ。
図書室に、また全員が集まった。
今日も伊藤家の息子が案内してくれている。
鈴菌と本田と花は、それぞれ棚の前で蘭書を広げていた。
アプリも棚の前にいた。
ただし、アプリの横にはおモトがいた。
昨日も。
一昨日も。
今日も。
ピタリと、隣にいた。
「おモト、ち、近いぞ……」
「あら、ごめんなさい。でも、本の中身が見にくくて……」
おモトが、アプリの開いている本を覗き込んだ。
覗き込みながら、肩が完全に触れていた。
さりげなくではなかった。
ガッツリ触れていた。
本田が、花に耳打ちした。
「このままじゃ、おモトさんにアプリさんが襲われちゃうよ」
「うん……ヤバいよね。現代のモト子さんもあんな感じなの?」
「うん……名古屋の結婚式は派手にしないとならないから、かなり焦ってたよ……」
「へぇ、名古屋って結婚式が派手なんだ〜」
その瞬間だった。
おモトの目が、花の方を向いた。
猛禽類の瞳だった。
「お花さん! 貴女、結婚式が見たいのかしら?」
おモトが、本から離れて花に詰め寄った。
「は、はい……」
花が、反射的に答えてしまった。
アプリが、この瞬間だけ安堵した顔をした。
*
連れてこられたのは、名古屋の豪商の屋敷だった。
高砂の歌声が、庭に響いていた。
荘厳だった。
静かだった。
華やかさより、重みの方が勝っていた。
「……派手じゃないですね」
本田が、小声で花に言った。
「うん……もっと賑やかなのかと思ってた」
二人が不思議そうに式の様子を眺めていると、紅白饅頭が回ってきた。
血縁でも知り合いでもない五人にも、丁寧に配られた。
やがて厳かな空気が解けて、宴へと変わった。
*
壇上に、一人の男が上がった。
二十三歳ほどの、細面の若者だ。
扇子を一本、持っている。
口を開いた瞬間から、空気が変わった。
「三遊亭圓朝と申します。本日はお招きにあずかり……」
落語が、始まった。
時そばだった。
本田と花が、前のめりになった。
アプリの隣では、おモトがまたピタリと寄り添っていた。
鈴菌が、腕を組んで呟いた。
「時そばは現代と変わらないんだな……」
その声は、少し遠くを見ていた。
*
圓朝が高座を降りると、宴が続いた。
本田と花が、圓朝の元へ駆け寄った。
「すごく面白かったです! 落語って初めて聞いたんですけど、あんなに笑えるとは思わなくて……!」
「ありがとよ。そいつは嬉しいねえ」
圓朝が、二人の顔を見て笑った。
「何か好きな噺はあるかい? もう一席、やってやろうか」
本田と花が、顔を見合わせた。
落語の知識が、二人とも全くなかった。
鈴菌が、酒を片手に割り込んできた。
「圓朝さん、子供相手なら『芝浜』がいいんじゃないか?」
「芝浜? 芝浜……芝浜……それはどんな噺だい? 私はまだ習ってないなあ。どんな内容かわかると思い出すかも知れないねえ」
鈴菌の目が、光った。
「……おいおい、圓朝! 冗談きついぜ。芝浜を知らねえなんて、エンジンの付いてないバイクに乗るようなもんだろ! いいか、芝浜ってのはな」
鈴菌が、前に出た。
「江戸の夜明け、震えるような寒さの中で始まる、最高にイカした夫婦の物語をな。まずツカミだ。幕が開いたら、あんたは『魚勝』っていう、腕はいいけど酒に溺れて商売を放り出してるダメな魚屋になりきるんだ。女房に叩き起こされて、真っ暗な中、渋々仕事に行かされる。この『女房にケツを叩かれて、ブツブツ言いながら表に出る情けなさ』。これが客の心を一気に掴むんだよ」
圓朝が、扇子を持ち直した。
「嫌々行った芝の浜で、あんたは革の財布を拾う。中にはなんと、四十二両の大金だ。狂喜乱舞して家に帰り、仲間を集めて三日三晩、浴びるように酒を飲む。ところが、泥酔して目が覚めると、女房が真顔で言うんだ。『あんた、何寝ぼけてんの? 財布なんてどこにあるのよ。全部夢だよ』ってな」
宴の喧騒が、鈴菌の周りだけ、少し静かになっていた。
「どん底に突き落とされたあんたは、己の愚かさに気づいて酒を断つ。そこから三年、死に物狂いで働いて、自分の店を持つまでになるんだ。そして三年後の大晦日。立派になったあんたに、女房が震える手で、あの時の四十二両を差し出す。実は夢じゃなかったんだ。あんたが横領罪で捕まらねえよう、女房が嘘をついて隠してたんだよ……」
圓朝が、口を半開きにして、鈴菌を見ていた。
「最後の一言は決まってる。女房が勧める祝いの酒を、あんたは一度口に運ぼうとして……こう言って湯呑みを置くんだ」
鈴菌が、静かに言った。
「『よそう。また夢になるといけねえ』」
