エピソードⅠ【アホのナカダテ】(3)
季節は、夏から秋を過ぎて冬本番を迎えようとしていた。六月の株主総会に合わせて泉が森支店に赴任した村上も、着任から五か月が過ぎていた。
支店の営業環境や行員の資質はすでに把握できている。
景気低迷は長期化しており営業環境は厳しい。それにもかかわらず、営業本部からの目標の貼りつけは情け容赦がない。そもそも、営業本部と支店では見ている方向が天と地ほどもちがうわけだから、両者の認識の溝が埋まるはずもない。支店は支店として粛々と日々の業務にまい進していくだけだ、というのが村上の信条だ。
十月から翌年三月までの下期は、自分がフル期間支店の舵取りをする。着任直後の上期の三か月は、いわば猶予期間だ。この下期からが本領発揮、支店長としての力と知恵の出しどころだ。
といっても、どんなに息張っても出てくるウンコの量には限度がある。そうそう変わるものではない。勢い詰め込みすぎれば、消化不良になるのがオチだ。村上が、過去二か店の支店長経験で得た教訓だ。
支店長としての周辺業務も多すぎる。商工会議所やら何やらの公的団体の仕事だ。泉が森支店のようにそこそこの業容の支店となれば、常任委員などの役職が押し付けられる。そちらにもマメに顔を出さなければならない。季節は十二月の忘年会シーズンだ。一週間に三日は宴会の予定が入っていた。
公的団体のひとつに地域金融防犯協議会がある。通称チキンボーだ。から揚げ棒だな、と村上はいつも思ってしまう。警察署と当地の金融機関によって構成される。折しも暦は十二月だ。何かとキナ臭さが漂ってきそうな時期だ。今日が地金防の総会兼忘年会だった。
泉が森警察署長の岩崎と村上が上座の席に並んでいた。村上は会長だ。地域金融機関のなかで最も規模が大きい地方銀行へのあて職のようになっている。
「村上支店長は最初の地金防ですね。よろしくお願いします。前任の石川支店長には大変お世話になりました」
岩崎署長が気さくに声をかけてくる。前任の石川支店長には大変お世話になりました、社交辞令のような決まり文句だが、どこかしら言外にいやらしい圧力を感じ取ってしまう。
ほとんどの公的団体と同じように会を開催すること自体が目的だから、生産的な話し合いも持たれない。二十分の総会のあと、一時間四十分の忘年会があってお開きだ。
宴席もまもなく終わろうとする頃、岩崎署長が、「近いうちに村上支店長の支店にもお伺いしますね。よろしくお願いします」と言葉をかけてきた。年末の防犯強化期間中に表敬挨拶にでも来るのだろう。村上は聞き流していた。
それからちょうど一週間後、十二月十六日の木曜日だった。時刻は午後二時三十八分。泉が森支店で強盗事件が発生した。
犯人はふたり組だった。ふたりとも野球帽をかぶりマスクをしていた。小さいほうは、サングラスもかけていた。顔が隠されているためふたりの年齢の見極めは困難だった。二十代もしくは三十代のように思われた。
大きいほうの背格好は中肉中背だった。中背といっても、身長はほぼ百七十センチだった。ベテラン女子行員のテラーの荒川が、男の頭のてっぺんと正面出入り口の赤色のビニールテープが同じなのを目撃していた。
赤色のビニールテープは百七十センチの高さに貼られている。百八十センチには青色、百六十センチには黄色だ。不審者の身長の目安にするためだ。実際に活用されたのは初めてだった。かなり変色していた。赤色というより桜色に近かった。
もうひとりは小柄だった。
周りをうかがうようにして、犯人たちが荒川の窓口に進んできた。
「お客様、番号札をお取りくだ──」
マスクをむしり取って、荒川の言葉をさえぎった。
「──金を出せ。俺たちは強盗だ」
主犯格の男がすごむ。黒皮のボストンバッグを、放り投げるようにしてカウンターを滑らせた。
「──これに一万円札の束を詰め込め。早くやれ。変なマネをしたら容赦はしない」
ジャンパーの内側には、銃のようなものを忍ばせている素振りだ。自分の左側の胸をせり出すように誇示して、「ほら、早くやれ」と圧力をかけてくる。
テラーの荒川は冷静だった。
「わかりました。お金はすぐに準備します。テラーズマシンを開けるのに役席の鍵が必要ですので、役席を呼んでもよろしいでしょうか?」
主犯格の男は何も答えずに、胸ぐらに忍ばせた銃のようなものの先端で、ジャンパーの裏地を二回つついた。「早く呼べ」というサインのようだった。
着席のまま振り返った荒川が、後方席へやや大きめの声をかけた。
「福澤さん、ちょっとよろしいですか」
ここで、支店全体に一気に緊張が走るはずだった。「福澤さん」というのは、異常事態が発生していることを店内に知らせる合言葉だ。福澤諭吉の福澤さんだ。泉が森支店に福澤という姓の行員はいない。
支店全体で防犯カメラのシャッターが押される。シャッターの嵐が無音で吹き荒れた。警察への非常通報ボタンも、ほぼ全員が押していた。
