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エピソードⅡ【荒川陽子】(5)

「あたしは、保険のおばちゃんじゃない!」

 二十六年の時間が流れた。陽子も四十五歳になった。陽子が、何やら窓口のほうでダダをこねている。

 還暦目前の渡辺業務役が陽子をなだめている。渡辺は、五十五歳になって支店長代理から業務役へ職位が下がったが、窓口と預金、為替を所管する業務係の主任なのは変わらない。変わったのは給与の額だけだ。

「陽子ちゃん、そう言わないでさ。時代が変わったんだから。保険や証券の預かり資産をどんどん売らなきゃ銀行も収益が確保できなくなっているんだから。窓口の締上(しめあ)げが終わったんなら、店周(てんしゅう)地区をセールスして回ってきてよ。愛車のママチャリでさ」

 頼むよ、と手を合わせる渡辺をチラリと陽子が見る。渡辺の顔色をうかがっている様子だ。

「それでも、あたしは、保険のおばちゃんではない……」

 声の勢いは落ちているが、まだダダをこねる。渡辺としても機嫌(きげん)ばかりを取っているわけにはいかない。

「陽子ちゃん、ちがうのはどっち。保険のほう? おばちゃんのほう?」

「ん?」

 一瞬の間があってから陽子が答えた。

「──チキショウ、おばちゃんのほうよ!」

「それでは、『保険のお姉さま』よろしくお願いいたします」


 陽子が、今度は営業室最後方の席に座っている村上を睨んできた。自分が睨まれても困る。恨むのなら、指示を出してくる営業本部を恨んでほしい。

 脳出血が治って職場復帰した陽子を、「俺が泉が森支店長でいるあいだは他店に転勤させない」人事部の了承まで取りつけている。いくら長いつき合いとはいえ、陽子だけを特別扱いにはできない。

 陽子が鋭い眼光を飛ばして営業室を出ていった。


 一時間後、陽子が店周営業から戻ってきた。鼻歌交じりの軽やかな足取りだ。

 突然に進行方向を変えて村上の席へ向かってきた。ドスンと村上の机の上に営業鞄(かばん)を置く。鞄の中から書類を取り出し、村上の顔の前でヒラヒラさせている。

「見えるかな? 銀ちゃん」

 ヒラヒラしていて中身が見えない。

「個人年金保険の契約書だよ。五千万円。箱崎の院長先生から契約をぶん取ってきたぜ! 陽子お姉さまがちょっと本気を出せば、こんなんちょろいもんよ」 

 どうよ、と顔をせり出してくる。

 契約をぶん取ってきたという表現はさておき、五千万円の保険契約はありがたい。支店長としては、「ご苦労様です」と素直に頭を下げるしかない。箱崎院長先生には、前々から約束を取りつけてあったのだろうが。

 渡辺業務役にも、「なべ、どうだ!」と得意満面だ。周りの行員にも嫌みな表情は見られない。ニヤニヤしながら陽子を見ている。

 陽子は泉が森支店の一部になっているのだろう。泉が森支店の主と言ってもよい。陽子は、泉が森支店に守られてここまでやってきたのかもしれない。


 陽子は心に決めていたとおり、十年間、月命日に紫色の花を事故現場に供え続けた。今は、毎年八月十九日の事故の時間に合わせて、その場をそっと訪れているようだった。

 供えられている花々のことは、事故の話とともにいつしか人々の口ぐちに伝わり、近所の住民や近隣の小学校の子供たちが、プランターに四季折々の花々を植えるようになっていった。

 事故から七、八年が経った頃、花岡市が主体となって歩道に花壇が作られた。道の両側に百メートルほど続く花壇の帯だった。そこは、誰が名づけるともなく、いつしか『スミレ通り』と呼ばれるようになっていった。


 トンネルの南側の出入り口に近かった事故の現場は、緩やかなカーブの途中にあり、以前から事故が多い場所だった。

 トンネルの南端から最初の信号までの約三百メートル『スミレ通り』には、今日も季節の花々が彩(いろど)りを添えている。悲しい過去を秘めながらも、けな気に小さな花びらを咲かせている。


 事故以来まもなく二十八年になる。その長い時間のなかで、軽微な接触を含めて、スミレ通りでは、一度も交通事故は発生していないのだという。

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