誰も、声を出さなかった。
圓朝が、扇子を膝に置いた。
「……鈴菌さん、その話……もう少し詳しく聞かせてもらえませんか?」
圓朝が、身を乗り出していた。
本田と花のための次の一席は、こうして消えた。
*
鈴菌と圓朝が、二人で熱く語り始めた。
おモトがアプリにピタリと寄り添っていた。
本田と花は、宴会場を静かに抜け出した。
「鈴菌さんのせいで次の落語が聞けなかったね」
「でも、時そばって噺も面白かったよ」
五月の風が、大須の盛り場を通り抜けた。
*
古びた蕎麦屋の暖簾が、風に揺れていた。
本田が、花に耳打ちした。
「……そうだ、花さん。さっきの圓朝のやり方、完璧に覚えたんで。一文浮かせたら、帰りに飴でも買って帰ろうよ」
鼻の頭を指でこすりながら、自信満々だった。
花が、困ったように眉を下げた。
本田の子供のような瞳に負けて、黙って暖簾をくぐった。
*
店内は、昼下がりの気だるい空気が漂っていた。
近所のご隠居が酒をちびちびやっている。
職人風の男が威勢よく蕎麦をすすっている。
「親父! 二八を一枚、二つ頼むわ。……お、いい割り箸だ。杉の香りが鼻に抜けるねぇ。器もよく磨いてあって、江戸の店にも負けてねえや」
本田が、大げさに店主を褒めちぎった。
「……はあ、そいつはどうも」
店主が、調子のいい若造を怪訝そうに見た。
茹でたての蕎麦が来た。
「ズズッ、ズズズッ!」
本田が、精一杯、江戸っ子を気取って音を立てた。
喉を鳴らして、最後の一本まで平らげた。
いよいよ、勝負の時が来た。
「勘定だ、親父。細かいのでいいかい。……一、二、三、四、五、六、七、八……」
本田が、手のひらに一文銭を一枚ずつ、リズミカルに落とした。
勝ち誇った顔で、店主を見た。
「――親父、今、何時でい?」
店主が、きょとんとした。
「……何時って、兄ちゃん。お天道様がまだあんなに高いじゃねえか。今は『昼八つ』だよ」
本田の動きが、ピタリと止まった。
「……え? 八つ……? 九つじゃないのか?」
花が、隣で静止した。
「……えーと、八つの次だから……七、六、五……あれ?」
本田がパニックになって、逆に数字を減らして数え始めた。
「わはははは!」
それまで静かに蕎麦を食っていた職人が、箸を置いて吹き出した。
「おい兄ちゃん! 落語の真似をするなら、せめて夜まで待たなきゃダメだ。昼間に時そばを仕掛ける奴があるかよ!」
「しかも数字を減らしてどうするんだい、自分が損してるじゃねえか!」
ご隠居が腹を抱えた。
店主もこらえきれずに笑った。
「兄ちゃん、面白れえな。あんまり可愛いもんだから、その引いた一文分、蕎麦湯をたっぷりサービスしてやるよ!」
*
「……っ、もう恥ずかしいよ!」
本田が真っ赤な顔で残りの銭を置いて、花の袖を引っ張って店を飛び出した。
*
「……笑わないでよ、花さん。僕はただ、飴を買ってやりたかっただけなんだからさ」
背後でクスクスと笑い続ける花に、本田が唇を尖らせた。
「ふふっ……昼間に時そばを仕掛ける人、世界で初めてじゃないかな……」
「そんなこと言ったって、不定時法なんて知らないよ! 現代だったら成功してたよ!」
「江戸時代で昼にやったのが全部ダメだったんだよ……ふふっ」
「も、もう!」
花が、笑いすぎて目に涙を浮かべた。
「この事はすぐに春猪ちゃんに手紙書こうっと!」
「書かないで! 絶対書かないで!」
大須の雑踏が、二人の笑い声を飲み込んだ。
五月の風が、失敗した江戸っ子と、笑いが止まらない少女の背中を、優しく通り過ぎていった。
三遊亭 圓朝★★★★★ 「落語界のゴッドファーザー・零号機」
HP: 600
攻撃力: 450
素早さ: 350
知力: 990
特殊スキル:【アンリミテッド・ストーリーテリング(無限の創作)】 まだこの世に存在しない物語(『芝浜』や『文七元結』など)の「種」を、周囲の会話から無意識に吸い上げ、完成させてしまう。鈴菌の失敗談すら、翌日の高座で爆笑ネタに昇華される。
特殊スキル:【死霊の呼び出し(ゴースト・ボイス)】 怪談を演じると、会場のロウソクが本当に消える、あるいは実体のない「何か」を観客に見せてしまうパッシブスキル。
装備品:【真鍮のキセル】 考え事をする時の必須アイテム。これで灰をトントンと叩くリズムが、新しい名作の拍子になる。
弱点:【完璧主義(クリエイターの業)】 「納得がいかない」となると、どんなにウケているネタでも封印してしまう。鈴菌の「適当な整備」が許せず、説教を始めることも。