だが、支店内に動揺する雰囲気はなかった。福澤さんと呼ばれた業務役の渡辺も、「はい、はい、わかりましたよ。現金ね」とひとり言を呟いてから、おもむろに立ち上がって窓口へと向かう。テラーの荒川も余裕の笑みを浮かべている。ふたりの行員の命を危惧して、固唾を呑んで動向を見守る行員もいない。
何かがおかしい。支店全体が異様に落ち着きはらっている。強盗事件が、今まさに進行しているというのにだ。
行員の誰もが、一年おきに実施される防犯模擬訓練と勘ちがいしていた。
県境にも近い泉が森支店では、十二月に強盗を想定しての模擬訓練が実施されていた。去年などは訓練が事前予告なしに行われたものだから、支店内は大パニックに陥った。
訓練実施まで犯人役のふたりの警察官は、応接室で支店長と歓談していた。「勘定も合いましたからそろそろよろしいでしょう」という森山副支店長の声かけで模擬訓練が開始された。
応接室から飛び出してきたふたりの警察官のうちのひとりがおもちゃの拳銃を振りかざしながら、ロビーへと回り込んだ。たまたま、入行三年目の女子行員の山崎さんだけがテラー席に座っていた。犯人役の警察官が山崎さんの前に詰め寄った。布製のバッグを乱雑に放り投げ、「それに、手元にある現金をすべて入れろ!」と脅す。迫真の演技だ。
山崎さんは固まってしまっている。顔面も蒼白だ。何もできそうにない。
犯人役の警察官も予定を変更したのだろう。後方席でまんじりともしない渡辺業務役に向かって、おまえがやれ! 銃口をホラ、ホラと振って指図してくる。
還暦を二年後に控えた渡辺業務役にとっても、強盗事件に遭遇するなど四十年に及ぶ銀行員生活で初めてだ。顔からは表情が消えていた。寝顔の瞼に黒目が描かれたような顔だった。手先も震えていた。札束を落としながら、投げ出された布袋に、一万円札の束をひとつ入れるのが精いっぱいだった。
これは、皮肉にも模擬訓練終了後の講評において、良かった点の二番目に上げられた。犯人を刺激しない範囲での時間の引きばし、と警察は捉えてくれたようだった。
評価されたのは、防犯カメラおよび非常通報ボタンの押下と、渡辺業務役の動作の緩慢さの二点だった。数え上げたらきりがない反省すべき点とはあまりにもアンバランスだから、警察もあえて評価してくれたのかもしれない。
百万円の一束だけ入った布袋を拳銃を持った男が小脇に抱えて、強盗役のふたりの警察官が素早く営業室より退場したところで、
「はい、はい、はい、皆さんご苦労さん!」
手ばたきをしながら、副支店長の森山が声を張り上げてきた。
「防犯模擬訓練は終了でーす」
「チッ、そういうことか」
支店内のあちこちから舌打ちが聞こえてきた。
「──やられたぜ!」
そう呟かれた言葉には、どこか安堵の響きがあった。本当にやられていたら、それこそ大変な騒ぎだ。
講評はさんたんたる内容だったが、講評の冒頭に全員を驚かせた事実があった。ほう助役の警察官が、サングラスを外して帽子とマスクを脱いだときだ。
サングラスのフレームを胸元に差し込み、頭を左右に振って黒髪をほどく。女性だ。両手で自分の長い髪をすき上げる。一連のポーズには、ことさら女を強調するような演技が交じっていた。美人だ。
たしかに、女性はひと言も発しなかった。体型が小柄なのは隠しようがないとしても、女性を感じさせる動作はまったく隠されていた。驚きとともに新鮮な発見だった。誰も女性だと直感さえしなかった。
こういった新鮮な驚きがあったから、去年の防犯模擬訓練は、後味の悪さを残さずに撤収となった。くどいようだが、その女性警察官は、まさに署内から選りすぐられたような美人だった。
ただ、偶然とはいえ実演者にさせられて、容赦なく恐怖感を突きつけられた山崎さんと渡辺業務役のふたりの怒りだけは簡単に撤収とはいかなかったらしく、ぐちぐち、ねちねちと副支店長の森山に詰め寄っていた。
「死ぬかもしれないなんて思ったのは人生で初めてですー」
山崎さんは涙目になっている。
「そうだ、そうだ」
渡辺も顎をしゃくりあげながら、魂でそう叫んでいた。
それが、ちょうど一年前だった。犯人はふたり組だ。ひとりは小柄で主犯格の男に寄り添うように動いている。模擬訓練だ。誰もがそう判断した。
「はい、はい」こともなげに行動する荒川と渡辺業務役の姿は、犯人側には微妙な違和感を与えただろう。違和感をとおり越して、ある種の恐怖感だったかもしれない。「なんなんだこいつらは?」犯人たちも人間だ。あせりといらだちをあらわにし始めた。
そこに、シャッターの閉鎖音だ。ロビーウーマンのパートの白根さんが、五、六人ほどいた来店客を、「こちらからどうぞ」と、ATMコーナー側の出入り口から外へと誘導し終わってから、シャッターの閉鎖ボタンを押下していた。
