↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/9

エピソードⅡ【荒川陽子】(3)

 ふた月という短い期間でも、椅子をくっつけて一緒に仕事をしていると、不思議と情愛もわいてくる。

 五月三十一日になった。二か月ずつのローテーションの後方事務研修も、流動性預金の最終日となっていた。明日からは定期性預金のOJTだ。

 二時間半の残業に及んだ月末の業務もほぼ収束していた。陽子が話しかけてきた。


「明日からは、金井(かない)のおばちゃんのところだな」

 金井のおばちゃんとは定期性預金係の女子行員だ。おばちゃんといってもまだ二十九歳だ。

 当時の女子行員は、結婚すれば銀行を辞(や)めるのが暗黙のルールになっていた。ほとんどの女子行員が二十代半ばには結婚して銀行を辞めていた。三十以上の女子行員は極端に少なかった。三十歳目前になればおばちゃんと呼ばれてもしかたがなかった。結婚したら辞めるのが当然というのは、女性蔑視以外の何物でもない。社会のあちこちに、いまだ幼稚性が残されていた時代だった。

「おまえ、今日時間あるか?」

 陽子が訊いてきた。

「……ありますけど」

 村上が質問の趣旨をつかみきれずに答えると、

「じゃ、おまえの送別会やってやるよ。おまえは、あたしの最初の部下だからよ」

 部下という言葉が、どこか子分という言葉に聞こえた。

「はー、どうも」


 銀行を出て、村上は陽子の後ろをついていった。その手のヤンキーがたむろするような場所なのだろうか。そんな不安をちらちら感じながら歩いていくと、陽子が入ったのは雅寿司だった。

 村上が雅寿司に入るのはそれが初めてだった。昔から雅寿司は知っている。自分が育った町にある寿司屋だから知っているのは当たり前だが、同級生の実家なのだ。大崎(おおさき)ゆかりの実家だった。

 大崎ゆかりは、小学校の二年と六年、中学校の二年と三年のときに同じクラスだった。とくだん何かがあった間柄ではないが、村上としては少々苦手だった。妙になれなれしく接近してくるのだ。


 陽子が引き戸を開けてのれんをくぐって店へ入ると、「いらっしゃい」と声をかけてきた女将が一瞬息をのんだ。女将はゆかりの母親だった。高校生のような女子のケバい化粧顔を警戒したのだろう。

 そのあとに続いて入ってきた村上を見て、瞬時に顔の表情を緩めた。

「あら、銀ちゃんじゃないの。いらっしゃい──」

 村上は優等生だった。ゆかりが同級だった中学時代は、村上が学級委員長を継続して務めていた。保護者のあいだでもそれなりに有名な生徒だった。ゆかりの母親も村上を知っていた。

「こんにちは」

 村上が返すと、

「そうだったわね。銀ちゃんは今年A銀行に就職したんだったわね。おめでとう。最初の支店が地元の泉が森でよかったわね」

 戸惑(とまど)ったまま立ちすくんでいる陽子を見て、女将はふたりをカウンター席へ誘導した。

「銀ちゃんの彼女、じゃないわよね?」

「ちがいます」

 村上が否定した。

「銀行の方、でもないわよね?」

「いや、そう」

 村上が肯定した。

 女将は無言のまま目を見張るようにして驚いたが、すぐに商売笑顔に戻って、

「飲み物は何にします?」

 と注文を聞いてきた。

「おまえ、生ビールでいいか?」

 陽子の問いかけに村上が「はい」とうなずくと、それを女将にダイレクトパスするように、陽子が「生ふたつ」と注文した。女将はまた目を見張るようにして、ぎこちない「はい」で受けていた。


「あっ、そうそう。ゆかりがちょうど帰ってきているのよ。ゆかりは銀ちゃんのように優秀じゃないから、アホな大学のくせにまだ卒業できてないの。今年一年留年ですって。まったく、誰のお金で大学に行かせてもらっているかわかっているのかしらね」

