第4話 私の名前で、頼まないでください
「お引き受けしていません」
私は、申込書から顔を上げた。
「この申し込みも、今初めて知りました。ヨルク様の代理で、こちらと相談することはありません」
オスモさんは頷き、書類を手元へ戻した。
「承知しました。ご本人に、担当者の変更と、現在の返済案の提出をお願いします」
「婚約解消と、仕事を終えたことを確認する書面もあります。明日の朝、写しをお届けします」
「では、こちらで保管しましょう」
話がそれで済んだことに、私は少し戸惑った。
何か一つ、言い足さなくてはいけない気がした。
急に関わらなくなって申し訳ないとか、困っているなら今回だけはとか。
けれど、私が新たな借り入れを申し込んだわけではない。
「今ある帳簿は、すべて引き継いでいます。支払先との約束も、書き残してあります」
「でしたら、その資料をもとに、ご本人が説明できますね」
オスモさんは、ハーゲ家の申込書をほかの書類と分けて置いた。
私の名前を書くだけでは、話は進まない。
それを確かめて、ようやく鞄を持ち直した。
「よろしくお願いいたします」
商会を出ると、通りに午後の光が差していた。
伯母との約束には、まだ間に合う。
私は待ち合わせの場所へ向かった。
◇
翌朝、署名のある書面の写しを商会へ届けた。
今後はハーゲ家の代理を務めない旨も書き添え、受け取ってもらった。
その帰りに、ドレン伯爵から届いた資料を預かった。
約束どおりの、午前中だった。
職人たちと相談してきた支払いの条件と、地代が入る日付。
前の面会で確かめたいと伝えたところには、短い説明も添えられていた。
私は家へ戻り、窓辺の机にそれらを広げた。
途中で一度、お茶を淹れた。
熱いうちに半分飲み、残りの計算を確かめる。
夕方には、案の形が整った。
ヨルクからの手紙が届いたのは、筆を置こうとした時だった。
『商会から、私が出向いて返済の計画を説明するようにと言われた。領地の見回りも婚礼の準備もあるのに、困っている』
見慣れた文字が続いていた。
『君がこれまでどおり調整すると、一言伝えてくれればいい。名前を書いたのは、その方が早く話が進むからだ。ベルタも支払いが決まらないと困ると言っている。妹の祝い事なのだから、意地を張らないでほしい』
私は、手紙を机に置いた。
婚約を終え、仕事をやめたことが、意地を張っていることになるらしい。
今ある資金と支払いの予定を確かめ、計画を説明するべきなのは彼だ。
私に一度頷かせれば済む話ではない。
そう思ったのに、返事を書き始めると、違う言葉が出てきた。
意地を張っているわけではありません。
私は七年間、あなたとの結婚を待っていました。
そこまで書いて、手が止まった。
この続きを、読んでほしいのだと思う。
どれほど楽しみにしていたか。どれほど傷ついたか。
分かってくれたら、せめて、こんな頼み方はしなくなるかもしれない。
でも、そのことはもう伝えた。
分かってもらえなかったことが悲しくて、何度でも同じ説明を始めてしまいそうだった。
私は書きかけの紙を脇へ置いた。
もう一枚、白い紙を取る。
『婚約解消時に確認したとおり、ハーゲ家の支払いに関わる仕事は終えています。私は代理人ではありません。新たな借り入れは、ご自身で商会とご相談ください』
最後に、一行を加えた。
『私の名前で、頼まないでください』
読み直し、署名して封をした。
これ以上書き足さず、返事を使いに託した。
机に戻ると、ドレン伯爵の資料がそのまま広がっていた。
私は完成した案をもう一度確かめた。
人に見せられるように清書を終えた頃には、窓の外が暗くなっていた。
明日は二時に、これを届ける。
◇
「こちらが、最終の案です」
翌日の午後二時。
私は商会の応接室で、ドレン伯爵と向かい合っていた。
職人側の希望を確かめると、材料費の支払いは、私が最初に考えた日より少し早い方がよかった。
その分を直し、工賃を支払う日と、地代が入る日を合わせて、無理のない順に並べた。
入金が遅れた場合に必要となる額も、別に記した。
その備えは、彼が自分で用意すると言っていた。
「工事を始める前に、先方へ確認していただくのは、この二点です」
説明を終えると、彼は綴りを最初から見直した。
「何を、いつまでに決めればいいか、分かりやすいですね」
