第2話 婚約者だけ交代、とはいきません
「この一文は、消してもいいんじゃないか」
翌朝、ヨルクが指で押さえたのは、婚約解消の書面に添えた確認書だった。
今後、ハーゲ家の支払いの調整と、新たな金銭の立て替えは引き受けない。
昨夜、私が書き入れた一文だ。
「必要ですので、消せません」
私が答えると、彼は向かいの椅子に座る伯母を見た。
「ヘッダ夫人からも、何か言っていただけませんか。急にこんな話をされては、こちらも困ります」
伯母は、私に顔を向けた。
「トーヴェ。説明したいことは、まだある?」
私は頷いた。
昨日の夜、事情を話した時も、伯母は私がどうしたいのかを先に聞いてくれた。
「帳簿は整理してあります。支払先と期日、先方との約束も、こちらに書き出しました」
薄い綴りを、ヨルクの前へ置く。
「これを引き継いでください。必要なら、後任の方を雇っていただければ」
「人を一人雇うほどの仕事か? 君も空いた時間にやっていただろう」
彼に会えると思って出かけた日に、書斎で計算をして帰った。
約束が取りやめになった午後には、代わりに商会を訪ねた。
たしかに、その時間に別の用事はなかった。
「これからは、私の用事を入れます」
ヨルクは小さく息を吐き、次の紙をめくった。
立て替えたお金の一覧だった。
「金の話までしなくても」
「金額に間違いはありませんか。借用書とも照らし合わせてあります」
彼の視線が、数字を上から下へ動く。
読み終えるまで、私は待った。
「……間違ってはいない」
「では、確認の署名をお願いします。返済の日は、これまでの約束どおりです」
婚約を解消するからといって、今すぐ全額を持ってこさせるつもりはなかった。
彼が借りたお金を、約束した日に返してもらう。それだけだ。
私の立て替え分は、商会への返済と同じ日にまとめて返すと、以前に決めてあった。
「昨日お伝えした返済日に必要な分は、すべて残してあります。そのお金には手をつけないでください」
「分かったよ。それは昨日も聞いた」
ヨルクがペンを取った。
私は、膝の上で両手を重ねた。
昨日から何度も練習した言葉なら言える。けれど、彼の名前が紙に書かれていくところは、見ているのがつらかった。
成人した者同士の婚約は、双方の署名で解消できる。
二通の書面には、先に私の名を記してあった。
彼はそれぞれを読み、署名した。
私が関わっていた仕事を終えるという一文にも、線は引かなかった。
「これでいいだろう」
ペンを置く音がした。
七年待っていた結婚の日取りは、最後まで決まらなかった。
婚約を終える日は、昨日申し出て、今日になった。
私はインクが乾くのを待ち、一通を自分の鞄にしまった。
「両家への届けは、私も確認いたします」
「そこまで大げさにする必要はないと思うがね」
伯母が立会人の欄に署名するのを、ヨルクは見ていた。
私は、その間に小さな箱を卓上へ置いた。
今朝、外してきた指輪だった。
彼の指が箱の縁に触れた。
私はその手を見ないように、鞄の留め金を閉じた。
書斎の扉が開いたのは、その時だった。
「お話は終わった?」
入ってきたベルタは、卓上の指輪を見て、それから私に微笑んだ。
「ありがとう、お姉様。これで安心して準備ができるわ」
伯母が口を開きかけた。
私は小さく首を振った。
「帳簿のことも、今日で引き継ぎを終えるから」
「……どういうこと?」
妹の笑顔が止まった。
「これからの支払いは、ヨルク様と相談してちょうだい」
「昨日の話、まだ怒っているの? でも、わたしの姉でなくなるわけじゃないでしょう」
私は一度、息を吸った。
「ええ。けれど、あなたの結婚相手の借金まで引き受ける約束はしていないわ」
「そんな、借金だなんて。お祝いのお手伝いをしてほしいだけよ」
私は卓上の綴りを、ベルタの方へ少し向けた。
「婚礼にいくら使えるか、お二人で確かめて。支払いの予定は、ここに全部書いてあるから」
妹は紙に手を伸ばさなかった。
代わりに、ヨルクの腕に触れた。
「もういいだろう。トーヴェも、少し休みたいんだ」
彼はベルタをなだめてから、私へ視線を戻した。
「気が済むまで休むといい。困ったら、また来ればいいから」
私は鞄を持って立ち上がった。
椅子を戻す音が、思ったより大きく響いた。
◇
書斎の隣には、私が使っていた小さな仕事部屋がある。
引き出しを空にし、予備の手袋と、膝に掛けていた薄い毛織物を箱へ収めた。
窓辺の机に、私物の本が一冊残っていた。
ヨルクを待つ間に読もうと持ってきて、いつも数頁で閉じていた本だ。
紙の間から、返済の日を書いたメモが落ちた。
