第7話 もう、あなたは選びません
「ベルタとの婚約を、考え直したいと思っている」
商会での話し合いから二日後の午後、伯母の家の客間で、ヨルクはそう切り出した。
場所も時刻も、私から伝えた。
話を聞くのは、一度だけ。三十分ほどにしましょうと、手紙に書いておいた。
伯母は隣の部屋にいる。
私は椅子の背に寄りかからず、向かいの人を見た。
「それを、私にお話しになるのですか」
「君とのことだから」
ヨルクは、膝の上で両手を組んだ。
「一昨日、商会で話してから、ずっと考えていた」
彼は一度、窓へ目を向けた。
「君は、支払いの日を知らせてくれるだけではなかったんだな。私が決めたことを、そのあと、どうすれば実行できるのか考えていた」
私は黙って聞いた。
「君が何とかするから、何とかなるものだと思っていた。昨日も、書斎で分からないことがあって、呼ぼうとして……もう、隣の部屋にはいないんだと気づいた」
あの小さな仕事部屋は、もう空になっているはずだ。
残したものと持ち帰るものを、自分で分けて出てきたのだから。
「ひどいことをした。君に、甘えていた」
ヨルクが頭を下げた。
その姿を見て、私は膝の上の手を重ね直した。
謝ってほしいと思っていた。
七年待ったことを、傷ついたことを、少しでいいから分かってほしかった。
今、その言葉を聞いている。
「それだけでは、ないんだ」
彼が顔を上げた。
「水路を直した翌年、麦がよく実った時のことを覚えているか」
私は、思わず頷いた。
ヨルクが帰ってきて、書斎まで私を呼びに来た日がある。
何か困ったことが起きたのかと思ったら、今年はいい実りだと、ひどくうれしそうに話し始めた。
どの畑まで見に行ったのか。
去年と何が違うのか。
私は途中でお茶を淹れ、その話を聞いていた。
「君が、よかったですねと言ってくれて、もう一度うれしくなった」
ヨルクは、ゆっくり言った。
「最近、領地を見て戻っても、そんな話をする相手がいない。何を見たのか、何がうれしかったのか。君に話していたんだと、いなくなってから気づいた」
あの時の私は、彼の話を聞くのが好きだった。
少し早口になるところも、途中で思い出したことを付け足すところも。
その人と、毎日一緒に暮らせたらと思っていた。
私は目を伏せ、息を整えた。
うれしかったことまで、なくなってしまったわけではない。
今も、思い出せる。
「君を、もっと大切にするべきだった」
ヨルクの声が、かすれた。
私は顔を上げた。
「そう思ってくださったことは、分かりました」
彼の肩から、少し力が抜けた。
そのまま上着の内側へ手を入れ、小さな箱を取り出す。
開ける前から、何か分かった。
私が返した指輪だった。
「もう一度、婚約してほしい」
箱の中に、細い金の輪があった。
「今度は、きちんとする。君が望んでいたように、二人で暮らしたい」
「ベルタとは、お話しされたのですか」
「まだだ。まず、君の気持ちを聞いてからと思って」
私は、箱から彼の顔へ視線を移した。
「君が戻ってくれるなら、ベルタには私から話す。婚礼も、改めて考えよう」
ヨルクの声に力が戻っていく。
「今は、返済や売却のことがある。家が片づいたら、今度こそ君を迎えたいんだ。だから、もう少しだけ待ってほしい」
もう少しだけ。
私は、その言葉を聞いた。
同じ言葉を、何度受け取ってきただろう。
手紙に書かれていたことも、会って言われたこともある。
そのたびに、彼を困らせたくなくて、分かりましたと答えていた。
今日は、答えが決まっていた。
「お待ちしません」
ヨルクがまばたきをした。
「……トーヴェ?」
「あなたとは、結婚しません」
言い終えるまで、彼の顔を見ていた。
ヨルクは、開いた箱へ目を落とした。
それから、もう一度私を見る。
「今度は本当だ。返済を終える日も決めた。そのあとなら――」
「お金が返ってきても、答えは変わりません」
私は首を振った。
「結婚するための条件を、お話ししているのではないのです。私は、あなたとの婚約には戻りません」
彼の手が、箱の脇で止まった。
「そんなに、簡単に決められることなのか」
小さな声だった。
「私たちは、七年も一緒にいたんだ。君も、私のことを好きでいてくれたはずだろう」
私は頷いた。
「好きでした」
その返事には、迷わなかった。