 そう愚痴(ぐち)をこぼすと、腰を横にくの字に折って、階段の下から二階へ向かって大声でゆかりを呼んだ。

「ゆかり! 銀ちゃんが来てるわよ!」

 村上がギクッ、とするのとほぼ同時に、ゆかりがけたたましく階段を駆け下りてきた。のれんを手で上げて店内をのぞく。

「銀ちゃん、しばらくぶり!」

 次の瞬間、ゆかりの視線は村上の脇に座っている陽子に向けられた。

「あら、陽子ちゃんじゃないの?」

「うっす」

 陽子がちょっと照れ笑いを浮かべながらうなずいた。

 ゆかりの知り合いだったの? という視線を女将がゆかりに寄こす。

「お母さん、この子だよ、前に話していた荒川陽子ちゃん。コージ君の──」

 それで、女将は察したようだった。

「あー、あの子」

 何かを考えるような間を置いてから、女将は陽子に視線を向けた。

「──本当に大変だったわね。もう大丈夫?」

「うす」

 陽子が答えた。それは、「はい」でも「いいえ」でもないような返事だった。

「それだったら、ゆかり、奥の座敷で話したら。そのほうがゆっくりできるでしょう。従業員がカウンターで堂々と飲んでいるっていうのもね」

 銀ちゃんともゆっくり話したいんでしょう、と女将が目線で探ってくる。

「そうね。そうしよっか?」

 村上も陽子も異論はなかった。


 奥の座敷は八畳の個室で、床(とこ)の間もあって落ち着いた雰囲気だった。

「従業員って、ここで働いているのか?」

 座敷に腰を下ろした村上がゆかりに訊く。床の間を背に村上が座り、座卓をはさんだ向かい側に陽子とゆかりが座った。

「バイトよ、バイト。まあ暇つぶし半分ね。ほら、若い女がいるかいないかで、店の感じもずいぶん変わるじゃない。帰省したときにちょこちょこバイトしているわけ。結構、私目当てのお客さんとかもいるのよ。私がお店に出る日なんかを事前に探ってきたりするみたい。現役女子大生の威力よね」

「バイト料とか貰(もら)っているのかよ?」

 村上が流れに乗って訊く。

「当然! 時給二千円」

「二千円?」

 村上が驚愕(きょうがく)の声を上げ、陽子と顔を見合わせた。

「それって、ほとんどぼったくりじゃねえかよ?」

「何がぼったくりよ。人聞きが悪い。正当な労働の対価よ!」

「どこが正当な労働の対価なんだよ。バイトの正当な対価ったら、せいぜい時給千円だろうーが。二千円ったら、その倍だぜ」

「だから、そこは現役女子大生の威力だって言ったでしょ。それに、夜の時間のウエイトレスさん雇ったら、時給二千円じゃ済まないかもしれないよ」

「それはあれだよ。ウエイトレスじゃなくって、ホステス的な接待もするからだろー」

「何よ、ホステス的な接待って? ここは寿司屋よ。ホステス的な接待も何もないじゃない。なに、なに、なに、なに、銀ちゃん。銀ちゃんとしては、そういう接待がお望みなわけ。なに、私にミニスカドレス着てこいっていうの。いやらしいー。わかりましたよ。よーくわかりましたよ。それじゃ今から、ミニスカドレスに着替えて参りましょうか?」

「わかった。わかった。俺が悪かった」

 村上には、なぜ自分が謝っているのかがわからない。話の流れがいつの間にかおかしくなっている。だからゆかりは苦手なんだ。昔っからそうだ。こういう勢いで一方的にどんどん迫ってきやがる。

 そんなふたりのやり取りを目の前にしながら、陽子がニヤニヤしていた。

「おまえら、出来てんのか?」

「ま、さ、かー」

 ふたりの息がピッタリ合った三文字の返答があった。


 女将が生ビールとつけ出しを運んできた。

「陽子ちゃんは未成年じゃないわよね?」

 女将の質問に、

「今月二十歳(はたち)になった」

 陽子が答えた。

「陽子は、今月成人になったんだ──」

 村上の陽子の呼称から、微妙に「さん」が消えていた。

「それじゃ、盛大にお祝いだ」

 ジョッキがカチッと合わさる音が、「乾ぱーい!」の声にかき消された。


「陽子ちゃんがA銀行に就職したのは知っていたけど、そこに銀ちゃんが入ってくるとはね。三人でこんなふうにしているのがとっても不思議。陽子ちゃん、仕事のほうはどう?」

