第8話 次の約束は、私から
「次は、私からお誘いするつもりでした」
そう言って笑ったニーロ様を見て、私は鞄の上で指を重ねた。
手紙に書いた日の午後。
私たちは、広場の菓子店で向かい合っていた。
返事は翌朝には届いた。三時はいかがですか、と。
その時間を手帳に書き入れてから、今日までが長かった。
「先にお誘いしてしまいました」
「うれしかったです。手紙を受け取った時、すぐに返事を書きたくなりました」
私は鞄から、旅の本を取り出した。
話したかった頁には、細い紙を挟んである。
「……本の続きを、お話ししたくて」
そこまで言って、顔を上げた。
ニーロ様は、続きを待ってくれている。
「それもあるのですけれど。私が、ニーロ様に会いたかったんです」
口にすると、頬が熱くなった。
手紙にも書いたことなのに、目の前で言うのは、ずっと勇気がいった。
彼は一度、目を伏せた。
それから、こちらを見る。
「私も、お会いしたかったです」
運ばれてきたお茶を飲むまで、何を言えばいいのか分からなかった。
でも、黙っている時間まで、嫌ではなかった。
◇
本を開くと、海へ突き出した桟橋の挿絵があった。
「ここです。海の上を歩いているようだと、書いてあって」
「ずいぶん先まで続いていますね」
「先端から釣りをする人もいるそうです。私だったら、下ばかり覗いてしまいそう」
ニーロ様が少し身を寄せた。
同じ頁を見ていると、指が触れそうになる。
「高いところは、平気ですか」
「たぶん。落ちないと分かっていれば」
「それなら、柵のある方を探さないと」
「ニーロ様も、下を覗かれるでしょう?」
「……覗くと思います」
想像したらおかしくて、二人で笑った。
いつか行きたい場所の話をする。
その時、隣にこの人がいたらと、私は考えていた。
お茶が半分ほどになった頃、ニーロ様がカップを置いた。
「明後日、領地へ戻ることになりました」
頁を押さえていた指が、止まった。
「橋の工事が終わるので、仕上がりを確かめておきたくて。収穫前に、現地で話しておくこともあります」
それは、当然のことだった。
彼には領地があり、そこで待つ人たちがいる。
私は頷いた。
けれど、さっきまで近かった次の時間が、急に遠くへ行く気がした。
「そう、なのですね」
領地へ戻れば、忙しくなるだろう。
落ち着くまで、手紙も控えた方がいいのかもしれない。
そこまで考えてから、私は本から手を離した。
まだ、何も聞いていない。
「次は、いつお会いできますか」
ニーロ様が顔を上げる。
「私も、そのお話をしたかったんです。ただ、毎週こちらへ出てくるのは難しくて」
胸の奥が、少し縮んだ。
だったら、私の方がいつでも行けるようにしておけばいい。
新しく受けた相談を断って、部屋も空けておけば。
慣れた考え方だった。
けれど、あの部屋の窓辺には、好きな本がある。
机には、明日仕上げると約束した書類がある。
ニーロ様に会いたい。
あの暮らしも、続けたい。
「私、今の部屋が気に入っているんです」
唐突な話になってしまった。
それでも、彼は頷いてくれた。
「少しずつですが、ほかの相談もいただけるようになりました。仕事も、続けたいです」
「はい」
「でも、お会いしたいです。だから……いつ会えるか分からないまま、ずっと予定を空けて待つのは、もう、したくありません」
言い終わってから、膝の上の手に力が入っていると気づいた。
困らせただろうか。
ニーロ様は、少し考えてから口を開いた。
「月に二度なら、こちらの用事と合わせて来られます。その日は、あなたと過ごす時間を取りたいです」
月に二度。
私は、頭の中で手帳を開いた。
「次は、八日後の午後でしたら。トーヴェ様のご都合はいかがですか」
「午前中に相談の約束があります。三時なら、落ち着いて出かけられます」
「では、三時に。今度は少し歩きませんか」
「はい」
返事をすると、膝の上の手がほどけた。
「その次の月は、私から伺える日もあると思います」
ニーロ様の顔が明るくなる。
「領地へ?」
「ええ。馬で出かける道のお話も、聞きたいです。ただ、乗馬は得意ではないので、最初は歩けるところを」
「川沿いに、いい道があります。そちらなら、ご一緒できます」
手帳を出して、八日後の欄に三時と書いた。
次の月に出かけられそうな日も、二人で確かめた。
「天候や仕事の都合で変わる時は、分かった時点で手紙を出します」
「私も、そうします。その時に、次の日を決めましょう」
ニーロ様が頷いた。
来てくれる日がある。
私から行く日も、選べる。
手帳を閉じると、彼が本へ目を向けた。
「読み終えたら、貸していただけませんか」
「もう最後まで読みました。よろしければ、今日から」
