第9話 返していただくのは、お金だけです
「あのドレスを着る日もないのに、お金だけ払えというの?」
商会の客間で、ベルタは請求書を握っていた。
あの日、白い絹を頬に寄せていた手だった。
今日は、その指先で紙の端を折っている。
私は向かいの席に座り、オスモさんから渡された書類を開いた。
別荘の売却代金。
ヨルクが持っていた馬車の売却代金。
それぞれから、どこへ、いくら返済するか。
自分の名の隣に記された金額を、持参した借用書と照らし合わせた。
一致している。
「売却代金は、すでにこちらでお預かりしています。本日は、受け取りを確認していただきます」
オスモさんの説明に、私は頷いた。
婚礼の会場と貸馬車は、取り消されていた。
戻った予約金もあったけれど、前に示された金額より少ない。
「この差額は?」
「取消しの時期が遅くなったためです。手配が済んだ分は、お返しできないと」
ヨルクが低い声で答えた。
あの時なら、小さな式に変えられた。
返済に回せるお金も、今より多かった。
けれど、二人はそうしなかった。
私は返済の明細へ目を戻した。
「私への返済は、こちらに記された全額で間違いありませんか」
「はい。全額をお返しします」
オスモさんが、小箱を私の前へ置いた。
ベルタが、椅子を引き寄せる音がした。
「お姉様は、聞いていらっしゃるの? 結婚式はなくなったのよ」
私は顔を上げた。
「書類で確認したわ」
「式だけではないわ。婚約も解消したの」
隣に座るヨルクへ、妹の視線が向いた。
「ヨルク様が自分で私に言ったのよ。お姉様に戻ってきてもらおうとしたけれど、断られた。それでも私との式は予定どおりにしたいですって」
ベルタの声が震えた。
「そんな人と、どうして結婚しなければならないの」
ヨルクは口を開いた。
「私が、悪かった」
「聞いたわ。何度も」
ベルタは、その先を聞こうとしなかった。
私は二人の顔を見た。
妹が怒っていることには、理由がある。
私の返事を聞いてから妹との結婚を決め直そうとしたのは、ヨルクだった。
その責任まで、私が引き受けることはなかった。
「婚約の解消には、二人とも同意したのね」
「ええ。もう署名もしたわ」
ベルタは請求書を卓上に置いた。
「なのに、衣装は出来上がっているから、残りも払わなければならないんですって」
注文書には、ヨルクが支払いを引き受ける署名があった。
けれど、妹が重ねて出した婚約解消の書面では、費用の分担を決め直していた。
会場と貸馬車の取消し費用はヨルクが負担する。衣装はベルタが引き取り、すでに彼が払った手付金を除く残額を妹が払う。
二人とも署名していた。
「この分だけでも、お姉様が出してくださらない?」
私は妹を見た。
「出さないわ」
ベルタが目を見開いた。
「少しくらい、助けてくれてもいいでしょう。お姉様には、今からお金が戻るのだから」
「私が貸していたお金よ」
「分かっているわ。でも、私には何も残らないじゃない」
妹の目が、小箱へ向いた。
「婚約も、結婚式も。みんなにどう説明すればいいのよ」
その説明を考える役も、私に回ってきそうだった。
私は膝の上で手を揃えた。
「注文をしたのはあなたたちよ。私が頼んだ衣装ではないし、支払いを引き受けたこともないわ」
「私たち、姉妹でしょう」
「ええ。だからといって、あなたの婚礼の費用を私が払うことにはならないわ」
ベルタは唇を噛んだ。
私はそれ以上、理由を足さず、受け取りの確認に戻った。
◇
小箱の中を確かめた。
オスモさんと金額を確認し、私は借用書を卓上へ広げた。
一枚ずつ、日付が違う。
そのたびに、これで支払いに間に合うと息をついたことを覚えていた。
今日の日付と、完済の文字を書き入れる。
自分の名を記し、受け取ったことを認めた書面とともに、ヨルクへ渡した。
彼は、しばらくその束を見つめていた。
「これで、借りていた分は全部だな」
「はい。確認しました」
オスモさんも、手元の記録に印をつけた。
「こちらでお預かりしていた、ほかの返済分も支払いを終えています。今回のお約束は、これで完了です」
ヨルクが深く息を吐いた。
「別荘も、馬車も……手放さずに済むと思っていた」
誰に言うでもないような声だった。
私は、彼が答えを続けるのを待った。
「君がいれば、何とかなると。ずっと、そればかり考えていた」
握られた借用書が、かすかに鳴った。
伯爵としての地位も、領地も、彼には残る。
収入まで失ったわけではない。
ただ、足りなくなれば私が用意するお金は、もうない。
「これからの支払いは、私が確認します」
ヨルクはオスモさんに向き直った。
「書類を任せる者も、雇うつもりです。給金も、収入の中で用意しなければ」
「新しいご担当が決まりましたら、お知らせください。今後のご相談も、具体的な支払いの見通しを伺った上で承ります」
ヨルクは頷いた。
以前なら、私が隣で日程を書き留めていた。