 ゆかりが尋ねた。

「肩が凝ってしょうがない。あたしの場合、無理やりコネで入れてもらった口だから文句は言えないけどよ」

 陽子が肩を回しながら答えた。

「就職先としては問題ないんでしょうけど……。陽子ちゃん大丈夫かなって心配はしていたんだ。まあ、一番大変なときが就活の時期だったからね。ほかに選択肢はなかったのかもしれないけど」

 ゆかりの言葉に陽子がわずかに目を伏せた。大変な時期とは、コージという彼の事故と関係があるのだろう、と村上は察した。

 それでも、気丈に陽子がゆかりに言葉を返してきた。

「銀行はあたしにとって真逆の世界だけどさ。でも、なんとかやっていけると思う。というより、やっていかなきゃなんないしさ。それに、可愛(かわい)い子分もできたしよ」

 陽子が座卓ごしに、村上の顔に向かって人差し指を突き立てた。

「子分?」

 ゆかりが、ぷっと吹き出す。

「銀ちゃんが陽子ちゃんの子分なの?」

「なっ?」

 陽子が今度は口だけを村上に突きだして言う。

「やっぱり俺は子分なのかよ」

 口を半開きにして、村上が額に手のひらを当てるボーズを取った。


「それよりさ、ゆかりと陽子が知り合いだったほうが驚きだよ」

 そう言って、いつの間にか運ばれていた刺身の盛り合わせから、村上はカツオを一切れ口にした。刺身の盛り合わせと一緒に、日本酒の熱燗も運ばれていた。それを、村上が三人のおちょこに注いでいく。

「私と陽子ちゃんは同じ高校なの。同じ高校とはいっても、陽子ちゃんが入学してきた年に私は卒業していたから、同じ時期に高校に通っていたわけではないんだけど」

 ゆかりは陽子の顔をうかがった。銀ちゃんには話してもいいよね、と確認しているようだった。陽子は拒否しなかった。

「……実は、高校の私のクラスメイトにコージ君がいてね。私と同級生だから、銀ちゃんとも高校は別だけど同級生になるね。コージ君の彼女が陽子ちゃんだったの。私たちのクラスは結構仲良くてさ。高校を卒業してからも、お盆や正月にクラス会とかやっててね。そこにコージ君が陽子ちゃんを連れてきたりしてた。コージ君は見せびらかしたかったのよ。可愛い彼女をね。本当に可愛らしかったよ。まるで生後数か月の子猫のようだった。いつもビクビク震えているような感じなんだけど、コージ君のバイクの後ろで腕を回しているときなんかは、とっても安心してうれしそうな表情をしてた。コージ君はいつもバイクで移動していたからね」

 そこで少しの間を空けてから、ゆかりは陽子に話を振った。

「陽子ちゃんがコージ君と知り合ったのは、陽子ちゃんが高校一年のときなんだっけ?」

「うん。高校一年の夏休みの終わりの頃」

「そういえば、コージ君とはどこで知り合ったの?」

 ゆかりの質問にやや戸惑いを見せた陽子だったが、やがて楽しかった思い出を手ぐり寄せるように話しだした。

「……その頃、何をやるにも楽しくなくてさ。家では両親がしょっちゅうけんかしてるし。学校もなんかつまんないし。仲のいい友だちもできなかったしね。とくにイジメを受けてたわけじゃないんだけど、クラス全体からちょっとはぶかれているような雰囲気もあってさ。あたし、友だちづき合いも器用なほうじゃないから。あーあ、夏休みが終わる、また学校が始まるって思ったら気が重くってさ。親がけんかばっかりしている家にも帰りたくなかったから、ひとりでゲーセンなんかを遅くまでうろついたりしてたんだ。女子ひとりじゃ危ないっていうのはわかっていたけど、別に何かあってもいいやって思ってた。グレてやろうかな、なんて簡単に考えていたのかもしれない。でも、不良グループの男たち四、五人に囲まれたときには、本当に恐かった。危なっかしいことをしていた自分をとっさに反省したよ。ただ、そんなことを考えている余裕なんかもなくなった。ゲーセンの外に連れ出されて車に乗せられようとしたんだ。そこへ、コージがバイクで通りかかってくれた」

