エピソードⅡ【荒川陽子】(2)
時間は二十六年さかのぼる。
村上は二十二歳、陽子は十九歳だった。村上がA銀行に就職した年だ。
村上は泉が森支店に配属となった。すでに泉が森支店に勤務していた陽子は、入行二年目だった。陽子は高校卒業と同時にA銀行に就職していた。年齢的には村上が三歳上だが、銀行では陽子が一年先輩だった。
男性の新入行員は、後方事務研修と称して、流動性預金、定期性預金、為替の三つの係を二か月ずつのローテーションで回された。コンピューター端末機のオペレーションや伝票処理を実地に体験する。OJTだ。そのあとに、得意先係か融資係に正式に配属される。入行後の半年間は猶予期間だった。
指導に当たる女子行員としては、忙しいなかで一から教えなければならない。時には、銀行のイロハから説明しなければならない。女子行員の性格にもよるし、女子行員が独身か否かにもよるが、手間と忍耐が必要な男性新入行員の指導は、余計な仕事だった。五十日や月末などの繁忙日は、新入行員の指導などまったく無視して、目の前の事務処理に没頭していた。
村上の最初の指導員が陽子だった。
後方事務は端末オペレーションを含めても、しょせん単純作業のくり返しだから、一年間携わっていれば立派な熟練者だ。陽子もそつなく仕事をこなしていた。どちらかといえば仕事はできるほうだった。村上に対する指導も、とくに不親切ではなかった。
陽子には問題があった。その風貌というか化粧だ。ケバイのだ。夜の仕事の女をそのままの姿で銀行の営業室で見たとしても、これほどのケバさはないだろう。週に三度は来店するあのクリニックの六十五歳の院長夫人でさえ比較の対象にならないほどだ。十九歳という若さにもかかわらずだ。顔だちは悪いほうではない。どちらかといえば美人の類いだ。
頬からは白い粉が浮き上がっていた。塗りたくっているのだろう。アイシャドウにつけまつげにピアス。そんなの誰もしていなかった。髪の毛がショートなのは救いだったとしても、必ずどこかに紫が入っている。本人としては抑えているつもりでも、見る者には強烈な印象を押しつけてくる。今日は、両耳の上に鳥の羽のように入っている。アイシャドウのパープルと一本のラインになっている。どこかの原住民の祭礼時のメイクのようだ。
村上は非常に不思議だった。どうして誰も、少なくとも上席者が注意しないのだろう。一年が経ってだいぶ落ち着いてきている、と周りは言うばかりだ。どこかしら、陽子を擁護しているようでもあった。
入行当時は、支店の誰もが自分の目を疑ったという。
酒の席ではすでに語り草になっていた。本店で開催された四月一日の入行式には、まったく普通の高卒女子として出席したらしい。翌日の泉が森支店への出勤初日だ。頭全体がパープルだった。これには支店長も腰を抜かしたようで、陽子の泉が森支店の出勤初日は、頭のパープルを落とす仕事から始まった。
翌日もパープルは消えなかった。頭全体がうっすらとパープルだった。それでも、そうなると初日の印象だけが鮮烈に残る結果となって、陽子も反省しているのだろうなどとかばう者まで出るしまつだった。絶対的な水準からすれば、二日目のパープルも相当なパープルなのにもかかわらずだ。陽子でなければ、気がふれたのではないかと思われる水準だ。
人の印象というのは相対的だ。昨日よりはましだから今日は良い。厳寒の真冬でも、最低気温が昨日のマイナス五度からマイナス一度に上昇していれば、今日は暖かい日だと認識する。そんなものだ。
一年間で陽子の化粧のケバさも落ち着いてはきた。髪の毛のパープルも、頭全体からワンポイントへと変わっていた。歳末助け合い募金の赤い羽根程度の大きさで、髪の毛全体にうまく隠されたりしているが、それでも、村上の目を見張らせるにはじゅうぶんだった。それをとがめる行員がいない。時代もまだ、そういう緩さを持っていたのだろうか。
