エピソードⅡ【荒川陽子】(4)
「銀ちゃん、カウンターのほうへ戻ろうか。陽子ちゃんは、しばらくここで寝かせといてあげよう」
「そうだな」
ゆかりは、押入れからタオルケットを取り出してきて、そっと陽子の身体にかけた。素早く座卓の上を片づけて、座敷の蛍光灯を一番小さくした。
村上とゆかりが店のカウンターに並んで座った。
ゆかりが「陽子ちゃんはしばらくあのままでいいよね?」と小声で尋ねると、「うん」とうなずいてから女将は、「お客さんもいないから、ゆかり、あとはお願い」と店の奥にある自宅へ戻っていった。カウンター内の椅子に腰かけていた大将にも、「裏の小上がりで休んでてちょうだい」と声をかけていった。
村上とゆかりのふたりは、冷酒を飲みながら残りの刺身と握りをつまんだ。
村上がぽつり呟く。
「──結構しんどいな」
「そうよ。見ているだけで辛かった。でも、陽子ちゃんが語っていない事実がある──」
ゆかりが険しい表情になった。
「ん?」
驚くというより恐れに近い表情で、村上がゆかりの横顔を見つめた。ゆかりは、焦点が定まらない視線を上げながら言った。
「自殺しようとしたの──」
村上が瞬間的に抱いた恐れに近い思いが、現実の言葉としてゆかりの口からもれ出ていた。
「桜川に入水したの。コージ君のお葬式が終わったあと、お葬式の日から四、五日経った頃だったかな。コージ君が亡くなってから、陽子ちゃんは、完全に魂のつっかえ棒がなくなっちゃってね。私たちも心配で陽子ちゃんの家を訪ねたりしたんだ。うなだれたままひと言もしゃべろうとしない陽子ちゃんの姿は、見ていて本当に辛かった。それはそうよね。陽子ちゃんの人生のすべてだったコージ君が突然いなくなっちゃったんだもんね。死にたいくらいに悲しくなるのは当たり前よね」
ゆかりも本当に辛そうな表情をした。
「実はね。コージ君が亡くなったのには私たちにも責任があるんだ。だから、そんな陽子ちゃんの姿はどこか、私たちを無意識のうちに責めているようにも見えた」
村上が顔を上げ、どういうことなんだ、という目でゆかりを見る。
「事故の日ね。お盆のあとの土曜日だったんだけど。例によって仲の良いクラスメイト十名くらいで集まっていたの。コージ君もいた。その日、コージ君は陽子ちゃんを帰りに送っていくからって飲まないようにしていたんだけど、コージ君が告白しちゃったのよ。来年の春に陽子ちゃんと結婚するつもりだって。だったら、乾杯だっていう話になって。コージ君も一気飲みなんかやらされながらうれしそうに転げ回っていた。でも、バイクの運転は強引にやめさせるべきだった。事故は飲み会の帰り道だったの。陽子ちゃんを自宅近くで降ろしたあとだった。子猫のような動物を避けようとして対向車線に飛び出ちゃったみたい。運悪く、対向車線にはトラックが走ってきててね。左に急ハンドルを切った途端にバイクが横滑りして、そのまま歩道を突っ切っちゃったみたい。即死だったって……」
ゆかりが、自分を落ち着かせるようにグラスの冷酒をひと口で飲んだ。村上も自分のグラスを飲み干してから、ふたつの空のグラスに冷酒をさした。
「コージ君が亡くなったあとは、陽子ちゃんの頭の中は真っ白だったんだと思う。たぶん、桜川に入水するまではそうだったんだろうね。気がついたら桜川の深瀬に足を踏み入れていたって陽子ちゃんは言ってた。だけど、自然と桜川の流れに身をまかせていたんだって。いつの間にか、仰向けになって川面に浮かんでいたって。満天の星が輝いているのが見えた。とても奇麗だった。コージ君の笑顔みたいだった。それがゆっくりと流れていく。それを自分が見つめている。
陽子ちゃんはすべてわかっていたんじゃないかって思うんだ。自分は生きていかなければならない。それはわかっていたんじゃないかなって。たとえ自分がここで死んでもコージ君と会うことなんてできない。どんなに手を伸ばしても届かない世界へコージ君は行ってしまった。コージ君と一緒にいるためには、自分が生き続けなければならない。コージ君との楽しい思い出を残していくためには、自分が生きていなければならない。それが、コージ君と生きていくたったひとつの残された道なんだって。だから、だからね……陽子ちゃんが桜川に入っていったのは、コージ君に対する陽子ちゃんのぎりぎりのサヨナラだったんじゃないかって思うんだ……」
ゆかりの頬を一筋の涙がこぼれ落ちた。村上も、自分のまなじりの涙をそっとぬぐった。
「陽子ちゃんは、桜川の下流へ二キロほど流された地点で次の日の早朝に発見された。不思議と、身体は寒くも冷たくもなかったって。もっと不思議だったのは、真夏だっていうのに、その辺り一面にスミレの花が咲いていたんだって。笑って言ってたよ。『コージからのプレゼントなのかな』って。『俺がいつでも見せてやるって言っているのかな』って。覚えてる? スミレの花言葉──」
「小さな愛──か。辺り一面に咲いた小さな愛」
村上がひとつため息をもらしてから言った。
「──そう。それとね。私が陽子ちゃんをぶっちゃった一件」
「陽子が言ってたヤバイパンチってやつ? 頬の骨がどうのこうのって話してたな」