いつもよりギスギス音を立てながらシャッターが閉まっていく。白根さんは、すまし顔で、親指を立てた拳を営業室へ向けている。「どう、ファインプレー?」これで犯人の逃走経路は正面出入り口に絞られた。
現金の手配は進んでいない。主犯の男がキレた。
「おまえら死にてえのか!」
胸ぐらから抜いた右手には拳銃が握られていた。「パン」乾いた音が鳴った。威嚇発射だ。弾丸は渡辺業務役の机の背面を貫通した。貫通箇所からは白い煙がツーと立ち昇っている。荒川と渡辺業務役のふたりが固まった。
「俺たちは本気だ!」
二発目の威嚇発射があった。今度は、渡辺業務役の机上のパソコンを弾丸が貫通した。バチッ、という音とともに画面が消えた。二発目の威嚇発射で支店全体が固まった。「これは模擬訓練ではない!」
状況は極めてヤバイ。
そこへ、営業室の扉を開けて帰店してきたのがナカダテだった。まさにここしかないタイミングだ。アホのナカダテ本領発揮の匂いプンプンである。
瞬間的に店内の異常を察知したナカダテの視線が、拳銃を振りかざしている男に向けられた。ちゅうちょなく自分の視線の先の男へと突進していく。固まったままの渡辺業務役と荒川を一瞥したあと、カウンターに右ひじをつき、主犯格の男の顔を下から睨み上げた。男が持つ拳銃を左手の人差し指でツンツンつついている。あまりの想定外の行動に、男の動きも固まっていた。
「さすがにこれはあぶないっしょ。やりすぎっすよ」
固まったままの男から、なんなくナカダテが拳銃を奪った。そのまま射撃のポーズを取って身体をぐるりと回した。ナカダテの身体の回転に合わせて、行員が順番に身を伏せていく。
ナカダテの身体に合わせて一周した拳銃が、主犯格の男の両目のあいだで止まった。男の心臓も同時に止まった。ナカダテが銃口の引き金に力を込めた。その時だ。
ウーン、ウーン、ウーン、数台のパトカーがかけつけてきた。支店の前で急停車した。
「ヤバイ、逃げろ!」
ふたりの犯人が逃げだした。正面出入り口をダッシュで抜けていく。
ナカダテはもう一度ゆっくりと店内を見渡した。何を見ていたかはわからない。それから、おもむろにカウンターの下に拳銃を置いて、床に置いてあったカラーボール一個をつかみ取った。
「逃がすかー!」
ナカダテが横っ飛びでカウンターを越える。外へ出た。犯人の逃走車がパトカーの脇を疾走していく。
正面出入り口の軒下で仁王立ちになったナカダテが、大きく息を吸って吐いてからワインドアップモーションに入った。犯人の逃走車めがけてカラーボールを投げた。
ライナー性のボールが犯人の車にまっしぐらに飛んだ。勢いが強すぎた。カラーボールが車の上を通過した。だが、そこで急ブレーキがかかったようにカラーボールは失速した。いや、逃走車が一気に加速したか。カラーボールがフロントガラスに的中した。逃走車のフロントガラスがカラーボールを受け止めたかのようだった。
「ナイスキャッチ!」
ナカダテが呟いた。
カラーボールの中のオレンジ色のインクが飛び散った。インクがフロントガラス全面にこびりついた。
カラーボールのインクのあまりのしつこさに気おされたのだろう。犯人は車を停め逃走を断念した。そこで緊急逮捕となった。
ちょうど犯人が緊急逮捕されていた頃、副支店長の森山から支店長の村上の携帯へ事件の第一報が入れられた。犯人が支店から逃走し、森山がわが身の安全を確認したあとだ。支店長へ報告しておけば、副支店長の責任は七割方が回避される。
「支店長、大変です!」
尋常ではない森山の声に、車の運転席のシートに張りつくようにして村上が尋ねた。村上は、大口取引先へ歳暮を配っている最中だった。
〈ど、どうした!〉
「強盗事件が発生しました!」
〈なに!〉
次の言葉を発しようとした森山の視界に、アホのナカダテが余裕の表情で戻ってきた。
森山が送話口を押さえてアホのナカダテに訊く。
「ナカダテ! 強盗犯はどうした?」
「捕まりました」
森山は、ナカダテの言葉を送話口でくり返した。
「捕まりました!」
〈ん?〉
村上の声を無視して電話は切られた。
事件のときの心境を村上から問いただされても、「よくわかりません」というナカダテの返答だった。
無謀としか言いようがないが、本人の頭の中では筋書どおりに進行していたのだろうか。事件の真相を把握していたかどうかは村上も不問にした。聞いてもムダな気がした。
アホのナカダテはこの一件で、泉が森警察署長から感謝状を贈られた。県警本部長賞? いやいや警察庁長官賞? などとの噂が一時飛び交ったものの、泉が森警察署長の感謝状に落ち着いた。
ちなみに犯人は、二十代後半の交際中の男女で、サラ金の返済に困り果てての凶行だった。初犯だった。拳銃はインターネットで購入したピストル型のエアガンだった。
犯人の女が美人だったかどうかは、村上も知らない。




