第1話 来月の花嫁は、妹だそうです
「結婚式は、来月にしようと思っている」
帳簿を抱えたまま、私は足を止めた。
ヨルクに呼ばれて訪れた書斎だった。来月、と唇の内で繰り返す。そんなに急では、衣装が間に合わない。でも、母の遺したドレスなら、仕立て直せるかもしれない。
「ベルタを、いつまでも待たせるわけにはいかないからね」
浮かびかけた言葉が、全部消えた。
長椅子に座る彼の隣で、妹が白い絹を広げていた。二人の間には、帳簿一冊を置く隙間もない。
「お姉様。この生地、きれいでしょう?」
ベルタが頬に絹を寄せる。
私はその白さを見つめながら、ようやく尋ねた。
「七年待たせて、妹とは来月結婚ですか」
ヨルクは眉を寄せた。
「そういう言い方はよしてくれ、トーヴェ」
彼が困ったように息をついたので、私は反射的に謝りかけた。
喉まで出た言葉を、飲み込む。
どうして私が、謝ろうとしているのだろう。
「私との婚約は、どうなるのでしょう」
「もちろん解消する。両家には私から説明しよう。同じエルケン家から嫁ぐのだから、縁組みそのものがなくなるわけじゃない」
伯爵家同士の縁は残る。
だから、問題はない。
その説明の中に、七年待った私の居場所はなかった。
私は二十歳でヨルクと婚約した。
今は、二十七歳だ。
最初に結婚を延期したいと言われたのは、婚約した年の冬だった。
当主になったばかりの彼は、長雨で壊れた水路の修復に追われていた。夕方まで領地を歩き、泥のついた靴で帰ってきては、書斎で支払いの書類を広げる。
私が手伝いを申し出ると、彼はひどく驚いて、それから笑った。
『ありがとう。君がいてくれてよかった』
夜更け、二人分のお茶を自分で運んできてくれたこともある。眠そうな私の手からペンを取り、今夜はもう休もうと言ってくれた。
私は、あの人と暮らすのが楽しみだった。
『家が落ち着いたら、きちんと君を迎えたい。もう少しだけ待っていてほしい』
だから待った。
彼も懸命に働いていたし、いずれ二人で暮らす家のためなら、と思っていた。
足りない支払いを私のお金で立て替えた。商会に出向いて、次の収入まで待ってもらえるように頼んだ。
お礼を言われなくなってからも、忙しいのだから仕方がないと思うことにした。
去年の誕生日には、身内だけの小さな式で構わないと伝えた。
衣装も新しく作らなくていい。ただ、日取りを決めてほしかった。
あの時も、もう少し待ってほしいと言われた。
「……家が落ち着くまでは、結婚できないのではなかったのですか」
ヨルクはベルタを一度見てから、私に向き直った。
「事情は変わるものだろう」
「何が変わったのでしょう」
「ベルタは不安がっているんだ。婚約したまま何年も過ごすのは嫌だと」
妹が彼の袖をつまんだ。
「わたし、ちゃんとお嫁さんになりたいの。お姉様なら、分かってくださるでしょう?」
分かる。
分かりすぎるほど、分かった。
私もなりたかった。
帳簿を届けに来る婚約者ではなく、同じ家に帰る妻に。
「私には、待てると?」
「君は、この家の事情をよく知っているからね」
ヨルクは、妹の手に自分の手を重ねた。
「ベルタは、私がいないと不安になると言っている。君は一人でもしっかりしているだろう」
褒める時の声だった。
昔なら、その信頼がうれしかったはずだ。
腕の中で帳簿の角が胸に当たっていた。痛いと気づいて、少しだけ抱え直す。
「いつ、お二人で決めたのですか」
「日取りのことか? 十日ほど前だ」
十日前。
私はその頃、彼の頼みで商会を訪ねていた。
帰りの馬車で手が冷えて、家に着いてもしばらく指が動かなかったことを覚えている。
その日に二人が何を話していたかは知らない。
ただ、私が何も聞かされないまま、この帳簿を今日まで整えていたのは確かだった。
「招待状も、もう選んだのよ」
ベルタが卓上の紙をこちらへ向けた。
金色の縁取りの中に、二人の名が並んでいた。
ヨルク・ハーゲ。
ベルタ・エルケン。
読み違えようのない文字を見て、私はようやく、彼の気が変わるのを待っても仕方がないのだと理解した。
この部屋へ来た時には、まだ自分の婚礼衣装を考えていた。
そのことが恥ずかしくて、悲しくて、二人の顔を見られなかった。
「そう、ですか」
それだけ答えるのに、ひどく時間がかかった。
ヨルクは安堵したように肩を下ろした。
