第5話 何でもいい、ではない返事
出かける前に、私は何度も鏡を覗いた。
袖口に細いレースのついた、淡い青のドレス。
いつもは手早くまとめる髪も、今日は少しだけ時間をかけた。
これでおかしくないだろうか。
そう考えてから、もう一度鏡を見る。
好きな服を着ているはずなのに、落ち着かない。
鞄には手帳とハンカチを入れた。
書類を入れないと、こんなに軽いのかと思った。
広場の菓子店に着いたのは、三時の少し前だった。
扉を開けると、甘い焼き菓子の匂いがした。
窓辺の席にいたニーロ様が、こちらに気づいて立ち上がる。
「トーヴェ様」
名前を呼ばれて、緊張が少しほどけた。
「もういらしていたのですね」
「ええ。お待ちしていました」
席へ近づくと、彼は私を見て微笑んだ。
「そのドレス、よくお似合いです」
私は袖口に触れた。
「ありがとうございます。気に入っている服なんです」
「そうでしたか」
ニーロ様の視線が、袖から私の顔へ戻った。
その目と合うだけで、少し頬が熱くなる。
椅子に座り、手袋を外した。
向かいの席にも、今日は書類がない。
「この店でお茶を飲むのは、初めてですか」
「はい。前は何度も通っていたのですけれど」
「でしたら、お菓子もぜひ。どれになさいますか」
彼が、小さな品書きをこちらへ向けた。
林檎のタルト。
胡桃と蜂蜜の焼き菓子。
干した果実の入ったケーキ。
「私は、何でも」
言いかけたところで、隣の席へ運ばれていく皿が目に入った。
薄く切った林檎が重なって、きれいな焼き色がついている。
あれを食べたい、と思った。
「……林檎のタルトを、いただきたいです」
言い直すと、ニーロ様は品書きへ目を戻した。
「私は胡桃の方にします」
注文を取りに来た店の人へ、私は自分の食べたいものをもう一度伝えた。
声にしたら、運ばれてくるのが楽しみになった。
◇
お茶が注がれると、細い湯気が上がった。
私はカップを持ち、何を話そうかと考えた。
橋の工事は、どうなったのだろう。
書類に不足はなかっただろうか。
尋ねかけて、口を閉じた。
今日は、仕事の相談ではない。
それは分かっているのに、ほかの話を選ぶのが難しかった。
「お休みの日には、何をなさっているんですか」
ニーロ様に聞かれ、私は少し考えた。
「本を読むのが好きです」
「どのような本を?」
「旅の話を。知らない町や、見たことのない景色が書いてあるものが」
話し始めると、窓辺に置いてきた本の表紙が浮かんだ。
ヨルクの家から持ち帰った、読みかけの一冊。
ずっと途中で止まっていたのを、昨夜、ようやく少し先まで読めた。
「今読んでいるのは、海辺の町を巡る話です。挿絵のある頁が好きで、そこばかり開いてしまうのですけれど」
「海がお好きなのですか」
「見てみたいんです。まだ、行ったことがなくて」
言ってから、少し照れた。
どんな本を読むのか聞かれただけなのに、してみたいことまで話していた。
「ニーロ様は、お休みの日に何を?」
「馬に乗ります。用事で出かける時と違って、行き先を決めずに」
私は頷いた。
背筋を伸ばして馬に乗る姿は、容易に想像できた。
「ただ、道が傷んでいると、修繕のことを考えてしまいますね」
「お休みなのに?」
「ええ。戻る頃には、確認することが増えています」
彼が困ったように笑ったので、私もつられて笑った。
「本を読んでいる時くらい、私もほかのことを考えずにいられたらと思います」
「途中で用事を思い出しますか」
「よく。あとで書こうと思っていると、気になってしまって」
「分かります」
その返事がおかしくて、肩の力が抜けた。
そうして話しているうちに、お菓子が運ばれてきた。
私の前には、さっき見た林檎のタルト。
ニーロ様の前には、艶のある蜂蜜をまとった胡桃の焼き菓子が置かれた。
一口切って食べると、端の生地がさくりと割れた。
温かい林檎には、少し酸味が残っている。
「……おいしい」
思わず言うと、ニーロ様が頷いた。
「ええ」
彼は自分の皿を見ていた。
一口目を食べた時から、ずいぶん幸せそうな顔になっている。
「本当に、お好きなのですね」
「かなり」
ためらいのない返事だった。
彼はもう一口食べ、それから、小さく息をついた。
「もっとゆっくり食べようと思っていたのですが」
お皿を見ると、私のタルトよりもずっと減っていた。
私は笑ってしまった。
書類を一枚ずつ確かめていた人が、こんなに真剣に、お菓子の減り方を気にしている。
「もう一つ、頼まれては?」
「そうすると今度は、どれにするかで悩むんです」
「そちらの方が、難しい問題なのですね」
「この店では、そうですね」
つい声を立てて笑い、慌てて口元を押さえた。
