第6話 そのお金を使ったのは、私ではありません
「婚礼の支度に使った。返さないと言っているわけじゃない」
ヨルクは、そう言った。
借用書に記された返済の日。
商会の客間で私の前に並べられたのは、領地の修繕費でも、使用人への給金でもなかった。
式場の予約金。
ベルタの婚礼衣装の手付金。
婚礼用に借りる馬車と、その飾りの代金。
支出を認める欄には、ヨルクの署名がある。
私は一枚ずつ、日付を確かめた。
どれも、私があの家を出たあとだった。
「返済に残していた分から、出したのですね」
「ほかに、まとまった金がなかったからね」
彼の隣で、ベルタが小さく息をついた。
「手付金を払わなければ、準備をしてもらえないのよ。婚礼の日は決まっているんだから」
私も、その日は知っている。
七年待っていた私には決めてもらえなかった日を、二人はもう招待状に記していた。
持参した控えを開き、最後に確認した残高の隣へ、婚礼の支出を並べた。
計算は、難しくなかった。
使わずにいれば、返せていた。
領地の収入が突然途絶えたわけでも、大きな災いが起きたわけでもない。
「借り入れの申請が進まなかったので、先にこちらから出すことにしたんだ」
ヨルクは、オスモさんへ顔を向けた。
「だから、秋の入金まで待っていただきたい。今までも、そうしてきたでしょう」
オスモさんは、彼の出した返済案に目を落とした。
「その入金から支払う、ほかの費用はどうなっていますか」
「そこは……トーヴェが、うまく調整できるはずです」
彼が、私を見た。
以前なら、このあたりで私が口を挟んでいた。
支払いを重ねない順番を考えて、先方と話して、どうしても足りない分を自分で用意して。
今日は、鞄から新しい案を出さなかった。
「私は引き受けていません」
「またその話か」
ヨルクが眉を寄せる。
「君がいつものように頼んでくれれば、こんなことにはならなかったんだ。結婚を控えた家に、今すぐ返せと迫るのは――」
「今日の返済日は、婚礼が決まる前からお約束いただいていた日です」
オスモさんの声は、静かだった。
「こちらが期日を早めたわけではありません」
私は、自分への返済日が書かれた借用書を卓上に置いた。
「私も、約束した日に返していただくために来ました」
「今は、そう言わずに」
「そのお金を使ったのは、私ではありません」
自分の声が、はっきり聞こえた。
ヨルクの口が止まる。
「返済のお金を婚礼に回したのは、あなたの判断です。私が相談役を続けないことも、その前にお伝えしました」
私は確認書の写しを出した。
仕事を終えることを記した一文の下に、彼の署名がある。
ヨルクはそこを見て、唇を結んだ。
「お姉様」
ベルタが身を乗り出した。
「そうやって書いたものばかり並べなくてもいいでしょう。私たち、家族なのに」
私は妹の顔を見た。
「返す約束をしたお金の話よ」
「分かっているわ。でも、一生に一度の婚礼なの。そんな時くらい、助けてくれても」
「これまで貸した分を返してもらわないと、私も自分の暮らしに使えないの」
ベルタは口を閉じた。
私にも買いたいものがある。
住む家を整えたいし、仕事のために借りた場所の代金も払う。
それを一つずつ説明して、妹の婚礼より必要なのか、許可をもらうつもりはなかった。
◇
「なぜ、以前と同じようにできないのでしょう」
ヨルクが、オスモさんへ尋ねた。
「帳簿も、今後の収入の記録もあります。前から、これで話をしていたはずだ」
「以前は、支払いのために残す金が、残されていました」
オスモさんが、古い支払いの記録を開いた。
「猶予が必要な時には、いつ、どの収入から支払うかを、トーヴェ様が説明されました。入金が変われば、その都度ご連絡もいただいています」
彼の指が、一つの日付で止まった。
「この時は、予定の入金が遅れても、こちらへの支払いはありました」
「私が立て替えました」
私は答え、手元の借用書を示した。
同じ日付が記されている。
ヨルクの目が、二つの紙の間を動いた。
「支出を減らしても足りない時だけ、お金を出していました。毎回、お願いの一言で済んでいたわけではありません」
オスモさんが頷いた。
「お約束どおり支払われてきたので、次のご相談にも応じられました。今回は、返済に充てるとされていた金が、別の支払いに使われています」
私は、衣装の注文書を見た。
