第3話 約束の時間に来る人
「トーヴェ・エルケン様ですね」
午後二時を知らせる鐘が、まだ鳴っていた。
顔を上げると、商会の応接室の入口に男性が立っていた。濃い茶色の髪を短く整え、腕に厚い書類の綴りを抱えている。
「ニーロ・ドレンです。本日は、よろしくお願いします」
立ち上がると、思っていたより背の高い人だった。
差し出された手を握り返す。手袋越しにも、しっかりした指の形が分かった。
「トーヴェです。どうぞ、お掛けください」
椅子を勧めながら、壁の時計に目が行った。
針は、二時を指している。
「時間を間違えましたか?」
「いいえ。お約束どおりです」
私は慌てて首を振った。
時間どおりに来てくださっただけで、驚いた顔をしてしまった。
依頼を受ける側の私が、これではいけない。
卓上の紙を揃え、彼へ向き直る。
「本日は三時まで、こちらをお借りしています」
「はい。手紙で拝見しました」
彼は綴りを置き、外套を脱いだ。
私の最初の依頼人だった。
◇
三日前、オスモさんは約束した時刻に私を迎えてくれた。
その朝、伯母から、両家への婚約解消の届けも済んだと聞いていた。
ヨルクとの婚約を解消し、あの家の仕事も終えたことを伝えると、驚いた様子だったが、詳しい事情は尋ねなかった。
「今後はこちらの仕事を、有償で受けたいということですね」
「はい。ただ、お金を払ってまで頼んでくださる方がいるかは……」
言い淀む私に、オスモさんは一通の手紙を示した。
この町から馬車で半日ほどのところに領地を持つドレン伯爵が、支払いの計画について相談できる者を探しているという。
「ご紹介はできます。条件は、ご本人とお決めください」
私は頷き、相談に使う場所も借りられないかと尋ねた。
商会の奥の応接室なら、空いている時間に使わせてもらえることになった。
料金は、利用した時間に応じて支払う。
家賃の収入から無理なく出せる額なのを確かめて、お願いした。
それから相談料を決め、必要な書類を手紙で伝えた。
初めての面会は、今日になった。
誰かに頼まれて空けておくのとは違う一時間。
昨夜は不安で、何度も話す順番を考え直した。
◇
「見積書と、工事の日程です。こちらが領地の収入と、決まっている支出」
ドレン伯爵は、私がお願いした書類を順に並べた。
途中で一枚、彼の手が止まった。
「これは、古い方の見積ですね。失礼しました」
脇へよけた紙には、細かな書き込みがあった。
「そちらも、見せていただけますか。変更した理由が分かると助かります」
「捨てずに持ってきてよかった」
彼は少し笑った。
それまで真面目そうに見えた顔が、思いがけず柔らかくなった。
私は手元へ目を戻すのが、一拍遅れた。
「橋の修繕を、収穫の時期までに終えたいのです」
私は説明を聞きながら、日程に目を通した。
古くなった橋を直す必要があるが、費用の全額を先に取り分けると、今月のほかの支払いが苦しくなる。
「着工を待てば、お金は揃います。ただ、それでは収穫物を運ぶ頃に工事が重なってしまう」
彼は自分で作った支払いの案も出した。
「途中で工賃を払えなくなるのは避けたい。見落としがあれば、指摘していただけますか」
私は収入の欄と、工事の日程を見比べた。
「この地代は、月末に入る予定でしょうか」
「ええ。支払いの日は決まっています」
「遅れたことは?」
「ほとんどありませんが、念のため確かめましょう」
彼は手帳を出して、私の質問を書き留めた。
私は肩の力を少し抜いた。
事情を聞くたび、面倒そうな顔をされることはなかった。
「職人の方への支払いですが、総額だけ記されています。全額を、着工前にお渡しするお約束ですか」
「いえ。支払い方は、まだ相談していません」
「でしたら、材料を仕入れる時、工事の途中、完成した時に分けられないか、確かめてはいかがでしょう」
材料代と、最初に必要な工賃なら、今の資金で用意できる。
その後の支払いまでには、地代の入金を挟めるかもしれない。
私は紙に日程を並べ直した。
「ただ、先方にも支払いがあります。こちらの都合だけで分けるわけにはいきませんので、いつ、いくら必要なのかを聞いてからですが」
彼が身を寄せて、紙を覗き込んだ。
袖が触れそうになり、私は少しだけ腕を引いた。
「なるほど。工事を遅らせずに済むかもしれないんですね」