「ありがとうございます。戻る馬車で読みます」
本を差し出すと、大きな手が受け取った。
次に会う時、この人も桟橋の先を知っている。
それが、うれしかった。
◇
八日後の午前、私は商会の小部屋で、相談に来た人を見送った。
オスモさんから紹介された、小さな店の支払いについての相談だった。
今日決められることをまとめ、残る確認は二日後に書面でもらう。
次の約束と料金を確かめてから、書類を鞄にしまった。
新しい仕事は、まだ二件しかない。
それでも、また頼みたいと言ってもらえると、帰り道の足取りが軽くなる。
家で昼食を取って、着替えた。
鏡の前で髪を直し、手袋を選ぶ。
机の端には、ニーロ様から一昨日届いた手紙があった。
予定どおり、三時に広場の噴水の前で。
朝のうちに町へ着き、用事を済ませてから来ると書かれていた。
私も、今日の仕事を終えた。
これからの時間は、彼と過ごすために空けてある。
噴水のそばへ着くと、本を手にした人が振り向いた。
「トーヴェ様」
声を聞いただけで、笑ってしまった。
「お久しぶりです」
「ええ。お会いできてうれしいです」
ニーロ様は、本を差し出した。
私は受け取って、鞄へ大切に収めた。
「いかがでしたか」
「桟橋の先で、あんなに大きな魚が釣れるとは思いませんでした」
「釣り上げた人より、周りの人の方が騒いでいたところですね」
「ええ。私も見ていたら、一緒に騒いだと思います」
彼が笑う。
私は、騒いでいる姿を見てみたくなった。
八日間、こんなふうに話すのを楽しみにしていた。
並んで、広場から続く並木道へ向かった。
橋の工事が無事に終わったこと。
私が相談を終えて、ほっとしたこと。
それから、道端の焼き栗の匂いに足を止めた。
「お好きですか」
「はい。ニーロ様は?」
「好きです。今、どちらが先に言うかと思っていました」
私たちは小さな紙包みを一つずつ買った。
手袋を外して、まだ温かい栗の殻をむく。
立ち止まって食べると、指先にまで温かさが伝わってきた。
最後の栗を食べ終えて、手袋をはめ直す。
また歩き出したニーロ様の手が、すぐ隣にあった。
触れたい、と思った。
そう思う自分に、少し驚いた。
お茶を飲んでいる時も、同じ本を覗き込んだ時も、この人の手を見ていたのだと気づいた。
隣にいるのに、もう少し近づきたかった。
私は右手を伸ばした。
彼の左手に触れ、指を添えて、そっと握る。
ニーロ様が足を止めた。
私まで止まって、顔を見上げる。
「……嫌でしたか」
彼はすぐに首を振った。
「驚きました。うれしくて」
大きな手が、握り返してくれた。
手袋越しなのに、その力がよく分かった。
強すぎず、離れてしまわないくらいに。
「私も、こうして歩きたかったんです」
ニーロ様の声が、少し低くなった。
私はつないだ手を見た。
それから、もう一度、顔を上げた。
「ニーロ様が、好きです」
言ってしまってから、鼓動が速くなる。
会いたいと思った。
手をつなぎたいと思った。
その先の言葉を、今日は隠したくなかった。
彼は私の顔を見たまま、息をついた。
口元が、ゆっくりほころぶ。
「私も、あなたが好きです」
握られた指に、少しだけ力がこもった。
「本の話に夢中になったり、私の話を聞いて笑ってくださったり。その顔を、もっと近くで見ていたくなるんです」
私はまた頬が熱くなった。
同じことを思っていたのだと分かって、うつむきたくても目を離せなかった。
「次にお会いした時には伝えようと、領地にいる間、何度も考えていました」
「……また、私が先に言ってしまいましたね」
「ええ。今日は、二度も驚かされました」
私は笑った。
彼も笑って、それから、つないだ手を離さずに歩き出した。
さっきまでと同じ道なのに、歩き方が分からなくなる。
肩が近くて、時々、袖が触れた。
ゆっくり歩きたいと言うと、ニーロ様も歩みを緩めてくれた。
帰り道が、少しでも長ければよかった。
◇
家に戻ると、商会からの封書が届いていた。
封を開き、差出人を確かめる。
オスモさんからだった。
別荘の買い手が決まり、売却代金から返済を行う。
最終の精算は、取り決めた期限の日に行うので、借用書の原本を持参してほしい。
私は最後まで読んだ。
あの人が使ったお金は、あの人が選んだ方法で返される。
私に求められているのは、自分の分を受け取ることだった。
引き出しを開けて、原本を確かめる。
日付と金額を照らし合わせ、精算の知らせと一緒に揃えた。
これで、最後になる。
鞄から旅の本を出し、窓辺へ戻した。
隣には、ニーロ様から届いた手紙を置く。
次に会った時には、話したいことがある。
本の続きではなく、私のこれからのことを。