「そうそう、それ。陽子ちゃんが自殺しようとしたあとね。それを聞かされた私はいてもたってもいられなくって、陽子ちゃんの家へすっ飛んでいった──」
『チキショー』と口走りながら、ゆかりが愛車に乗り込みエンジンをかけた。ニュートラルのギアの状態で、二回、三回とアクセルを思い切り踏み込んだ。マニュアル車だ。マフラーは火を吹き出しそうな勢いで振動している。車は、さながら狙いをつけた獲物に突進する寸前の猛獣の様相だ。サイドブレーキを下げると同時にギアをローに入れた。怒りにまかせて、セカンド、サード、トップへとギアをチェンジしていく。アクセルは踏み切ったままだ。路面を軋るタイヤの音が響き渡った。トップスピードまで車が一気に加速した。マフラーからは、火の粉がほとばしった。
桜川の側道を、「雅寿司」の軽が突っ走っていく。
「──でもね、車をぶっ飛ばしながら、なんで自分がこんなにがむしゃらになってんだろうって思ったの。陽子ちゃんを妹のように可愛く思っていたから? それもあったけど、でもちがう。私は、コージ君に惹かれていたんだと思う。純粋でシャイなコージ君に。いつだったか、私が飲み会の席で『コージ君ってジェームズ・ディーンにちょっと似てるよね。外見というより雰囲気がさ。エデンの東のジェームズ・ディーン』って何気なく言ったら、『何がエデンの東だよ。オデンの東みたいな顔してよ』って男の子たちに絡まれてね。無邪気にじゃれ合っているコージ君の笑顔がとても素敵だった。だからなんだと思う。そんなコージ君が本気で好きになった女の子が死を選ぼうとした。それがただ許せなかったのね。陽子ちゃんを車に押し込んでからは、ひと言も口をきかずに、桜川の川辺へやってきた」
ゆかりの本心の吐露に戸惑いながら村上が訊いた。
「そこって、陽子が入水したところ? それって、直球すぎねえか」
「まあ、よくよく考えればね。でも、そこは、陽子ちゃんがプロポーズされた場所でもあるんだよ」
「ふーん。なるほどね。そこに立ち戻るしかなかったというわけか」
「まあ、そんなところかな。あまり意識してはいなかったけど……。私は陽子ちゃんのその時の本当の気持ちなんてわかんなかったし、コージ君を事故に追い込んでしまった責任みたいなのを感じていたのも事実だったから、陽子ちゃんを叱咤激励しようと思っていただけなんだけど」
「思っていただけなんだけど、ぶっちゃった?」
「『あんたには関係ねえだろーよ』って陽子ちゃんが言い放ったもんだから、私も、かあって頭に血が上っちゃって、気がついたら殴ってた」
「気がついたら殴ってたって、それじゃヤンキーと変わんねえじゃねえかよ。──まあ、それはいいとして、で、ぴしゃ、とやっちまったっていうわけだ」
「まあね。でも、ぴしゃ、ではなかったかな」
「じゃ、ぱちんか?」
「ぱちん、でもなかったな」
「じゃ、なんだよ?」
「ゴギッ、かな」
「ゴギッ。なんだそりゃ。──おまえまさか。平手でぶったんじゃねーのかよー?」
「ちがうよ。グーで殴ってた。無意識のうちにだよ、無意識のうちに。グーで人の顔面殴った経験なんてなかったから、拳を円盤投げの要領でぶん回したら、陽子ちゃんの頬に当たってた」
「──それじゃ痛いに決まっているだろうーが」
「うん。それはもう。中指のここの骨にひびでも入ったように痛かった」
左手の人差し指で右手拳の中指の付け根あたりを指している。「ここよ、ここ」と右手拳のそのあたりを左手の人差し指で示しながら、ごりごりと村上の顔面に押しつけてくる。「ここが、ものすごーく痛かった!」
村上が大げさに嘆息をつく。村上の頭の中には、クルクル丸まった鉛筆の線が描かれていた。
「ばかやろー。そこじゃねえだろーよ! ここだろう、ここ」
と村上が左手の人差し指で自分の左頬を指す。
「痛いのは、陽子のここだろーが。このアホが──」
「誰がアホなんだよ。このどアホが──」
しばらくふたりは、両腕でチャンバラのようなマネをしていた。ゆかりが先に疲れてきた。
「銀ちゃん、知ってる?」
真顔に戻って訊いてくる。
「何をだよ!」
それだけの質問でわかるはずがない。
「陽子ちゃんね、コージ君の月命日の十九日には、欠かさず事故現場に花を手向けているんだよ。スミレがない季節はできるだけ紫色の花をね」
「そっか。陽子にとってパープルは、コージ君との結びつきの証なんだな」
「うん。それを十年間続けるって。純真だったから、負った心の傷も深かったんだろうね」
「十年間か?」
「十年間はコージ君と生きていくって。そのあとはコージ君とも本当にさようなら。コージ君とは別に生きていく。年に一度の命日には忘れずに行くけどね。まあ、今の気持ちが変わらなければの話だけどね、って笑ってたけど」
「十年経ってもまだ二十代だからな。それからでもいろんな人生を選択できるだろうな」
「そうね。今月やっと二十歳になったばっかりだもんね。まだまだ若いんだよ。だからね、銀ちゃん。しばらくは、しっかり陽子ちゃんを守ってあげてね」
そう言うと間髪を入れずに、
「頼むぜ、一の子分の銀太!」
声を大きくしてゆかりが村上の肩を叩いた。