「分かってくれてよかった。君なら冷静に話せると思っていたんだ」
卓上に置いた私の手へ、彼が手を伸ばした。
触れられる前に引くと、その手は空中で止まった。
今さら優しくされると、泣いてしまう。
「それで、今日の帳簿なんだが」
私は顔を上げた。
「……帳簿?」
「持ってきてくれたんだろう。婚礼の支払いが増えるから、いつものように調整してほしい」
聞き間違いではなかった。
ヨルクは、私が抱えている革張りの帳簿を指している。
「これからも、ですか」
「もちろん。君が一番よく分かっている。今さら他の者に任せるより安心だ」
隣でベルタも頷いた。
「お姉様がお金のことを見てくだされば、わたしも助かるわ。難しい話、苦手だもの」
結婚する相手は、妹。
支払いを整えるのは、私。
二人は相談するような顔をしていなかった。
もう決まった役割を、確かめているだけだった。
「私は、この家に嫁ぐつもりでお手伝いしていました」
「それは分かっているよ。だからといって、急に何もかもやめる必要はないだろう。君もまったく知らない家になるわけじゃない。妹の嫁ぎ先なんだから」
ヨルクの声には、私をなだめる響きがあった。
「これまでどおりでいいんだ」
これまでどおり。
私は立ったまま、妹と彼が並んで座る姿を見ていた。
ベルタの膝には花嫁のための絹があり、私の腕には帳簿がある。
ここへ通い続ければ、私は二人の婚礼代を計算するのだろう。
足りないと言われたら商会へ頭を下げて、それでも足りなければ、自分のお金を出す。
彼の妻になった妹から、お姉様ありがとうと言われながら。
そこまで考えて、初めて、嫌だと思った。
私は帳簿を卓上に置き、印を挟んだ頁を開いた。
「三週間後に、商会と私への返済があります」
数字の話なら声が震えなかった。
おかげで、少しだけ息ができた。
「必要なお金は、すでに残してあります。この分を使わなければ、予定どおり支払えます」
「ああ。それを婚礼の手付けに回したいんだ。秋の収入まで待ってもらえばいいだろう」
「待っていただけると、決まっているわけではありません」
「君が話せば大丈夫だよ。今までも何とかなったじゃないか」
何とかした。
支払う日を何度も計算し直して、約束した日には必ず届けて。
それでも足りない時には、母から受け継いだ家の賃料を充てた。
けれど今、そこまで説明する気にはなれなかった。
「返済のためのお金です。婚礼には使わないでください」
私はそれだけ告げて、帳簿を閉じた。
ヨルクが少し笑った。
「君は本当に心配性だな。そこが頼りになるんだが」
私が返事をしなくても、彼は笑顔のままだった。
私が怒るかもしれないという心配さえ、していないらしい。
婚約を解消されても、明日になればまた帳簿を持ってこの部屋へ来る。
そう信じているのだろう。
七年も待った。
今やめたら、その七年はどうなるのだろう。
これまでも何度か頭をよぎって、そのたびに打ち消してきた問いだった。
でも、この人と妹の婚礼を手伝ったところで、私の婚礼が早まるわけではない。
私を花嫁にすると言ってくれた人は、もう別の花嫁を選んでいる。
私は指輪に触れた。
細い金の輪は、二十歳の時と同じように指に収まっていた。
すぐには外せなかった。
好きだったのだ。今日この部屋に入るまで、本当に。
それでも、頷くことだけはしたくなかった。
「明日、婚約解消の書面をお持ちします」
ヨルクがまばたきをした。
「ああ、そうしてくれ。君が用意してくれるなら助かる」
いつもの返事だった。
私はその先まで、ゆっくり告げた。
「立て替えているお金の確認書も用意します。帳簿と鍵をお返ししますので、これから担当する方をお決めください」
「待ってくれ。帳簿を返す?」
初めて、彼が長椅子から身を起こした。
「今も言っただろう。そこは君に続けてもらいたいんだ」
「お引き受けできません」
「どうして。君にしか分からないことだってあるのに」
「引き継げるように、書いておきます」
彼の隣で、白い絹が膝から滑り落ちた。
私は拾いに動きかけた手を止めた。
ベルタには両手がある。隣には、来月夫になる人もいる。
「お姉様、そんな急に言われても困るわ」
「私も、今日初めて聞きました」
喉が痛かった。
それでも最後まで、顔を上げて言えた。
「結婚相手を替えるのでしたら、支える相手も替えてください」