顔が近かった。
頷こうとして目が合い、私は、紙を彼の方へ向け直すことに集中した。
「……はい。ほかの支払いと重ならないかも、確認いたします」
彼は自分で手帳を開き、職人への確認事項を足していった。
「地代の入金が遅れた場合も、考えておきたいですね」
「そうですね。足りない分は、私が一時的に」
言いかけて、口を閉じた。
机の下で、左手を握る。
もう指輪はない。
「申し訳ありません。今の申し出は、取り消させてください」
顔が熱くなった。
やめると決めたばかりなのに、困ると分かれば、また自分のお金を出そうとした。
ドレン伯爵は、私が顔を上げるのを待ってから頷いた。
「承知しました。あなたのお金を借りる依頼ではありませんから」
責める声ではなかった。
「借り入れが必要なら、私が条件を確かめます。ここが危ないと、教えていただけるだけでも助かります」
彼は、入金の日に印をつけた。
「この日がずれた場合の案も、お願いできますか」
「……はい」
私がお金を出さなくても、相談は続いた。
彼は不機嫌にならず、私の話を聞いている。
私は固く握っていた手を開き、ペンを取り直した。
◇
職人側の支払い条件と、地代の正確な入金日を確かめてから、最終の案を作ることになった。
「確認したものを、商会に届けます。それを見て、続きをお願いしたいのですが」
私は料金を書いた紙を手前に引いた。
次の言葉が、少し言いにくい。
「今日の相談とは別に、書類の照合と計画の作成にも、報酬をいただきます」
短く息を継いで、必要な作業と金額を書き添えた。
ドレン伯爵は紙を読み、日程を確かめた。
「この内容でお願いします。資料は明日の午前中までに届けます」
「では、二日後の午後でしたら、改めてご説明できます」
「何時がよろしいですか」
私が決めていいのかと、聞きそうになった。
手帳を開き、空いている時刻を確かめる。
「今日と同じ、二時でお願いできますか」
「二時ですね」
彼も、自分の手帳に書き入れた。
当たり前のやり取りなのだろう。
それでも私は、彼のペンが動くのを見つめてしまった。
「では、今日はこのあたりで」
そう言われて時計を見ると、三時になろうとしていた。
「あの、まだお聞きしておきたいことが」
「次にお会いする時では、間に合いませんか?」
手元の紙を見直す。
今すぐ決めなければいけないことではなかった。
「……間に合います」
「よかった。お約束は三時まででしたから」
彼は綴りを整え、立ち上がった。
このあと、伯母と生活の品を買いに行く約束がある。
急いで帰って支度をすれば、と思っていたけれど、急ぐ必要はなさそうだった。
「本日の相談料は、こちらでよろしいですね」
決めておいた額が、卓上に置かれた。
私は受け取って確かめ、用意していた領収証に名を書いた。
ペン先が少し震えた。
「ありがとうございました」
紙を差し出すと、彼は丁寧に受け取った。
「こちらこそ。話を聞いていただけてよかった」
顔を上げる。
彼は私を見て、笑っていた。
「次も、よろしくお願いします」
次がある。
そのことがうれしくて、今度は私も自然に笑えた。
「お待ちしております」
彼が出ていってから、私は領収証の控えを、しばらく眺めていた。
仕事の最初の一件が終わった。
無事に話せたし、報酬も受け取れた。
それなのに、何度も思い出すのは、私を見て笑った顔だった。
◇
紙を鞄に収め、部屋を整えてから、オスモさんの机へ向かった。
応接室の利用料を支払うと、彼が一通の書類を出した。
「お帰りの前に、一つだけ確認させてください」
「何でしょう」
「先日伺ったお話と、違う内容の申し込みが届きまして」
私の前へ向けられたのは、新たな借り入れの申込書だった。
ハーゲ伯爵家。
その文字に、鞄を持つ手が止まった。
「あなたのお名前が記されていましたので。改めてお引き受けになったのでしょうか」
私は書類を見た。
支払い調整の担当者 トーヴェ・エルケン。
その下には、今後も従来どおり私が商会との相談を引き受けると書かれていた。
申込人の欄にあるのは、ヨルクの署名だった。
同じ文字で、彼は四日前、私が仕事を終えるという確認書に署名した。
私はもう、あの家の鍵さえ持っていない。
それなのに、私の名前はまだ、彼がお金を借りるために使われていた。




