エピソードⅠ【アホのナカダテ】(5)
午後五時半。雅寿司のカウンター席で、ふたりの男が刺身をつまみながら酒を飲んでいた。大杉とアホのナカダテだ。
ナカダテは、あわびとかトロとかの握りを勝手に注文している。
「大杉さんが酒に誘ってくれるなんて珍しいですよね。大杉さんが帰り際に、『これから飲みに行くぞ。通用口の外で待っている』なんて突然言ってきたときには、後ろの席の佐藤得意先主任なんかは、マジ驚いた様子でした」
そう言いながら、ナカダテはカウンターの妙に横に長いショーケースに視線を這わせている。
「俺が誰かを酒に誘ったのは、この支店ではおまえが最初だ。だが、勘ちがいはするな。割り勘だ」
「ゲッ」ナカダテが、反射的に大杉を仰ぎ見た。「上司が部下を誘うときは上司がおごるっていうのが──」
「誰が決めた」
「誰がって、それが暗黙のルールなんじゃ?」
「そんなルールなど俺は知らん。俺はおまえの上司でもない」
へなへなとしおれて、ナカダテがカウンターにペタリと頬をくっつけた。
「大将、あわびは取り消し、トロは赤身に変更──」
雅寿司の入り口の引き戸が開いた。カウンターに頬をくっつけたままのナカダテと、引き戸から入ってきた男の視線が合った。「アッ、支店長!」
「銀太さん、いらっしゃい」
大将が声をかけてくる。
「大将、熱燗を頼むね」
引き戸を後ろ手で閉めるやいなや村上が注文を出す。
「ふたりともここにいたのか」
村上が姿勢を戻したナカダテの隣に腰を下ろした。大杉からあいさつの言葉はない。目の高さにおちょこを上げたのが、大杉なりのあいさつのようだ。「支店を出れば支店長も部下もない」大杉の持論だ。素早くおちょこを上げた仕草は、大杉なりの礼儀なのだろう。
「あら、銀ちゃん、いらっしゃい」
女将が、店内を仕切るのれんをさっと割って入ってきた。大将の「銀太さん」というかけ声に、思わず飛び出てきてしまったというふうだ。
あくまで表面的には冷静を装っている。結わいた後ろ髪を村上のほうへ向けて、二度、三度と軽く持ち上げる仕草をした。
村上は女将から、急いで視線をそらした。
村上が言う。
「支店長が忙しく仕事をしているというのに、その前を定時に堂々と帰っていくのはおまえたちぐらいだろうな。早帰り日でもないのに」
ふたりとも動じる気配はない。村上も、そんなどうでもいい小言を吐きたいわけではない。村上はほほ笑んでいた。心のうちでは、ヤマト物産の一件をふたりに感謝している。
大将が手渡してきた徳利で、村上がふたりのおちょこに酒を注ぐ。それから自分のおちょこに酒を注いだ。目線を合わせておちょこを上げた。『ご苦労さん』無言でふたりをねぎらう。
三人の会話に、ヤマト物産の件は入り込まなかった。終息した話だ。三人とも手柄話にする気などない。
妙に陽気な女将が、ややもすれば寡黙になりがちな場の雰囲気を盛り上げていた。銀太と自分の過去に触れようとする。ふたりは小学校、中学校の同級生だ。
アホのナカダテがチャチャを入れる。
「村上支店長の小さい頃ってどうだったんですかー?」
女将に訊くと、
「どうだったって漠然と訊かれてもね。でも、やっぱり優等生タイプだったかな。ずっと学級委員長やってたし」
「へー、そうなんっすか。やっぱり支店長には長が付いてくるんですね」
「あっ、そうそう。小学校二年生のときだったかな」
女将が何かを思い出したようだ。村上にも思い当たる節があった。あせって女将の口をふさごうとする。
「昔の話はいいだろうよ」
「昔の話ったって、何年前……四十年前? げぇ、四十年。もうそんなになっちゃうの?」
女将が自問自答しながらひとりで身悶えていた。
「そうだろう。もはや前世の話さ」
村上が女将の話に、完全にふたをかぶせた。
黙々と酒を飲んでいる大杉も居心地が悪そうではない。村上が、大杉にやや気を遣いながらふたりに尋ねた。
「おまえたち、泉が森支店は何年になる?」
大杉は三年、ナカダテは二年半との返事だった。
「まだちょっと早いか」
「ん?」
ふたりが同時に村上の顔を見た。疑問の眼差しを向けてきたふたりに、村上が言葉を返す。
「辞令だよ。明日が一般の辞令発令日だろう」
「あー」
空気が抜けたようなふたりの返答があった。
一時間ほどで、村上は雅寿司をあとにした。村上が店を出てすぐに、熱燗二本とにぎり寿司がカウンターに出された。
「頼んでませんけど?」
ナカダテの問いに女将が答えた。
「それは銀ちゃんから。勘定もぜんぶ済ませていったわよ」
「ラッキー。大杉さん、支店長のおごりですって。握りは上っすかね?」
「並だよ並。よく見てみろ。巻物はぜんぶかんぴょうだろう」
「本当だ。支店長もちょっとケチっすね!」
翌日、村上の机には、人事部からの親展扱いの茶封筒が載せられていた。朝一番の行内メール便で届いたものだ。辞令が入っている大判の茶封筒だ。