「来たね。ヒーロー登場ってやつだ」

 ゆかりが合いの手を入れる。全部吐き出しちゃったほうがいいよ、と陽子を促しているように村上には思えた。


 陽子が続けた。

「本当に、映画かドラマのワンシーンのようだったよ。ピンチの場面で、ここしかないタイミングで登場するヒーロー。コージはバイク仲間とブラックサンっていうグループを結成しててね。グループでよく走ってたんだ。サンは太陽っていう意味ね。黒い太陽なんていかにも暴走族って感じだけど、コージたちは暴走族とはちがう。クラクションを鳴らしまくったり、旗を振り回したり、ジグザグ走行をくり返したりとか、他人に迷惑をかける走り方はしない。単純にバイクの走りを楽しむだけ。だから、単なるライダーなんだけど、世間はそう見てくれない。あたしも、ブラックサンっていう名前は聞いてたけど、てっきり暴走族のグループかと勘ちがいしてた。リーダーがコージというのも知らなかった。逆にコージのほうはあたしを知っていてね。走っているときに何度か見かけたことがあったらしくて、危なっかしい子がいるなって思ってたんだって。狭い町だからね。何かと目についちゃうんだろうね。制服も自分の高校のものだから、ひとりの先輩として心配してくれていたのかもしれない。ゲーセンの外でからまれているあたしを見かけると、一直線に向かってきてくれた。本当にヒーローのように思えた。よく考えれば、目の前のやつらの仲間だったのかもしれないのにさ──」

「そこで、コージ君は相手を一網(いちもう)打尽(だじん)にしたってわけ?」

 ゆかりがパンチをくり出しながら愉快に訊いてくる。ゆかりも、事のなりゆきをある程度予想できたのか、心配顔ではない。


 村上は、ついさっき女将が持ってきてくれた寿司の握りを二つ、三つ口に放り込みながら聞いていた。おまえたちも食ったら、というように寿司桶(おけ)をちょっとつつく。もう片方の手でふたりに熱燗を注いでいると、「冷酒のほうがいいな」などとゆかりが村上に呟いてくる。「なんで俺が」という気持ちはぐっと飲み込んで、村上は和室を出て女将から冷酒を受け取ってきた。冷酒用のグラスを満たしてふたりの前に差し出す。

 それを待っていた陽子がグラスを一息に飲み干した。陽子の思い出が、頂点に向かってふたたび進んでいく。

「──取っ組み合いのけんかにはならなかった。さすがに、相手が四、五人では勝ち目はないよ。コージが先制パンチを食らわしたんだ。一番先頭の男の顎に一発パンチを入れると、逃げるぞ! と言ってあたしの手を思いっきり引っ張って、バイクの後ろに乗っけたんだ。あとは逃げるだけ。そりゃ、逃げ足はコージのバイクのほうが速いよ。車より小回りも利くしね。花岡南警察署までぶっ飛ばして逃げたよ。あたしは、コージの身体をしっかりと抱きしめていた。だんだんとコージの温もりが伝わってくるような気がした。この時間がずっと続いてくれればいいなんて思ってた。わかっていたんだ。コージはあたしの味方なんだって」