「二十歳の時、あなたと結婚できることがうれしかった。手伝ってほしいと言われるのも、頼りにされるのも、うれしかったです」
ヨルクが、顔を上げた。
「だから、待ちました。お金が足りないなら、式は小さくてもいいとお伝えしました。日取りだけでも決めてほしいと、何度もお願いしました」
彼の口が、わずかに動いた。
私は、その言葉を待たずに続けた。
「でも、あなたは私には待ってほしいと言いながら、ベルタとの結婚を決めました」
「それは、間違っていた。本当に後悔している」
「はい。今、伺いました」
それでも、あの日のことは消えない。
白い絹を持った妹。
金の縁取りの中に並んだ二人の名前。
来月と聞いて、自分の婚礼衣装を考えてしまった私。
胸の奥は、まだ痛んだ。
私はその痛みごと、息を吐いた。
「七年待ったことは、これからも待つ理由にはなりません」
ヨルクは、何も言わなかった。
昔の自分が選んだ人を、今の私も選び続けなければいけない。
そう思っていたから、あんなに長く、立ち止まっていた。
私は、卓上の小さな箱に触れた。
蓋を閉じる。
それから、彼の前へ戻した。
箱を押す指は、震えなかった。
「これは、お返ししたものです。もう持ってこないでください」
ヨルクが箱を見たまま、息をついた。
「何をすれば、君は戻ってくれる?」
私は少しだけ間を置いた。
「戻りません」
短い言葉になった。
けれど、ほかの言い方を探して、曖昧にしたくなかった。
「ベルタとの婚約をどうするかは、お二人で話し合ってください。私が戻るかどうかを、理由にしないでください」
彼は俯いた。
私は、彼がこれから何と言えばいいかを考えかけた。
傷つけすぎないように、何か慰める言葉を足した方がいいのだろうか。
膝の上で、手袋を揃えた。
今、優しい約束を足せば、その約束のためにまた会うことになる。
私は自分の鞄を持ち、立ち上がった。
「お話は、ここまでにさせてください」
ヨルクが顔を上げる。
「待ってくれ」
「返済についての連絡は、商会を通して、書面でお願いいたします。先日決めた期限に、受け取ります」
時計を見ると、まだ約束した三十分には届いていなかった。
私は客間の扉へ向かった。
謝ってもらえたことは、覚えていられる。
けれど、戻るとは言わない。
「さようなら、ヨルク様」
扉を開けて、私は廊下へ出た。
◇
伯母は隣の部屋から出てきて、私の顔を見た。
何を言われたのかは、尋ねなかった。
ただ、少し近づいて、私の手に触れた。
「お茶を飲んでいく?」
私は首を振った。
「ありがとう。今日は、帰ってしたいことがあるの」
伯母は頷いた。
「では、気をつけて」
私はその手を、一度握り返した。
「場所を貸してくださって、ありがとう」
「また、いつでもいらっしゃい」
玄関を出ると、午後の風が頬に当たった。
私はゆっくり歩いた。
泣きたいような気もしたし、少し疲れてもいた。
それでも、客間へ戻って返事を変えたいとは思わなかった。
七年の間に、好きだった時間も、うれしかった時間もあった。
そのことまで、嫌いにならなくてよかった。
私は、家へ帰った。
◇
窓を開け、机の上を片づけた。
借用書の入った引き出しは、そのままにしておく。
今日、書きたいのは返済の手紙ではなかった。
新しい紙を一枚、出した。
ニーロ様。
宛名を書くと、お茶の席で笑った顔が浮かんだ。
胡桃のお菓子を、思っていたより早く食べてしまったこと。
私の話を聞いて、自分も用事を思い出してしまうと笑っていたこと。
旅の本の続きが気になると、言ってくれたこと。
私は、窓辺の本へ目を向けた。
少しずつ読み進めて、海辺の町の話も、終わりに近づいていた。
その話をしたい。
彼が最近、どんなことを面白いと思ったのかも聞いてみたい。
私はペンを取った。
『先日は、楽しい時間をありがとうございました。
また、ニーロ様にお会いしたいです。
四日後の午後、ご都合はいかがでしょうか。
旅の本を読み進めたので、お話ししたいことがあります』
読み直して、少し頬が熱くなった。
会いたいと、書いてある。
私はそのまま、自分の名を記した。
封をした手紙を持って家を出る。
商会で使いを頼み、ニーロ様への手紙を託した。
受け取ってもらってから、もう一度、空になった手を見た。
今度は私から、会いたいと伝えた。