「すみません」
「いえ」
ニーロ様も笑っていた。
「仕事中とは違う笑顔ですね」
私はカップへ手を伸ばしかけて、止めた。
「今日、お会いできてよかった」
柔らかな声だった。
からかわれているのではないと分かって、かえって何も言えなくなる。
うれしい。
けれど、どう返したらいいのだろう。
「海のことを話す時、目が輝いていらっしゃいましたね」
「そんなに、顔に出ていましたか」
「ええ。あなたが何を好きなのか、もっと知りたいと思いました」
私は、胡桃のお菓子を見る時のニーロ様の顔が好きだと思った。
口に出すにはまだ恥ずかしくて、カップを持ち直す。
お茶を飲んでも、頬の熱は引かなかった。
◇
二杯目のお茶を飲む頃には、窓から入る光が、少し傾いていた。
「こういう時間は、久しぶりです」
ニーロ様が、空になった皿の脇にカップを置いた。
「お忙しいのですね」
「領地にいると、仕事の話をしない日がないものですから。好きでやっているのですが、ときどき、食事の時まで一人なのは寂しいと思います」
私は彼の顔を見た。
仕事の時には、いつも自分ですることを決めていた。
迷うことはあっても、心細そうには見えなかった人だ。
「帰ってから、今日あったことを誰かに話せたら、と思うんです。大したことでなくても」
ニーロ様は、窓の外へ目を向けた。
「道端に珍しい花が咲いていたとか、よい菓子店を見つけたとか。仕事の報告を済ませると、そういう話はしないまま、一日が終わるので」
私は、カップを両手で包んだ。
同じ卓でお茶を飲んで、今日、何があったのかを話す。
私が結婚したらしたいと思っていたのも、そういうことだった。
「……今日は、お菓子の話ができますね」
「ええ。どれを食べたのか、聞いてくださる方がいれば」
彼がこちらを見た。
「私も、胡桃の方が気になっていました」
「では、どのくらいおいしかったか、ご説明しましょうか」
「お願いします」
私が真面目に頷くと、彼の目元が緩んだ。
ひとしきり聞いてから、今度は私が林檎のタルトの話をした。
少し温かかったこと。端が香ばしかったこと。
甘いものと聞いて想像していたよりも、後味が軽かったこと。
ニーロ様は、それを面白そうに聞いていた。
「次に来たら、そちらも頼んでみます」
「私も、胡桃の方を」
言ってから、目が合った。
次に、という言葉が、二人の間に残った。
私はカップを置き、少し笑った。
役に立つ話を探さなくても、まだ話していたかった。
◇
店を出る前に、ニーロ様が尋ねた。
「お帰りは、どうなさいますか」
「歩いて帰ります。家は、それほど遠くありませんので」
「途中まで、ご一緒してもよろしいですか」
私は頷いた。
広場を抜けるまで、並んで歩いた。
彼は私が角を曲がるところで足を止めた。
「今日は、ありがとうございました」
私から言うと、彼は首を少し傾けた。
「こちらこそ。お付き合いいただけて、うれしかったです」
楽しかったのは、私も同じだった。
ただ、その返事を待つだけで終わりたくなかった。
「私も、楽しかったです。また、ニーロ様のお話を聞きたいです」
言ってしまうと、鼓動が速くなった。
彼は私を見て、ゆっくり微笑んだ。
「ぜひ。私も、旅の本の続きが気になっています」
私は頷いた。
次に会えたら話したいことが、もう一つできた。
別れてからも、しばらく口元が緩んでいた。
林檎のタルトが食べたいと、自分で言った。
楽しかったとも、また話したいとも。
どれも、口にする前に思っていたほど、難しいことではなかった。
私は少し遠回りをして、通りの花屋を覗いてから家へ戻った。
◇
手袋を外していると、階下から使いが来たという声がした。
届いたのは、オスモさんからの手紙だった。
商会の封を切ると、いつもの挨拶のあとに、ハーゲ家の名があった。
私は、読みかけたところへ視線を戻した。
『ハーゲ伯爵より、予定どおりの返済が困難であるとの申し入れがございました』
続いて、支払いについて協議する日と場所が記されていた。
私が立て替えた分の返済にも関わるため、貸し手の一人として出席してほしいという。
帳簿をつける者としてでも、取りなす者としてでもない。
私は椅子に腰を下ろし、もう一度読み直した。
『返済に充てる予定の資金が、不足しているとのことです』
足りないはずがなかった。
私が最後に確かめた時には、確かに足りていた。
使わないでほしいと伝えた。金額も、支払う日も、書き残してきた。
私は引き出しを開け、借用書と、引き継ぎの際の控えを取り出した。
残してきたお金が、どこへ行ったのか。
今度は、私が説明を聞く番だった。