私が印をつけたところを、指でたどっていく。
「職人への最終確認は、私がします。入金が遅れた時の用意も、こちらで進めます」
「はい。日程が変わった場合は、その都度、支払いの方も確かめてください」
彼は頷いて、綴りを閉じた。
「これで、工事を進められそうです。ありがとうございました」
胸の奥が、ゆっくり温かくなった。
彼は案を受け取り、自分で動こうとしている。
私が毎日傍にいて、代わりに頼み続ける必要はないのだ。
照合と計画の作成に対する報酬も、約束した額で受け取った。
領収証を渡すと、彼はそれを書類と一緒に鞄へしまった。
今回の仕事は、これで終わりだった。
ほっとした。
間違いがないか、説明が伝わるか、昨夜まで何度も気にしていたから。
私は手元の控えを揃えた。
次の面会の日を、決める必要はない。
そう思うと、紙を片づける手が遅くなった。
「トーヴェ様」
呼ばれて、顔を上げた。
「もう少しだけ、お話ししてもよろしいですか」
「はい。まだ、お時間はありますので」
私は閉じかけた手帳を開いた。
「追加のご相談でしょうか」
「いえ」
彼は一度、鞄へ目を落とした。
それから、私に向き直る。
「よろしければ、今度、お茶をご一緒していただけませんか」
私はペンを持ったまま、動きを止めた。
「……お茶、ですか」
「はい」
「お仕事のお話を?」
尋ねると、彼は少し笑った。
「仕事の話も楽しいのですが、それだけで終わるのが、残念になりまして」
私は、手帳の何も書かれていない頁を見た。
書類があれば話せる。
尋ねることも、答えることも分かる。
それを持たずに、この人の向かいに座るのだろうか。
「私と、お話ししたいということですか」
口にしてから、ひどく率直な聞き方になってしまったと気づいた。
彼はからかわなかった。
「ええ。あなたと、もう一度お会いしたいと思っています」
耳まで熱くなった。
うれしい、と思った。
その気持ちに、自分でも驚いた。
まだ、ヨルクとのことを思い出せば悲しくなる。
婚約解消の書面を片づけたばかりなのに、ほかの人から誘われて、うれしくなってもいいのだろうか。
「あの、私は……婚約を解消したばかりなのです」
彼の表情が、少し改まった。
「そうでしたか」
私は、膝の上で指先を重ねた。
なぜ解消したのかと聞かれたら、何と答えよう。
七年も待って、妹が選ばれたのですと、この人にも話すのだろうか。
「急なお誘いでしたね。ご負担でしたら、今のお話は忘れてください」
彼がそう言ったので、私は顔を上げた。
「いいえ」
考えるより先に、返事が出た。
彼は黙って待っていた。
私は自分が何を言いたいのか、もう一度確かめた。
「……ご一緒したいです。お茶に」
それが、今の気持ちだった。
ドレン伯爵の口元がほころんだ。
その顔を見たら、つられて私も笑っていた。
「ありがとうございます。ご都合のよい日はありますか」
「いつでも大丈夫です」
答えてから、手帳へ目を落とした。
仕事の案内を作る日も、家の用事を済ませる日も、自分で決めていた。
全部動かしてしまわなくても、会える日はある。
「いえ、五日後の午後でしたら。三時はいかがでしょう」
「空いています。では、その日に」
彼も手帳を出した。
仕事の日取りを決めた時と同じように、私が選んだ日を書き留める。
「広場に面した菓子店をご存じですか」
「ええ。前を通ったことはあります」
「焼き菓子のおいしい店です。よろしければ、席を頼んでおきます」
「ありがとうございます」
場所と時刻を書きながら、胸が落ち着かなかった。
もう一つ何か、聞いておくことはあるだろうか。
必要な資料も、確認する金額も、今回はない。
「それから」
彼が少しだけ身をかがめた。
「次にお会いする時は、ニーロと呼んでいただけるとうれしいです」
私は顔を上げた。
「……ニーロ様」
「はい」
初めて呼んだ名前に、穏やかな返事があった。
「では、五日後に」
「楽しみにしています」
彼を見送ってから、私は手帳を開き直した。
午後三時。
広場の菓子店。
ニーロ様と、お茶。
書いたばかりの文字を、指先でそっと押さえた。
仕事の時と同じドレスで、行ってもいいだろうか。
そう考えて、窓に映る自分を見る。
別の服を選んでもいいのだ。
髪を、いつもより少し丁寧に整えても。
今度は帳簿を抱えずに、彼に会いに行く。