ご丁寧にも、開封時刻は9:30厳守との枠判が押されている。時刻の数字は例によって赤サインペンでの手書きだ。まだ五十分以上ある。頭取から直接手渡しされる支店長クラスの辞令交付の完了を待つのだ。
茶封筒がきているのは誰かの辞令があるという意味だ。昇進だけの辞令という場合もあるから、必ずしも異動をともなうものではない。開封してみなければわからない。支店全体が緊張に包まれていた。
指定の時刻を待って、村上が封を切るはさみを入れた。辞令を取り出す。副支店長の森山が、キャスターを滑らせて椅子をこいできた。村上にぴったりと顔をつける。並んだふたつの顔が辞令を見つめた。
「えー?」森山が驚いて叫んだ「どうしてー?」。
支店全員の視線が、支店長席に集中した。
村上が背広を着て立ち上がった。ナカダテを呼んだ。「えっ?」という驚いた声が数か所から上がった。
いつものようにナカダテが俊敏に動いてくる。立ち上がった村上の前に立った。背広は着ていない。ワイシャツも腕まくりをしたままだ。「支店長、何でしょう?」
「中館翔平。本店支店長代理を命ずる──おめでとう」
村上から差し出された辞令を、ナカダテがひょろひょろと受け取った。
ナカダテがそそくさと自分の席へ戻っていく。瞬時に、彼を取り囲む人垣ができた。
「マジかよ」「嘘だろー」「どうしてだよー」「信じられなーい」「おめでとうー」
めいめいの思いの数だけの言葉が飛び交っている。
ナカダテに扉をぶつけても平然としていた入行二年目の女子行員などは、ナカダテの片腕に自分の両腕を絡ませて、「すごーい! すごーい!」と飛び跳ねている。
茫然としていた副支店長の森山が、われに返って村上に訊いてきた。
「支店長、どういうことでしょうかね?」
「どういうことって、そういうことだろうな」
村上はいたって平然としている。
「支店長、まさか人事部に推薦したんじゃないでしょうね?」
「どうして?」
「だって、普通では考えられない異動ですよ」
「推薦なんかしていないよ。だいたい、支店長の要望なんか人事部はいちいち聞いてくれやしない。ただ、三日前ぐらいだったかな。人事部の次長から電話があってね。どうも、強盗事件とかヤマト物産の粉飾決算の件でナカダテの名前を耳にしたようでね。『支店長どうですか。将来性はありますか?』と訊いてきたから、『ありますね』とは言っておいたよ」
「支店長、大丈夫ですか?」
「まさか、『ありません』とも言えないだろう」
「それはそうでしょうけど。でも、アホですよ」
「でもな、森山さん。最近、ナカダテはただのアホではないような気がしているんだよ」
どういうことです? 森山は、私にはまったく意味がわかりませんという表情をしている。
「本当のアホのように思えてきてね。本物のアホといったほうが正確かな。もしかしたら、ナカダテは将来、われわれの想像を超えた大物になるかもしれない、そう思えてきてね。少なくとも、その資質は持っているように感じるんだ」
「ホントですか? 本当のアホ、本物のアホね」
やっぱり私にはわかりません、と森山は小刻みに首を振って否定していた。
四月初旬、アホのナカダテが泉が森支店を転出する日がきた。
支店行員全員で転出者を駐車場から見送るのが慣例になっている。古臭い慣例だが、A銀行ではしつこいぐらいによく守られていた。
ナカダテは身の周りの品を入れた紙袋ひとつと花束を持っていた。自分の車に乗り込む前に、通用口付近に集まっている行員へ向かって頭を下げた。どこか、まともだ。
駐車場は大通りに接しており、それを左折してしばらく進むと桜川の流れに沿って走るようになる。川べりの土手の桜は満開だった。泉が森の桜の一番の名所だ。
ナカダテの車が、大通りに出るため車列が途切れるのを待っていた。右方向からは、かなりの数の車が来ていた。
突然、ナカダテの車のハザードランプが点滅し始めた。
「なんだ、左のウインカーとまちがえているのか?」
はやし立てる声が飛ぶ。
ハザードランプの点滅が続く。一回、二回……五回。点滅が止まった。
「なんだ! ア・イ・シ・テ・ルのサインか?」
誰かの声に笑いが起きる。
「いや、ア・リ・ガ・ト・ウの意味なんじゃ?」
誰かの声に笑いが静まる。
「何がありがとうだ」
副支店長の森山が嫌み口をきく。
「ありがとうございます、だろーが。まったく、最後まで敬語もできないやつだ」
そういう森山の顔にも穏やかな笑みが浮かんでいる。
ナカダテの車が勢いよく車道へ飛び出していった。
それを見届けた行員たちが営業室へ戻っていく。
村上は、店舗周りを確認するようなふりをしながら、大通りの脇まで進んだ。ナカダテの車を目で追った。
ナカダテの車が桜川の側道を進んでいく。その姿が徐々に遠ざかっていく。満開の土手の桜が、ナカダテの車を見送っていた。
無数の桜の花びらたちが、アホのナカダテの将来を、ボンヤリとだが寿いでいるように村上には見えた。