あの日、ベルタが頬に寄せていた白い絹。
それに加える刺繍や飾りまで、細かく書き込まれている。
身内だけの、小さな式でいい。
新しい衣装もいらない。
そう伝えた時の自分を思い出した。
胸の奥が痛んだ。
けれど、この衣装を私に着せてほしいとは、もう思わなかった。
「……君が、これを全部、毎回考えていたのか」
ヨルクの声に顔を上げた。
彼は、私が持ってきた借用書の束を見ていた。
「はい」
「帳簿があれば、引き継げると思っていた」
「どこへいくら払うかは、引き継いであります」
私は卓上の記録を示した。
「書いてあるお金を残しておくか、別のことに使うかは、あなたがお決めになったことです」
ヨルクは返事をしなかった。
◇
「それで、どうするのよ」
ベルタが、沈黙を破った。
「お姉様が嫌だと言い続けたら、いつまでも話が終わらないわ」
オスモさんが、婚礼の注文書を二枚、前へ出した。
「こちらの会場と貸馬車は、取りやめれば、支払済みの一部が戻ります。式の規模を変えるご予定はありませんか」
ベルタの眉が上がった。
「会場を変えるのですか?」
「お屋敷で式を挙げ、今お持ちの馬車を使うのであれば、その費用は減らせます」
ヨルクは、紙に書かれた返金の条件を読んだ。
ベルタも覗き込む。
「それを返済に使うということね」
「はい。戻る金と、現在お持ちの金で足りない分は、別に用意していただきます」
オスモさんが確認すると、ベルタは首を振った。
「無理よ。もう招待状を出したのに。今さら会場を小さくしたら、何と思われるか」
「ベルタ」
「あなたが、望むような式にしていいと言ったのよ」
妹の声が高くなった。
「新しいドレスを着て、あの馬車で会場へ行くの。みんなにも話したわ。お金を返すためにやめましたなんて、言えないでしょう」
私は、その言葉を聞いていた。
お金が足りないのだと、妹は分かっている。
戻せる費用があることも理解した。
その上で、やめたくないと言っている。
「……ほかの方法を考えよう」
ヨルクが言うと、ベルタは彼の腕を取った。
私は借用書を揃えた。
「でしたら、何を返済に充てるのか、お聞かせください」
ヨルクの視線が私へ戻る。
「少しだけ、待ってくれないか」
「いつまで、何を待つのでしょうか」
彼は口を開きかけ、閉じた。
今までの私は、その言葉を言われると、日付を聞くのをやめていた。
聞けば彼を追い詰めると思っていた。
今日は、答えを待った。
しばらくして、ヨルクが言った。
「別荘を売る。使っていない時期の方が長い。それに、私の馬車もある」
ベルタが顔を上げた。
「別荘を?」
「返さなければいけないんだろう」
彼は妹を見ずに答えた。
オスモさんが、それぞれの見込み額と、売却の手配について尋ねた。
ヨルクは答え、仲介の手続きを自分で進めると述べた。
「値を惜しんで期限に遅れないよう、仲介人にも伝える」
私は、自分への返済が含まれているかを確かめた。
売却するもの。
返す金額。
三週間後という、新しい期限。
売却金は、ほかの支出へ回す前に、今回の返済へ充てる。
買い手から商会へ直接納めてもらい、各貸し手への返済に分ける。
ヨルクもその受け取り方に同意し、私たちは条件を書面にした。
ベルタは、まだ不満そうに紙を見ていた。
ヨルクはペンを取ったものの、しばらく名前を書かなかった。
「三週間あれば、もっとよい方法が見つかるかもしれない」
彼が言った。
私は、もう条件が書かれた紙を見た。
「では、それも含めて、期限までに返済をお願いします」
彼のペン先が動いた。
◇
書面の控えを受け取ると、私は鞄へしまった。
以前と同じように、今日も紙が増えた。
ただ、私がこれから支払うための紙ではなかった。
ヨルクたちが選んだ婚礼は、まだ取りやめられていない。
返済のためには、彼自身の持ち物を売ることになった。
鞄の留め金を閉じ、手袋をはめた。
私は椅子を引いて立ち上がった。
「それでは、失礼いたします」
ヨルクが顔を上げた。
私の鞄を見て、それから、私の顔を見る。
「トーヴェ」
立ち止まると、彼は少し言い淀んだ。
「二人だけで、もう一度話せないか」
私は、卓上の書面へ目を向けた。
「返済についてでしたら、今、皆様のいらっしゃるところで伺います」
「その話じゃない」
彼の手が、書面から離れた。
「君とのことを、話したい」