メモは帳簿の横へ、本は箱の中へ入れる。
七年通った部屋から持ち帰るものは、それで全部だった。
私は書斎へ戻り、二つの鍵を机に置いた。
仕事部屋と、帳簿をしまう戸棚の鍵だ。
「それでは、失礼いたします」
ヨルクが顔を上げた。
何か言いかけたように見えたけれど、私はもう待たなかった。
伯母と一緒に玄関を出る。
馬車には、朝のうちに実家から運び出した衣装箱も載せてあった。
「忘れ物はない?」
「ええ」
答えてから、私はもう一度だけ箱の中を見た。
本も、手袋も、ちゃんとある。
それなのに何かを忘れた気がして、膝の上で指を組んだ。
指輪のなくなったところを、右手で覆った。
馬車が動き始めても、ヨルクは出てこなかった。
◇
母から受け継いだ家は、商会のある通りから少し歩いたところにある。
一階は人に貸していて、二階には小さな部屋が二つあった。
片方にはまだ母の荷物があり、空いている方に机と寝台を置いた。あとはそれほど広くない。それでも、窓を開けると通りの木が見えた。
衣装箱を運び入れ、私は部屋を見回した。
ここの家賃を、これまで何度もハーゲ家の支払いに回してきた。
今月からは、自分の食事や薪を買うために使える。
「食べるものを買ってくるわ。昨夜から、ほとんど口にしていないでしょう」
伯母の言葉に、ようやく空腹を思い出した。
「ありがとう。あとで、お金をお渡しするわ」
「では、好きなパンを教えて」
少し迷って、干した果実の入ったものを頼んだ。
伯母は頷いて、部屋を出ていった。
静かになった。
私は椅子に腰を下ろし、手袋を脱いだ。
左手の薬指に、白い跡が残っていた。
そこを撫でた途端、涙が落ちた。
一滴、膝の上のスカートに染みた。
慌ててハンカチを出したのに、次から次へと落ちてきて、追いつかなかった。
「……結婚、したかったな」
声にすると、余計に苦しくなった。
広い屋敷も、立派な式も、なくてよかった。
朝、同じ卓でお茶を飲んで、今日は何をするのか話したかった。
夕方には、彼が帰ってくる家にいたかった。
そういう暮らしが、もう少し待てば始まると思っていた。
うれしかったことまで、全部嘘だったとは思えない。
思い出すたびに、まだ胸が痛い。
指輪を返せたからといって、昨日まで好きだった人を、今日すぐに嫌いにはなれなかった。
私はハンカチに顔を押し当てた。
ここには、泣いた私を困った顔で見る人はいない。
しばらく、声を抑えることもやめた。
◇
伯母は私の顔を見ても、何も尋ねなかった。
パンを皿に置き、お茶を淹れてから、向かいに座った。
ちぎったパンには、思ったよりたくさん果実が入っていた。
「……甘い」
「もう一つ買ってあるわ。明日の朝の分」
私は小さく頷いた。
明日の朝、ヨルクの家へ行かなくていい。
この部屋で、続きを食べればいいのだ。
お茶を半分ほど飲んだところで、伯母が尋ねた。
「これから、どう暮らしたい?」
私は窓の外を見た。
「この家に住んでみたいわ」
「ええ」
「それから、仕事をしたい」
伯母は急かさずに待ってくれた。
「支払いの相談なら、できると思うの。帳簿を見て、いつ、いくら必要なのかを整理することなら」
口にしながら、心細くなった。
できると思っているだけで、お金を払ってまで頼みたい人がいるかは、まだ分からない。
「まず、オスモさんに相談してみる。商会の一角を借りられないか。それから、仕事を頼んでもらえそうかも」
長く取引してきた商会の代表なら、私が何をしてきたかを知っている。
無理だと言われたら、ほかの方法を考えよう。
「明日、手紙を出そうかしら」
そう言ってから、私は机の方を見た。
「……今日でも、いいわね」
誰かの返事を待って、空けておく午後ではなかった。
箱から紙とペンを取り出した。
仕事を始めたいことを添えて、面会をお願いする手紙を書いた。
いつでも伺います、としたところを、明日の午後にご都合はいかがでしょうか、に変える。
朝は、この部屋を片づけたい。
伯母が買ってくれたパンも、急がずに食べたかった。
使いに手紙を託すと、夕方には返事が届いた。
明日の午後二時、商会で待っているという。
その下に、もう一行あった。
『お仕事のことでしたら、ちょうど、ご紹介したい方がいらっしゃいます』
その一行を二度読んでから、私は手帳を開いた。
ヨルクのために空けていた明日の頁に、新しい予定を書き込む。
午後二時。オスモ氏と、仕事の相談。
書き終えてからも、しばらくその文字を見ていた。
七年分を取り戻せるわけではない。
それでも、明日の午後をどう使うかは、私が決められた。




