エピソードⅡ【荒川陽子】(1)
「支店長、大変です!」
始業前の時間だった。副支店長の森山が、血相を変えて営業室へ飛び込んできた。
「荒川さんが倒れています!」
テラーの荒川だ。四十五歳になる。出勤した直後に倒れたらしい。
支店長の村上は地方紙の朝刊に目を通し始めたところだった。開いた新聞をそのまま机に放り投げ、飛び上がった。
「大丈夫なのか?」
やっとの思いで支店長席までたどり着いた体の森山が答えた。
「わかりません!」
「どういうことだ?」
「わかりません!」
森山は、村上の机に両手をついてゼイゼイと肩で息をしている。詳細を語れる状態にない。
「どこだ?」
「二階です!」
ふたりが二階に向かった。よろめきながら走る森山を追い抜いて、村上は二階への階段を駆け上がった。
荒川は、女子更衣室の前でうずくまっていた。数人の行員が取り囲んでいた。ひとりの女子行員が両膝を床につけ、荒川の顔を下からのぞき込むようにして訊いている。
「陽子ちゃん、大丈夫?」
四十五歳の女子行員でもちゃん付けだ。
荒川が叫んだ。
「見えないー。左の目がぜんぜん見えないー。あー、あー、真っ暗」
声のトーンが普通ならば、落としたコンタクトレンズを探しているようにも見えただろう。実際、荒川が左目をかばうようにしてうずくまった直後は、反射的にコンタクトレンズを探すポーズを取った女子行員もいたらしい。
動物がうめくような荒川の声が上がってからは、その場の空気が凍りついた。左目が失明しているとでもいうのか。
「荒川さん、気持ち悪くない。どこか痛くない」
村上が尋ねた。すでに村上と森山のふたりは、うずくまる荒川をはさむ位置にいた。
荒川も自分の声に圧倒されたのか、不安を爆発させたのが逆に精神の安定に結びついたのか、やや冷静さを取り戻している。
「どこも痛くないし、気持ちも悪くないけど……左目がぜんぜん見えない。真っ暗なまま」
「誰か、和室から座布団を持ってきて!」
村上が叫ぶように言う。
女子更衣室の向かい側には、今ではすっかり昼休みの女子休憩室になっている和室があった。誰かが、はうようにして和室から座布団を取ってきた。村上は、座布団を荒川の頭の下に置き、荒川の両肩を支えながら、右半身を下にしてそっと寝かせた。
「支店長、救急車を呼びましょうか?」
森山が判断を仰ぐように聞いてきた。村上は即答しなかった。
座布団に頭を載せた荒川の呼吸が落ち着くのを待って、村上が訊いた。
「荒川さん、動けそうかな?」
「……たぶん、動ける、と思います。でも、左手に力が入らないような……」
左手も麻痺しているのか。村上は両手で荒川の左手をそっと握った。わずかに握り返してきた。村上があらためて訊いた。
「誰かに支えられれば、歩けそう?」
「……たぶん、大丈夫だと思います」
救急車が到着するまでには十分程度の時間がかかってしまう。消防署はK総合病院の近くだ。行用車で向かえば半分の時間でK総合病院にたどり着ける。一分でも早いほうがよい。
「佐藤さん!」
村上が得意先主任の佐藤を呼んだ。後ろのほうから、「はい」と佐藤が歩み出てきた。
「佐藤さん、行用車で荒川さんをK総合病院に連れていってくれないか?」
「わかりました」
万事において佐藤は返事を渋らない。
ここで村上は判断ミスを犯していた。三十分後の佐藤からの電話で知らされる。
「──荒川さんは大丈夫か?」
転送されたK総合病院の佐藤からの電話に村上は飛びついた。
〈それが、まだ、わかりません〉
「集中治療室にでも入っているのか?」
〈いえ、まだ荒川さんは外来患者の待合席に座っています〉
「え?」
〈救急搬送ではなく自分で歩いてきた場合には、外来患者扱いになってしまうようなんです〉
「そうはいっても、突然片目が見えなくなったんだ。事情を説明して早く診てもらえないのか?」
〈無理のようです。私も事情を話したのですが、ダメだという返事でした。でも、支店長、大丈夫ですよ。まだ左目は見えないようですが、荒川さんの調子も戻ってきていますし〉
「……しょうがないか。何か変化があったら連絡を頼む」
〈はい、もちろんです〉
佐藤は返事を渋らない反面、常に楽観的なところがある。
三十分後には、また事態が急変していた。
〈支店長、荒川さんが、たった今、I市市立病院に緊急搬送されました〉
村上は動揺した。
「──どういうことだ?」
──こういうことだった。
荒川が外来待合席に座っている姿を箱崎先生が目にした。箱崎先生はK総合病院の勤務医で、泉が森支店近隣の箱崎医院の息子さんだ。実父の箱崎医院の院長ともどもA銀行とは懇意だった。箱崎先生に尋ねられて佐藤が事情を説明した。
「それは急いだほうがよい。K総合病院は脳神経外科の医師が手薄だ。I市市立病院なら設備も医師もそろっている。ここからもそう遠くない。救急車を手配するからすぐに向かいなさい」
──ということだった。
村上は気が気ではなかった。最初から救急車を手配すべきだったのか。だが、もはやどうしようもない。事なきを祈るしかない。
結局、それから二時間ほど経った頃、I市市立病院に駆けつけた荒川の夫から、意識もはっきりしているので手術の必要はない旨の連絡があった。手術の必要はないものの、一週間程度の入院は必要で、退院後は投薬治療を継続するとの話だった。
脳出血だった。ごく小さいもので後遺症の心配はないが、血管の老化は同年代の者と比べて進んでおり生活習慣の改善が必要だ、と医師からは注意されたらしい。
村上はやっと安堵した。午前中は、まったく仕事が手につかない状態だった。
よかった──。荒川さん、いや、陽子も、そういう年齢になったのか。
「あの陽子がね──」
村上は、営業室の空中の一点をぼんやりと見つめながら呟いていた。