今日は、彼自身が手帳を開いた。
私は自分の控えを揃えた。
「トーヴェ」
鞄を開けたところで、呼ばれた。
「返済は済んだ。これで、もう一度」
「そのお話は、終わっています」
ヨルクの声が止まった。
「返していただくのは、お金だけです」
私は彼を見て、言った。
借用書の上に置かれた手が、ゆっくり離れた。
私は受け取った小箱と控えを鞄へしまい、留め金を閉じた。
「それでは、失礼いたします」
椅子を引いて立ち上がる。
ベルタは請求書を見たまま、顔を上げなかった。
扉のところで、オスモさんに礼を言った。
「本日は、ありがとうございました」
「確かに受け取っていただけて、よかったです」
私は頷いた。
それから、鞄の持ち手を握り直す。
「来月からも、小部屋をお借りしたいのです。月に八日ほど、予約の入った時間だけ」
「承知しました。空いている時間を確認しておきます」
「料金と合わせて、次に伺った時にご相談させてください」
取り戻したお金の一部を、仕事を続ける場所に使う。
残りは、これからの暮らしのために取っておく。
受け取りを確かめた時よりも、その使い道を口にした今の方が、うれしかった。
◇
約束の時刻に商会の玄関を出ると、ニーロ様が待っていた。
終わったあと、一緒に歩いていただきたい。
そう書いて、私から時間を伝えてあった。
「お待たせしました」
「いいえ。今、着いたところです」
彼の顔を見ると、肩の力が抜けた。
「終わりましたか」
「はい。全部、受け取りました」
ニーロ様は頷いた。
それから、私へ手を差し出してくれた。
私は、その手を取った。
広場へ向かって歩きながら、相談室を続けて借りたいと話したことを伝えた。
彼は、どのくらいの時間を借りるのかと尋ねた。
「まずは、今の依頼をきちんと続けられるくらいに。部屋代もありますから」
「予定が決まったら、教えてください。また、お誘いしたいので」
私は頷いた。
会う約束は、これからもできる。
そう思いながら、つないだ手を少し握り直した。
◇
精算の日から三週間後、私たちは広場のベンチに並んで座っていた。
その間にも手紙を交わし、会える日は一緒に過ごした。本や菓子の話に加えて、仕事の忙しい時期や、どんなふうに暮らしたいかも話すようになっていた。
「今日は、先に私からお話ししたいことがあるんです」
ニーロ様が、私の方へ体を向けた。
「はい」
この日の誘いの手紙には、これからのことを話したいと書いた。
何から伝えるか、家で何度も考えていた。
私は、膝の上の鞄を脇へ置いた。
「私、ニーロ様と、一緒に暮らしたいです」
彼の目を見たまま、続ける。
「朝、一緒に食事をして。出かけて、帰ってきて、その日あったことをお話ししたい。一緒に過ごして楽しかった日は、帰る道も同じだったらと思うんです」
顔が熱くなった。
でも、最後まで言いたかった。
「ニーロ様と、結婚したいです」
彼はすぐには答えなかった。
私の手を取り、両手で包んだ。
「私もです」
目が合う。
近くで見る彼の顔は、少し赤かった。
「一緒にいたいと思っています。朝の食事も、帰ってからのお話も。どうか、私と結婚してください」
「はい」
声が、少し震えた。
うれしいと、こんなに短い返事しかできなくなる。
ニーロ様の手を握り返した。
彼も、うれしそうに笑っていた。
しばらくして、私は息を整えた。
「結婚しても、仕事は続けたいです。家も残して、こちらで相談を受ける日を作りたいと思っています」
「そうしましょう。領地で過ごす日と、こちらで過ごす日を、相談しながら決めたいです」
私は頷いた。
「式は、来春がいいです。それまでに、仕事の予定も整えておきたいので」
「来春でしたら、四月の半ばはいかがですか。領地の仕事が立て込む時期を避けられます」
鞄から手帳を出した。
まだ何も書いていない、来年の頁を開く。
ニーロ様も、自分の手帳を開いた。
「十二日なら、その前後も空けておけます」
「四月十二日……」
口にすると、彼が顔を上げた。
「トーヴェ様は、いかがですか」
「はい。その日に、結婚したいです」
ニーロ様は、自分の手帳に日付を記した。
「では、式はその日に。神殿の手配は、私から進めます」
「私は、伯母に話します。衣装のことも、相談したくて」
話すたびに、次にしたいことが増えていく。
どんな花を飾ろう。
どんな衣装を着よう。
ニーロ様の好きなものも、聞きたかった。
「指輪も、一緒に見に行っていただけますか」
「はい。選びたいです」
私は手帳へ目を落とした。
四月十二日。
その下に、小さく、結婚式と書き入れる。
書き終えたところで、文字が少し滲んだ。
慌てて瞬きをすると、ニーロ様がハンカチを差し出した。
私は受け取り、目元を押さえた。
「……楽しみなんです」
そう言ったら、また涙が出た。
彼は私の手帳を覗き込み、自分のものを隣に並べた。
同じ日に、同じ約束が書いてあった。