「そっか。やっぱり、コージ君は、陽子ちゃんにとっての本当のヒーローだったんだね」

 ゆかりのやさし気な眼差しに、陽子は黙って小さくうなずいた。陽子は少女のように純真なのだと村上は思った。


「それからあたしたちはつき合い始めた。ふたりでいろんな所へ行った。東京の夜景を見に行った。横浜に行った。中華街でチャーシュー麺を食べた。バイクだから渋滞なんて関係ない。どこへもスイスイ行けた。あたしにはどこを走っているのかさっぱりわからなかったけど、光のトンネルを走り続けているみたいだった。お腹がすくとコンビニに寄った。人であふれ返った街の片隅(かたすみ)の喫茶コーナーのあるコンビニが、あたしたちのレストランだった。ふたりともお金がなかった。コージとあたしのバイト代は、バイクの維持費とかガソリン代に消えた。海へも行ったし、山にも行った。でも、本当はどこでもよかったんだ。コージがいれば、どこへ行っても楽しかったし、何を食べてもおいしかった。時間はあっという間に過ぎていった。あたしは高校三年になっていた」

「高校三年生って──?」

 思わずゆかりが言葉をはさんだ。そのあわてぶりに村上も悟った。その年に、コージという陽子の彼氏、いや、婚約者──陽子ははっきりとそう口にした──が事故で亡くなったんだ。


「あたしが高校三年生になった春のある日、コージは言ってくれたんだ。『俺はもう二十歳になった。ブラックサンからも離れた。自動車整備士の国家試験に合格すれば、落合(おちあい)社長の整備工場に正社員として雇ってもらえることになっている』そんなの何も聞いてなかったから、あたしは、えっ、としか言えなくて。そのあとに、『陽子が来年高校を卒業したらオレたち結婚しよう』って言ってくれたんだ。あたし本当にうれしかった。コージを心から好きだったし、もう、ひとりになることもないんだって。涙がこぼれそうになった。その時、コージの顔が影になってあたしの顔に覆(おお)いかぶさってきて、あたしは目を閉じた。短い、でも、長いような時間が流れて、あたしたちは唇を重ねた。あれが、あたしたちにとっての結婚の誓いのキスだったんだ。あの場所だよ、ゆかりさん。あの場所。桜川の土手沿いのコージが気に入っていた場所。あたしたちは春の陽ざしを全身に浴びながら、その土手で並んで寝ころんでいた。桜の花はみんな散っていたけど、スミレが紫色の花びらを辺り一面に咲かせていた。スミレの花びらのひとつをコージが摘(つま)んで、あたしの耳の後ろに差してくれた。『陽子はスミレみたいだな』なんて言ったと思ったら、『スミレの花言葉知ってるか?』って訊いてくるんだよ。ガラにもなくね。あたしが首を振ると、カッコつけて『小さな愛』なんて言ってきてさ。ぜんぶ事前にいろいろ考えてきたセリフなんだろうけど。あたし、ぷって吹き出しちゃったけど、コージが顔を近づけてきたと思ったら、またキスをしていた……」

 ゆかりも村上も黙って聞いていた。陽子の言葉が途切れたのに合わせて、ゆかりがぼそっと言葉を吐いた。

「コージ君と陽子ちゃんは結婚の約束までしてたんだよね……」

「だけど、あたしを残して死んじゃった……」

 村上は冷酒を陽子のグラスに注いだ。続けて、ゆかりのグラスに注いだ。村上には、それが今日の自分の役割のように思えた。


 陽子も酔いが回っているのだろう。虚(うつ)ろな瞳になってきていた。座卓の端には、空の熱燗の徳利と冷酒の空き瓶(びん)が寝かせてあった。

 急にうとうとし始めた陽子が、座卓に顔を伏せながら呟いた。

「でも、あのゆかりさんのパンチはヤバかったな。頬の骨にひびが入ったんじゃないかって思ったよ。本当に痛かった……」

 陽子はそのまま寝入ってしまった。

 陽子が、コージとの思い出をここまで話すのも珍しいのだろう。ずっと自分の心の中に秘めていた想(おも)い。それを素直に吐き出せて、いまだに残る悲しみをいくらかでも紛(まぎ)らわせられたのかもしれない。

 陽子は、村上とゆかりの目の前で、穏やかな寝顔を見せていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。