外見だけではない。話しぶりも異様だった。女子らしくない。かといって男っぽいわけでもない。まあ、女と男のどちらに近いか、と問われれば、男だと言えるかもしれないが、あえて女を遠ざけようとしているふうにも見える。要は、女でもない男でもない。中性なのだ。外見的なケバさにはそぐわない。女の極致のような外見とのあいだで、うまくバランスを取っているのかもしれない。村上は勝手にそう推測などしていた。
村上が陽子の指導を受け始めて二週間が経った頃だ。あまり私語を交わさない陽子が、突然話しかけてきた。
「おまえ、銀太っていう名前なのか?」
「……あ、はい」
「カッコいい名前じゃんか」
「ありがとうございます」
「でもな、あれだよな。やっぱり金のほうがいいよな」
「銀メダルより金メダルですか?」
「アホか。男はやっぱり金だっていう話だよ」
端末オペレーションをしたまま村上に話しかけてきた。午後三時の閉店時刻も迫り、時間を気にして駆け込んできた顧客で、店頭もやや混雑していた。陽子の顔は端末の画面に向けられたままだった。はじめは画面に話しかけているのかと思った。
冗談を言っている感じではない。おどけた調子でもない。もともと陽子はおしゃべりではない。どちらかというと寡黙だ。もしかしたら、ずっと村上との会話の糸口を探っていたのかもしれない。陽子は、はにかんだような笑みを浮かべていた。陽子はシャイなのだと、その時村上は思った。
大人か子供かわからないような年齢で社会へ飛び込んできた。銀行という世界は、それまで自分が生きてきた場所とは、あまりにもかけ離れた場所だったろう。化粧のケバさや、およそ女子には似つかわしくない言葉遣いは、自分が本来いるべき場所と自分が今現実にいる場所とのギャップに、必死になって抵抗している姿なのではないか。
ヤンキーのようなやんちゃをしていたかもしれない。そういう人間がなぜ、社会的体裁を第一に考える銀行という企業に就職したのか。陽子の心の奥底には、簡単には踏み込めない闇が広がっているようにも思えた。
気がつけば、午後三時の閉店時刻になっていた。ゴン、ゴンと古ぼけた音を立てながら店舗すべてのシャッターが閉まりだしていた。来店客もあと二、三人を残すだけになっていた。営業室から外の喧噪が消えようとしていた。
シャッターが閉まり切るのを待っていたように、陽子が自然な感じでふたたび口を開いてきた。村上を自分の側の人間だと判断したような口ぶりだった。
「銀ちゃんもカッコよかったな。知ってっか? 銀ちゃん」
「銀ちゃん?」
「蒲田行進曲だよ。蒲田行進曲の銀ちゃんだよ。おまえ、映画観てねえーのかよ?」
「あー、蒲田行進曲の映画なら観ました。あの主役の銀ちゃんね。風間杜夫が演じたやつですよね」
「役者の名前なんかいちいち知らねえけどよ、あの銀ちゃん、カッコよかったな。寂しがりやのくせにいつも威勢ばっかりつけやがってよ。でも、優しいんだよな。まったくコージみたいだったぜ」
「コージ? 陽子さんの彼氏ですか?」
「あー、婚約者だった」
「婚約者? だった?」
「あー、バイクで事故って死んじまった」
村上は絶句した。この会話をどのような言葉でつなぐことができただろう。
陽子にはコージという彼氏がいて婚約までしていた。その婚約者が交通事故で亡くなってしまった。高校時代の出来事だろう。コージがどのような男性だったかはわからないが、陽子が本当に好きだったのは、短い会話からでもじゅうぶんにうかがい知れた。ふたりで人生をともに歩いていく約束を交わしていた。その道が突然に遮断された。少女はどれほどの悲しみを背負うことになったのだろう。
陽子は固く口を結ぶようにしてコンピューター端末の画面に向かっていた。村上の沈黙が、陽子を過去の悲しみの淵へと突き返してしまったのかもしれない。瞳には、涙がにじんでいるようにも見えた。
そのあとふたりは言葉を交わさなかった。




